河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

広告

BtoB企業での新聞広告やテレビCMの活用効果

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ㉖


《質問》

弊社は建設機械や運搬関連器具を製造販売していますが、現在ほとんど広告活動を行っておりません。その理由は弊社のようなBtoB企業ではマスメディアで広告を行っても受注にはあまり寄与しないという昔からの感覚があるからです。私は個人的にはもっとマスメディアを活用して知名度を上げることも企業として重要なのではないか、と思っているのですが、上司からは「そんな無駄なことは必要ない」のひと言でなかなか広告予算が配分されないのが悔しく思っています。そこで質問したいのですが、本当にBtoB企業ではマスメディアを活用しても効果は期待できないのでしょうか? もし活用するとすればどのような広告展開が可能なのかご教授いただくようお願いします。(建設機械メーカー・営業企画部)

 

《回答》

大変貴重なご質問を頂戴しありがとうございます。

確かに多くのBtoB企業はマスメディアを軽視する傾向が非常に強いのが現実の中で、貴方の広告に対する前向きな姿勢に敬服します。

まず新聞広告の価値については、本Q&Aシリーズ④で述べておりますので、併せてご覧いただければより詳しくご理解いただけるかと思います。

今回は少し視点を変えてお答えしたいと思います。

まずBtoB企業における新聞広告やテレビCMに対する取り組み姿勢は、はっきり言って間違っています。貴方の考え方の方が正しいのです。このことについてしばらくお話しします。

企業の上層部が「受注への寄与率が低いからマスメディア広告を控えたい」という気持ちはよく分かります。しかしとりわけBtoB企業はその商材の購買プロセスが非常に複雑で多くの組織にまたがって決裁される傾向があります。マス広告が受注に寄与しないと言う理由は、まず広告ターゲットを間違っているからです。最も購買に関与するターゲットは顧客企業の決裁権を持つ上層部です。最も強い決裁権を持つのは「社長」です。こういった人たちをターゲットにせず、ただ漠然と企業PRに終始している広告が少なくありません。情報過多の現在ピンポイントでターゲティングしなければ、広告という情報は単なるノイズとして受け流されてしまいます。

したがって新聞広告で重要なのは顧客企業や社会に対するブランディングを意識した広告です。ターゲットは社会ではオピニオンリーダー、企業では決裁権を持つ上層部となりますが、ひと言で言えば社長向けの広告とも考えられます。ここでは商品のPRに終始するのではなく、社会や顧客企業が抱えている課題もしくは将来課題に発展するであろう問題点に対するソリューション、つまり御社がこれらの課題にどのような技術や商品で解決できるのか、を明確にメッセージすることが大切です。つまり美辞麗句満載のPR広告ではなく、社会も顧客企業も気づいていない課題に対するメッセージを発信するのです。

人でも企業でも自分たちが気づかない課題とソリューションを明示されれば、その企業の信頼性は急激に向上するものです。この「社会や企業が気づいていない課題」がポイントになります。

このような新聞広告はまだ現在は極めて少ない状況ですが、将来、新聞広告の大きな役割は社会(企業を含めて)が抱える課題の提示とそのソリューションをメッセージする広告スタイルが主流になってくると思います。

また新聞そのものの価値については前述した過去の本欄をご覧いただければ理解できると思いますが、ネットが普及した現在でも印刷媒体としての新聞の価値は決して衰えてはいません。確かに新聞の販売数量は徐々に低下していますが、それはBtoB分野に限れば一社あたりの購読数がインターネットの影響で低下しただけのことで、メディアとしての新聞の価値が低下したものではありません。

一方テレビCMについても前述とまったく同様のコンセプトで問題ありません。社会に対するメッセージCMは新聞以上に到達率は高いでしょう。しかしここで気をつけなければならないのは、単に視聴率を気にしてくだらないバラエティ番組に関与しないことです。BtoB分野であってもテレビは一人の心理変容が影響します。テレビCMは番組の流れを引きずった状態で見られます。その意味では番組の流れを邪魔しないテイストで構成しなければなりません。バラエティ番組であればバラエティ風のCMになってしまいます。そこで小難しいメッセージを発信してもおそらく視聴者はトイレに行くだけでしょう。テレビCMでの狙い目は、視聴ターゲットが明確で「ながら視聴」の少ないBSCSを選択した方がいいでしょう。広告料金も地上波に比べると格安ですから。

新聞広告にしろテレビCMにしろ、そこで商品が売れることは期待できません。そのことが御社の上層部が言われる「マス広告をしても受注に結びつかない」と思われている所以です。メディアはそれぞれ役割分担を持っています。マス広告で注目された後はほとんどの場合WEBサイトにアクセスされます。したがってWEBサイトの構成も上述したメッセージ広告をさらに詳細に述べたサイト構成は不可欠となります。この件に関しては紙幅の関係上Q&Aシリーズ⑲の「プロモーションサイト」について言及した本欄をご覧ください。


 新聞広告は確かに最近は低調気味ですが、それはまず新聞の価値を正確に把握していないことと、昔のようなダイレクトに新聞広告からの引き合いが低下したのが主な要因です。新聞広告は社会に対する自社からのメッセージであること、そして引き合いや意見はWEBを通じて行われていることを充分把握しておくべきでしょう。

ところで新聞広告に代わってインターネット広告が主流だと言われていますが、それこそBtoB企業でインターネット広告はあまり効果はありません。単に価格が安いだけでどこもかしこもインターネット広告に躍起になっていますが、BtoB企業でのネットアクセスの目的を考えると画面にちらちら出てくる広告をクリックする暇などないのです。それよりも、昨年末話題になった「vvvウィルス(ランサムウェア)」が気がかりです。当初はインターネット広告にウィルスが仕込まれていたと言われていましたが、実際はそうではなくメールの添付ファイルが原因でした。しかしよく考えればデジタルの世界はもうなんでもありです。インターネット広告にウィルスを仕込ませる事はそんなに難しいものではありません。それが現実になるとインターネット広告そのものの価値が急減してしまい、おそらく最も安全な新聞広告やテレビCMに回帰してくるはずです。ちなみに私はウィルスが恐いと言うより、前述したネットアクセスの目的に関係ない広告が煩わしく「広告ブロッカー」をブラウザに搭載していますから、インターネット広告は一切目にすることはありません。今後広告に興味ない人やとりわけセキュリティにうるさい企業でも広告ブロッカーを搭載する事が考えられますし、そうなればインターネット広告はまったく本来の機能は果たせなくなってしまうのです。

いずれにしても、新聞の価値は低下したわけではなくこれからは各企業ともメッセージ主体の広告が主役になってくると思います。これこそが本当のCSRなのです。

このようなマスメディアの活用を行えば、結果的に御社の信頼度は向上し受注にも貢献できると考えています。

広告宣伝部門における社員教育について

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ㉓

《質問》
 

弊社は創業40年で年商300億円の中堅企業です。このたび創業以来初めて本格的な広告宣伝部ができ、私もその部署に配属されました。それまでは企業広告は総務部が、製品広告やカタログ及び展示会は各事業部が行っていました。企業ブランドの観点から広告宣伝業務を一箇所に集中させることがその目的だそうです。そこで質問ですが、私を含めて部員は5名ですが皆広告宣伝に関しては素人同然です。もちろん部長も以前は生産本部におりましたので広告に関しての知見はまったくありません。このような組織をできるだけ早く軌道に乗せるための社員教育をどのようにすればよいのかご教授いただきたく、恥ずかしながら質問させていただきます。(電子部品メーカー・広告宣伝部)
 

《回答》
 

広告宣伝部門における社員教育の手法がご質問の内容だと思いますが、じつは現在多くの企業で間違った社員教育による弊害が起きています。とりあえず広告宣伝部門から外れて一般的な社員教育の実態を述べたいと思います。
 

現在多くの企業が行っている社員教育は外部のコンサルタントなどによる階層別研修がほとんどです。階層別研修というのは、たとえば部長研修や係長研修など昇進に伴う階層ごとに研修を行う手法です。この研修方法が好ましくない理由として、まずそれぞれの階層に応じて同じプログラムで行い、その多くはたとえば「部長はこうあるべきだ」という内容です。それをもっともらしくゲーム理論などを応用して行うのですが、要するに均質化された社員を育成するプログラムと言えるでしょう。
 

本来、社員は様々な個性を持っており、その個性そのものが企業の財産でもあるわけです。しかしこの研修では極論を言えば各人の個性をなくし、同じような社員に仕立て上げることが目的となっています。そこが最も大きな問題点なのです。
 

企業の個性や独自性は言うまでもなく社員の個性や独自性によって決定されます。カリスマ的な社長を持つ企業の場合は、社長の個性が企業の個性に置き換わる場合がありますが、その結果社員の個性は著しく毀損される傾向が強いです。階層別研修はいわばカリスマ社長に代わって外部コンサルタントが社員の個性を埋没させる作業を行っているとも言えます。
 

私は40数年間ある企業で広告宣伝部門の責任者としてその任を背負ってきました。振り返ってみるとここ20年くらい前から不思議な現象に気づいていました。広告宣伝部門ですから取引先はプロダクションやメディア、代理店、印刷会社が多いのですが、20年ほど前からどの企業の営業担当も同じようなプレゼンの仕方を行うようになってきたのです。そこには昔見られた各社の独自の営業手法が跡形もなく消えていました。20年前と言えば各社が階層別研修に注力し始めた時期と一致します。つまり、この研修手法によって各企業の社員は個性を奪われ、マニュアルに従った営業手法が身についてしまったのでしょう。いわゆる社員のコモディティー化です。
 

こんな営業手法では顧客(つまり私自身)を説得することは不可能です。ビジネスと言えども、人と人との付き合いはそれぞれの個性がぶつかり合って面白みが生じ、上手く行けば受注につながるものです。
 

このように階層別研修には多くの問題点があるにもかかわらず、それに気づいていない企業は少なくありません。
 

基本的には社員教育で重要なのは専門教育であり、それを具現化したOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)です。たとえば営業部門なら階層別ではなく外部の優れた営業担当者(たとえば商事会社など)から教育を受けるなどですが、最も効果的でコストがかからないのはOJTなのです。しかしじつはそのOJTが今不可能になりつつあるのも現実です。それはリーマンショックやそれ以前の不況時に多くの優秀な社員が早期退職などで解雇されたことが原因です。したがって今OJTをしようにも、プロはどこにも居ずまわりは素人ばかりというのが現状でしょう。
 

そこで本題に入りますが、御社の場合はまさにOJTが不可能な状況だと思います。その中でどのようにして社員教育をすればよいかですが、まずくどいようですが階層別研修には極力参加させない方がよいでしょう。御社の事情でどうしても参加しなければならないのなら、参加したフリをするだけであまり真剣に取り組まない方が望ましいと思います。なぜなら広告宣伝部門が最も気をつけなければならないのは、この部員のコモディティー化だからです。
 

本来は広告宣伝部門に特化した専門教育が必要なのですが、それを総合的に行う外部コンサルタントはおそらく見つからないでしょう。その場合、BtoB広告協会で行っている「BtoBコミュニケーション大学」に参加されるのが最も効率のよい学び方だと思います。なんだか宣伝ぽくなって恐縮ですが、広告宣伝業務に必要な基礎的な理論や事例を手っ取り早く短時間(3カ月程度)で習得できますので。
 

しかしこのコミュニケーション大学の講義も基本的には基礎理論が主となっており、それを応用して御社独自の広告宣伝メディアの展開をされるには、また御社独自のポリシーが必要となってきます。
 

他にいわゆる広告宣伝の有効な手法などと言ったビジネス本に頼ることも考えられますが、それはできるだけ避けた方が無難です。先日ビジネス本を多く出版しているある有力出版社の役員と話したのですが、その時彼が言っていたのは「優秀なビジネスマンはビジネス本は読まない。無能な人ほどこれらの本に頼りたがる。そんな人間を相手に本作りするのもなかなか辛いものです」と。
 

要するにビジネス本などでノウハウを会得しても結局前述の階層別研修と同じ結果が待ち受けているのです。つまりその本を読んだ人は皆同じ手法をとり結局コモディティー化から抜け出せないというわけです。
 

最近の広告(カタログや展示会も含めて)は単なる「通知」になっており、広告で最も重要な「感動」「共鳴」「共感」をめざしたクリエイティブがほとんど見られなくなりました。本来広告はマーケットや社会、顧客に対して意外性や驚きを与え、それに感動させて共鳴してもらうことが重要な役割であるはずです。その意味では他社の右へならえ的な広告は何の意味もなく、御社独自の切り口やコンセプトが何よりも不可欠な要素となってきます。
 

   OJTも不可能で広告宣伝の専門教育もできない実情ではどうしても他社の優れた広告作品をお手本にしがちでしょう。それもひとつの有力な学び方と言えますが、ここで重要なのは、勇気を持って他社とはまったく正反対のコンセプトやクリエイティブに挑戦することです。広告にはセオリーは存在しません。もっと自由にもっと気ままに広告作りを続けていくことが最善の教育となるでしょう。そしてその積み重ねでやがてOJTが可能になる時期が来ます。しかし、とは言ってもコミュニケーションの基礎理論は熟知しておく必要はありますので、その場合はBtoBコミュニケーション大学で得た知識がものを言うと考えています。     

効果的なプロモーションサイトの作り方

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ⑲

《質問》

弊社では昨年からインターネット広告に注力しています。現在は広告をクリックすると弊社WEBサイトの所定のページにジャンプする仕組みで対応していますが、その効果が具体的に把握できません。確かにインターネット広告を行う以前よりも少しだけアクセス数が増えたようですが、それが弊社の受注にどれほど寄与しているのかまったく不明です。インターネット広告を行う場合、現状のようなやり方でよいのか、それとも特設ページを作る必要があるのか(予算の関係上難しい面もありますが)ご教授いただければ幸いです。またインターネット広告での効果測定はどのようにすればいいのか併せて教えていただきたく、よろしくお願いします。(機械加工メーカー)

 《回答》

まずインターネット広告の効果については本誌の201411月号をご覧いただければと思います。一言で言えば私の個人的な見解では少なくともBtoB業界においてはインターネット広告の効果は期待できないと理解しています。

さてご質問の内容を少し整理してみたいと思います。インターネット広告は一般の新聞広告や雑誌広告などと同様にいわゆる「広告」です。しかし新聞広告などと異なってそのコンテンツは極めて希薄であり、説得力もありません。その意味ではたとえば新聞広告で言えば「突き出し広告」と同様の機能しか持っていないと考えられます。

そこで重要なのがインターネット広告からどのようなページにジャンプさせるかです。御社がなされているような、通常のビジネスサイトの所定のページにリンクするやり方はかなりイージーでありあまり効果は期待できません。つまりこの方式では単に検索エンジンの代わりにインターネット広告を用いているに過ぎないのです。

BtoB分野でのクロスメディアの観点から見れば、いわゆる新聞、雑誌、テレビなどのマスメディアでの広告で商品が売れることはまずありません。これらのメディアの活用目的は各社様々ですが、ブランディングや商品の告知、見込み客の獲得などに留まっています。話はそれますが、これらのマスメディアから得られた見込み客を顧客に変換する装置としてじつは「展示会」が存在します。あるいは見込み客に対する営業活動(フェイスツーフェイスでの商談)もその刈り取りに重要な役割を演じます。

この流れから見ると、インターネット広告は内容の希薄な広告でありそれだけでは見込み客は得られません。だから所定のページにジャンプさせてそこで商品や技術の詳細を述べて見込み客を得る仕組みになっています。いわば二段構えの広告戦略とも言えますし、穿った見方をすれば無駄の多い広告活動とも言えます。

ではどのようなページにジャンプさせるのが効果的なのか考えてみたいと思います。前述のように広告から得られた見込み客を顧客に変換するために展示会や営業活動が必要になります。それならば、インターネット広告からジャンプさせるページは十分な営業力を持つページでなければなりません。いわゆるスペシャルサイトとかプロモーションサイトと言われる特設ページがそれにあたるわけです。ここでは当該商品や技術・サービスの内容を分かりやすく理解してもらうために、図表や動画などを充分駆使しなければなりません。何しろ通常営業と異なってフェイスツーフェイスの商談ができないわけですから、それに匹敵するくらいの説得力を持つサイトでなければならないのです。

ここで注意しなければならないのは、商談現場のプロセスを無視してやたら画像を大きく扱ったり動画をふんだんに使ったりすることです。そのようなサイトでは訪問者は視線移動が激しくなり整理された形で情報伝達ができないため、記憶にも残らず当然説得力もなくなります。あくまでも商品やサービスを売ることが目的ですから、実商談のプロセスを尊重し起承転結を明確にして丁寧に述べることが大切です。

しかしコミュニケーション達成率から考えても、営業担当による商談能力以上のサイト構築は事実上非常に困難だと言わざるをえません。たとえば営業担当がフェイスツーフェイスで1時間かけて商談する内容を特設サイトで構築すれば気が遠くなるほどのページ数が必要になり、読み手もすべて網羅して読んでくれるとは限りません。そこで威力を発揮するのが映像なのですが、残念ながら現状ではWEBサイト上での映像表現に優れたスキルを持つ人材が極めて少ない問題があります。

そしてもっと重要な問題がここに秘められていることに気がつきます。十分に営業活動に匹敵できるサイトがもし構築できるなら、何も特設サイトやスペシャルサイトなど気にせずにすべての商品やサービスをスペシャルにすればいいのです。当然コンテンツ量も数倍に膨れあがりますし、それなりの制作コストも必要になるでしょう。しかしその一方で、貧弱なコンテンツよりも遥かに検索エンジンにヒットされやすいポジティブな側面が生まれてきます。

現在インターネットはほぼ飽和状態にあり、WEBサイトへの訪問数や引き合い(見込み客)数も右肩上がりではなくなっている状態です。いわば企業におけるインターネットビジネスの限界がそろそろやってきたとも言えますし、それを打開するためにも従来のような画一的なCMSを利用したコンテンツ制作から一歩前に出て、すべての商品やサービス、さらには企業そのものをもっとダイナミックにスペシャルサイト化すべき時代になってきていると考えます。

しかしここまでコストをかけてスペシャルサイト化したところで、BtoB業界ではWEBサイトで直接受注に結びつけることは極めて希です。と言うことは、どんなに優れたサイトであっても、購買プロセスから見れば所詮は広告と何ら変わりがないとも言えます。

インターネット広告の効果測定についてですが、ずばり見込み客の獲得数になります。コスト効率を考えるならサイト構築に費やしたコストを獲得見込み客数で割れば算出できますし、その数値の推移を追いかけていくことが効果測定の原点になります。訪問者数が多いとか、特定のページでの滞留時間が長いなどは効果測定には何の影響も与えません。

一方で見込み客を顧客化(受注する)するには展示会か営業活動を待たなければなりません。そこで重要なのは展示会にしろ通常営業にしろいわゆる対面営業のスキルが問題になってくることです。多くの作業がデジタル化された現在、対面営業のスキルの低下が各社とも顕著になっています。その原因はここでは述べませんが、どんな優れた広告であってもWEBサイトであっても、最終的な見込み客の刈り取り能力がなければこれらに投下したコストはすべて無駄になってしまいます。その意味でも、まず営業担当の商談力の強化(セリングの強化)が今重要な時期だと思っています。

 

代理店の使い方/専門家がいない宣伝部(中小企業)

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ⑮

《質問》

弊社は年間売上高100億円に満たない中小企業ですが、宣伝部員は私を含めて2名です。主な業務は製品カタログ制作ですが、現在は印刷会社にお願いしています。マスメディアの広告は業界紙における製品広告が主体ですが、広告原稿はカタログ同様印刷会社にお願いしています。展示会は通常2小間程度で、営業部隊が取り仕切っており、宣伝部員は装飾の手配が主たる業務となっています。今後業容の拡大に伴ってマス広告や展示会の拡張などが予測され、それに伴って広告代理店の使用を考えているのですが、広告代理店とお付き合いするにあたって必要な事柄や対処の仕方などについてご教示いただければ、と思います。(樹脂部品メーカー・宣伝担当)

《回答》

代理店を使うにあたってまず基本的なスタンスを明確にしなければなりません。それには2つあります。

まず、宣伝業務を通常の仕事と考えてとりあえずうまくこなしていくやり方です。要は、宣伝業務をつつがなく行える体制を作ると言うことですが、他の業務とほとんど変わりがない日常業務となります。

もう一つは、宣伝業務を企業と社会や顧客とのコミュニケーションの重要な役割と認識し、さらにとくにクリエイティブに達成感や喜びをもたらす体制づくりです。

本来宣伝広告業務の醍醐味は後者にあるのですが、現在ほとんどの企業が理屈はともかく前者の体制を組んでいます。その要因として人事ローテーションがあります。宣伝部門に配属されて23年すると他部署に異動ともなれば、クリエイティブのおもしろさや達成感を味わっている暇もありません。したがってとりあえず指示された仕事をそつなくこなすという意味で社外の広告代理店などに丸投げしているケースが多いと思われます。

御社若しくはあなたがどの方向を取るかによって、代理店との接し方も変わってきます。前者の場合ですととくに難しくはありません。適当にオリエンテーションを行えばそこそこの品質のものは出来上がってきます。ただ、代理店はあくまでも代理ですのでクリエイティブに関する仕事は外注されますし、当然営業経費もかかってきます。したがってコストはかなり高めになることは覚悟が必要です。ただ、大手の広告代理店の場合は社内でマーケットリサーチの研究部隊を持っていますので、それらの資料やデータを入手することが可能です。これは社内稟議の際に大いに役立つものです。もちろんそのデータ入手に於いてもそれなりのコストは必要となります。さらに最も問題なのはこのケースは仕事は簡単ですが、社内にノウハウの蓄積が期待できないことです。

御社の現状を考えると、私はむしろ後者を選んだ方がいいと思います。

あなたが広告宣伝業務にどれほど魅力を感じておられるのか不明ですが、社会や顧客に対して企業の最前線でメッセージしていくこの業務は非常に魅力的です。中でもクリエイティブはいわば競合企業やその他大勢の企業との戦争とも言えますし、それに打ち勝ちクリエイティブひとつでオーディエンスの心を動かせるのは広告宣伝業務の最大の魅力であり、使命でもあるのです。

そこでこの場合、時として代理店の存在が邪魔になることがあります。仮に代理店に発注する場合、必ず営業担当と打ち合わせすることになります。もちろんオリエンテーションなどではデザイナーやコピーライターなどのクリエイターが参加する場合もありますが、酷い場合はオリエンテーションですら営業担当しか参加しないケースも見受けられます。オリエンテーションにクリエイターが参加した場合でも、その後のプレゼンでは営業担当との交渉となります。そうすると、代理店内部でどういうことが起こるかといいますと、いわゆる伝言ゲームに似た様相を呈してきます。

とりわけプレゼンの場合、当方の要求を一応営業担当に伝えても、その営業担当がどれほど明確に当方の要求や改善点をクリエイターに伝えているのか非常に疑問に感じる場合が少なくありません。

その繰り返しで何度もプレゼンのやり直しという最悪のケースも生まれてきます。コストは時間に比例しますから、そうなれば当然トータルコストは大きくならざるを得ません。もし広告代理店を使う場合でも、営業担当は抜きにして直接クリエイターと協働したほうがコストも時間も少なくて済みます。

そこで最もコストを安価に、しかも優れた作品を作り上げる方法を提示します。

それは代理店を使わずに直接クリエイター(デザイナーやコピーライターまたはデザイン会社)と取引することです。少々面倒な部分はありますが、このスタイルで行けば自ずと広告や宣伝業務のおもしろさや使命感が身についてきます。

その理由として重要なのは「自社の製品やサービス、ブランドについては当該企業の従業員が最も良く認識している」ということです。本来なら製品や企業理念を熟知した従業員(つまりあなた方)が自ら広告作りを行えば最高なのですが、クリエイティブに関する専門知識がなければそう簡単に進めることもできません。つまり、代理店にしろ外部クリエイターにしろいわゆる外注する意味は、「表現面での専門技術」を頼りにすると言うことになります。そこでは前述した専門技術を持たない代理店営業担当はむしろ余計な存在になってしまうのです。

私は現役時代からクリエイティブに関しては直接デザイナーやコピーライターとともに仕事を行い、充実した結果を残せました。その最大の要因は、自社を最も熟知している私のビジョンや夢、社会に対する提言などをクリエイターが共有してくれて、作品として定着してくれた結果だと考えています。

この場合、けっして一流のクリエイターとチームを組む必要はありません。むしろ若手のこれから伸びようとするクリエイターの方が、ともに成長していこうとする姿勢も見られ、試行錯誤しながらも作品を作る喜びを共有できるものです。

一方製品カタログに関してはもう一つ興味深い手法があります。前述のように製品に関しては誰よりも自社の開発担当や営業担当が熟知しているはずです。それならば彼らをカタログづくりに参加させればいいのです。何も代理店を使う必要もありません。製品カタログは営業担当のツールであり、できるだけ営業担当が使いやすい編集が望まれます。その意味では、たとえば御社の最高の営業担当に模擬商談を行ってもらいます。客先の代理は宣伝担当でいいでしょう。時間は2時間程度徹底的に製品の売り込みを行ってもらい、その内容を録音します。その後、商談内容をカタログに再編集すれば最高に役立つ製品カタログが簡単に出来上がります。編集作業に専門的な知識がなければ、外部のデザイナーに直接依頼してもいいと思います。こうすることによっておそらく製品カタログの製作コストは3050%押さえられるはずです。

いずれにしても冒頭に記した様に、御社が宣伝業務をどのように捉えているかによって代理店の使い方は変わってきます。

 

リクルート広告の効果と、採用時の要件に関してのご相談

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ⑫
 

《質問》

そろそろリクルートにも本腰を入れなければならない時期がやってきました。いつもこの時期になると大企業は大きな広告や立派な入社案内を作っていますが、弊社は売上高が300億円に満たない中堅企業で、リクルートにはほとんどお金がかけられません。このような状況の中で優秀な人材を確保するにはどのような方法があるのでしょうか。ご教示ください。ちなみに広告宣伝費は1.2億円程度でそのほとんどはカタログと展示会に費やしています。(電子部品製造メーカー)

 

《回答》

ご指摘のようにこの時期になると各社ともリクルートを意識して派手な広告が目立ちはじめています。一見「ブランディング」を意識しているようですが、正直なところ歯が浮いたような綺麗事の羅列には私自身も辟易しています。

ところでこのリクルート広告。おそらくバブル時に全盛を極め、その流れが不況になった現在でも継続している不思議な広告です。各社とも有能な人材を確保したいのは十分理解できますが、だからといってあまりにもアピールの強すぎる広告はいかがなものか、と思っています。

じつは私は企業が行うリクルート広告には否定的な立場をとっています。その理由はリクルート広告だけが他の広告とは異質なコミュニケーションプロセスを持っているからです。

本来広告は売り手から買い手に対して行うものです。その効果測定には多様な手法がありますが、要はどれだけの引き合いがあったか、そしてその結果どれだけの受注が得られたか、につきると思っています。ブランディング広告では単に商品の受注額以外に企業認知度やイメージの変化が効果測定の要因に入ってきます。

ところがリクルート広告はどうでしょう。唯一リクルート広告だけが買い手が売り手に対して広告しているのです。こんな不思議な光景が現在もまかり通っていることに強い違和感を覚えます。いやちょっと待て、リクルート広告は将来就職すべき企業を買うための情報源だから、やはり企業イメージを売る企業から買い手である学生に対して広告しているのではないか、と言う意見も当然予想できます。

しかし、仮に広告に感動して入社した学生が、その後自由に企業をハンドリングできるでしょうか。希望していない人事異動や個人の特性に合わない仕事を強いられるなど、社員の企業における人生は企業によって左右されてしまいます。言いかえれば買い手である企業が借った人材をどのように使うかは企業側の論理によって決定されてしまうのです。このことから見ても、学生は「買い手」ではなくあくまでも「売り手」なのです。会えて誤解を恐れずにいうならば、企業は「学生」という商品を買うために広告していると言うことになります。

リクルート広告によく似たスタイルを持つものにIR広告があります。これは投資家が企業(の株式)を買うわけですから、まさに売り手の企業から買い手の投資家に広告しているのです。そして買った企業が気に入らなければ株式を自由に売却することができます。しかし就職した学生がそんなに簡単に企業に見切りを付けることはできません。

バブル以降延々とこの不可解なメディアが氾濫している背景には、まず大学の怠慢が上げられます。今でこそ各大学においても広報の必要性を重視しだしましたが、まだまだ大学側からのリクルート広告を目にすることはほとんどありません。時折目にする大学の広告も、単に大学紹介に止まっており、とても有能な人材を「企業に売り込もう」という意識は見られません。

ここで重要なのは拙著「ASICAれ!」で述べているASICAモデルの課題探索がトリガーになるべきなのです。仮に企業側がリクルート広告を行うとするなら、現在のような綺麗事にまみれた広告ではなく、現在そして将来の企業発展に不可欠な課題を学生に提示するような広告にすべきです。たとえば「今我々はこんなことに困っている。そのためにこんな能力を持つ学生を望む」と。そして大学側は、それぞれの大学と学部の特色を述べて、「ここにはこんな有能な人材がいて、こんな課題解決に貢献できる」というような広告を打つべきなのです。本来なら売り手である学生個人の広告がもっとも興味あるところですが、資金の問題からそれは不可能でしょう。だからこそ大学が学生に成り代わって、企業の課題解決にふさわしい学生を紹介するのです。

本来、リクルートは広告をまったく必要としない分野だと思っています。私の学生時代はそんな広告は目にしませんでした。ではどうやって就職したのか。先輩からの一本釣りです。当時は学生と社会人となった先輩との交流が盛んでした。そして学生は知らず知らずのうちに「あの先輩と一緒に仕事がしたい」と思うようになってきます。おそらくその過程で先輩は有能な学生に目を付け「俺のところに来ないか」というわけでめでたく就職となるわけです。この仕組みは現在でも極めて有効だと思います。

今でもインターンシップなどの制度がありますが、それをもっと有効に機能させるべきでしょう。そしてなにより企業と大学の垣根を取り払ってもっと柔軟なコミュニティを作るべきです。コミュニティの中心にいるのは言うまでもなく先輩です。余程の企業でない限り多くの優秀な社員がいるはずです。その社員と出身大学の学部との間で定期的な交流をもつコミュニティを形成するということです。1年間程度学生を見ていれば、自社の課題解決にふさわしい学生がいるかどうかは判断できるはずです。そして一本釣り。これがもっとも効率的なリクルートではないでしょうか。

現在はスマホやWEBから多くの学生が採用試験に応募してきます。そしてその面接を行うのはほとんどの場合人事部です。人事部が自社の課題を充分把握しておればいいですが、単にはきはきしているとか、礼儀正しいとか、知識が豊富だとか、いわゆるリクルートマニュアルに書かれている項目で振り落とす仕組みはけっして企業に利益を生み出させるものではないと思います。私たち、とりわけBtoB企業では商品の購買にはもっと慎重になっているはずです。この慎重さを先輩社員に託すのです。

御社の広告宣伝費は、大変失礼ですがとても立派なリクルート広告を行う域に果たしていないと思いますし、仮にそんな広告を行ったとしても御社の将来に貢献する人材が見つかるとも限りません。綺麗事にまみれた広告に憧れて入社したとしても、定着率は低下する一方で、ひいては技術や企業哲学の伝承に支障を来してしまします。

リクルート専用サイトは価格も比較的安価ですし、ここへの登録と御社のWEBサイトでの採用ページをしっかり作り込むことだけで充分です。後は先輩社員に頑張ってもらいましょう。

よいメッセージ広告の作り方

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ⑨
 

《質問》

電子部品関係の中堅企業で広告を担当しています。先日ある講演会で、「広告にはメッセージ性が必要だ」といわれました。そもそも広告は広告主からオーディエンスに向けたメッセージだと思うのですが、あえてそこにメッセージ性が必要という意味がよく理解できません。通常の広告とメッセージ性を強調した広告の違いはどこにあるのでしょうか。また本当に広告にメッセージ性が必要なら、具体的にどのような視点で広告制作を進めればいいのでしょうか。質問内容が抽象的かも知れませんが、できるだけ分かりやすくご教授いただければ幸いです。(電子部品メーカー広告担当)

 

《回答》

ご指摘のように広告はすべてメッセージです。しかしメッセージとメッセージ性とは少々異なった意味合いを持ちます。いうまでもなくメッセージとは伝えたい言葉や内容、つまり広告で言えばキャッチコピーやボディコピー、ビジュアルなどすべてがメッセージと言えます。

一方広告でのメッセージ性とは、メッセージの意味をオーディエンスに想起させることを意味します。なんだか禅問答のように聞こえるかも知れませんが、じつは意外に広告主が伝えたい内容(メッセージ)がそのままオーディエンスに理解されるとは限らないケースが少なくありません。それどころか、単刀直入のメッセージは昨今の時代、見向きもされない場合もあります。その要因はインターネットなどに代表される情報の過剰供給にあります。インターネットが普及する以前と比較して我々は現在では膨大な情報に晒されています。その量は数千倍になるでしょう。一方で情報消費量はたかだか数十倍に過ぎません。要するに我々はもはや情報に対する消化不良を起こしているのです。

そんな中でいくら広告でメッセージを発信しても、見てくれるだけで有り難い。とてもメッセージの内容まで理解してもらえない、という現象に陥っています。それが最近「広告が効かない」と言われる所以です。

広告はとかく注目率が注目されますが、いくら注目されても記憶されさらにリコール(思い出し)されなければ意味がありません。インターネット普及以前の情報量が穏やかな時代では、注目されれば無意識に記憶プロセスまで及んでいました。しかし前述のように情報の消化不良の中では、記憶プロセス開始前にまた別の情報に晒され正常な記憶をなされることが少なくなっています。

したがって広告分野でのメッセージのあり方は、インターネット普及以前とその後では大きく変革しているのです。私はその混乱を避ける意味で単刀直入なメッセージは「アピール」と称しています。情報の伝達効率を考えれば単刀直入に言いたいことを述べるアピールが優れているのは言うまでもありません。しかし前述のようにそれが記憶されなければ広告の意味はなくなってしまいます。

少し横道にそれますが、文学の分野では文章の書き方に「異化」と「自動化」と言われる手法があります。通常分かりやすく書く言葉は「自動化された言葉」であり、たとえば「コーヒーカップ」などがそれにあたります。しかしあまりにも自動化された言葉はただ単に言葉を追いかけるだけで印象に残らず、読み手に考える余裕を与えません。それに対して「異化」はコーヒーカップならたとえば「焦げ茶色の液体を満々とたたえた真っ白な存在」などと表現します。読み手の頭の中では一瞬ではありますが、これは何を意味しているのか、と考える余裕ができます。その「考えること」が記憶に繋がってくるのです。文学作品にはよくこのような手法が用いられますが、それは何も文学らしさを表現しているのではなく、作者のメッセージをできるだけ読み手に正確に伝えたい現れでもあるのです。

話しを元に戻しますが、広告は記憶されなければ意味がありません。そして記憶されるためにはオーディエンスに「考える余裕」を与えなければならないのです。簡明直截な広告は一見合理的でコミュニケーション効率がよいように思われがちですが、意外にも記憶に残らないものなのです。

また別の観点からもアピールの強い広告は現在のような時代ではむしろ逆効果となります。たとえばどこの世界に「私は素晴らしい人間です」と大手を振って自慢する人がいるでしょう。広告主は気づいていないでしょうが、アピール広告は自らを恥ずかしげもなく自慢している広告とも言えます。そのような単刀直入な表現をしても現在ではネットで検索すればすぐに本性がばれてしまいます。このようなアピール広告が多いことが広告によって商品が売れない要因ともなっているのです。

ではどのような広告が望ましいのか。「私は素晴らしい人間です」という意味をオーディエンス自らが想起してくれるような表現がこれからの広告には欠かせません。

これが「メッセージ性」のある広告なのです。前述の異化と自動化でお話ししたように、あまりにも分かりやすい言葉は文字だけが素通りしてしまいますが、オーディエンスに僅かでも考える余裕を与える広告は、必ず記憶に残ります。そしてそのインパクトが強ければ強いほどリコール(思い出し)の確率が高くなってきます。広告ではビジュアルがそのインパクトの役割を担っています。

商品広告における最大のメッセージは、自社商品のアピールではなく顧客やマーケットの抱えている課題(アサイメント)の提示とそのソリューションの紹介になります。ここで重要なのはとかく顧客ニーズを叫びがちですが、顧客にとってニーズはすでに把握しているものであり、そのための情報収集はすでに行っているはずです。したがって余程インパクトのある広告でない限り見逃される危険性があります。一方課題はまだ顧客が気づいていないことも多く、それを提示することで顧客に対して「気づき」を与えることになります。これは非常に記憶定着率とリコールが期待できるものなのです。

課題の探索手法などについては、すでに本ブログで「ASICAモデル」の紹介をしていますので、紙幅の関係上ここでは割愛します。

また企業広告やブランド広告の場合は、顧客のみならず社会が抱えている課題に対して自社の技術や商品、あるいは人材でどのように対応できるのかを述べることが重要です。ここでも社会のニーズではなくあくまでも課題探索が肝心です。つまり、企業の存在価値は社会をよりよくすることにあり、そのためには社会や国民が気づいていない課題を明確にし、そのソリューションを提示することなのです。しかし社会を相手にする課題となるとかなり大がかりなソリューションが必要となりますので、そこまで行かなくても課題提示とそれに対応する姿勢を述べるだけでも効果があると考えています。

「アピールからからメッセージへ」の姿勢が、よいメッセージ広告を作り上げる最高のトリガーとなるのです。

広告効果測定についてのご相談

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ⑥
 

《質問》

我が社では年々広告宣伝費が削減され、満足できる広告活動ができない状況です。その理由は弊社の経理部が「宣伝部はコストセンターだから極力広告コストを削減することが会社の利益に貢献できるため。さらに広告は効果があるのかどうかも曖昧であり、そのような不確実な業務に多大なコストは割けない」ということです。ここで質問なんですが、経理部を説得するために広告効果の測定をきちんと行い、そのデータをもとに予算折衝に臨みたいと考えており、そのための有効な効果測定手法があればご教示いただきたいと思います。(機械メーカー)

 

《回答》

広告宣伝費の削減は所轄部門にとっては悩ましい課題であり、近年ますますその傾向が強くなっていますね。その要因は何もかも「数字」で把握したがる経理部門の特性にあるようです。

まずご質問の広告効果測定についてですが、現在さまざまな効果測定手法が存在・提唱されています。しかし私はそのいずれもが明確な「広告効果」を測定するものではなく、特定の数値やデータを効果と称してカムフラージュしているに過ぎないと考えています。

たとえば広告のリーチやCPMなどの測定などは簡単にできますが、だからといってそれが効果に直結するものではありません。単にどれだけリーチしたか、あるいはどれだけ安価に到達させたかを見る指標としては理解できますが、それがどうした、と言うのが私の考えです。

広告効果の理解の仕方は比較的簡単です。というより、広告の特性を難しく考えず単純に割り切って役割分担に応じた効果指標を設定すればいいだけのことです。

まずマス媒体。とりわけBtoB企業ではマス広告によって商品が売れることはまずありません。したがってマス広告の効果測定指標は「引き合い件数(カタログ請求/問い合わせ)」と割り切るべきです。これは後に述べる最終の効果指標となる「受注額」の基盤である「見込み客」の獲得数を意味します。

次に広告かどうか微妙なメディアにカタログがありますが、これは広告と言うよりむしろセールスのための補助資材と理解できます。BtoB企業で素晴らしいカタログがあれば受注に結びつく可能性はあります。しかし大部分はカタログを補助資材として使用する営業担当の商談スキルによって受注の可否が問われます。

 したがってカタログの効果指標は「営業担当がどれだけ有効に商談できるか、の全体構成やデザイン/コピー」になってきます。しかしここで問題なのは、各社によって営業スキルも違えば営業スタイルも異なります。それぞれの営業風土に合致したカタログづくりがじつは最も重要なのですが、残念ながらどの企業も同じように製品説明に終始しているのが現状です。

WEBサイトの効果もマス広告と同様に「引き合い件数」が効果指標になります。オンラインショップサイトを持つ企業があるかも知れませんが、オンラインサイトは営業の場そのものであり、広告とは理解できませんので効果指標は単純に営業成績(受注額)となります。

そして展示会はもっとも効果が明確になりやすいメディアと言えます。展示会での効果指標はズバリ「受注額(商談額)」です。とかく展示会では自社ブースや展示会全体の来場者数を効果指標にしがちですが、これは明らかに間違っています。

そして重要なのは展示会での効果を上げるにはどうすればよいか。上述したマス広告やWEBサイトでの引き合い、つまり見込み客をどれだけ展示会に呼び込めるかにかかってきます。

簡単に言えば、マスメディアやWEBで得られた見込み客(潜在顧客)を「顧客」に転換する、言いかえれば見込み客の「刈り取り場」がじつは展示会なのです。したがって、展示会でいくら来場者が溢れかえって一見繁盛しているように見えても、彼らが見込み客でなければ何の意味もありません。

一昔前までは展示会は広報の場としても捉えられていましたので、来場者が多ければ社名や商品の露出機会が増えたことによるPR効果があったとされていましたが、結局刈り取り場の認識がなければ受注には結びつかず、展示会には人は来るが売上げにはあまり寄与しない、といった短絡的な理解に結びついてしまいます。

ところが展示会での効果指標が受注額となればまた厄介な事柄が生じてきます。BtoCならともかくBtoBの場合は、引き合いから受注まで1年以上かかるケースが少なくありません。そのために展示会事業で重要なのは、展示会での商談結果とその後のフォローを追跡できる「引き合いトラッキングシステム」の構築が重要なポイントになります。これを行わないと、結局当該商品の受注の根拠が不明確になり、展示会効果が明確に把握できないことになってしまいます。

こうやって考えてみるとすべての広告効果指標は「受注額」になります。マス広告はその前衛の役割を果たしており、展示会が最終ゴールと言えるでしょう。

ここで広告効果指標を「受注額」とすると、大きな問題が立ちはだかります。

前述のカタログの部分でお話しした営業担当の商談スキルが受注に大きく影響するからです。このスキルは数値として明確にできない「変数」ですから、効果測定の方程式には組み込むことはできません。私は広告効果測定をあまり重視しない理由がここにあります。乱暴な言い方かも知れませんが、商談スキルの低い営業担当を抱えている企業は、どんなに優れた広告を行っても最終目標である受注確保には繋がらず、結局その結果が広告を悪者扱いにしているのが正直なところです。

さてご質問の前段にある宣伝部はコストセンターという考え方は間違っています。経理部門は単純に宣伝費というコストを管理する部門だからそのように理解しているのでしょうが、広告はたとえばブランド広告や展示会での説明員の応対など、ブランドイメージの形成に大きな役割を果たしています。今やブランドはエクイティ(資産)と理解されています。しかしブランド価値やレピュテーションは数字には表れてきませんから、宣伝業務のコストばかりに目が行ってしまいそのように捉えられるのでしょう。

宣伝部はコストセンターではなくプロフィットセンターであることを再認識すべきだと思いますし、予算折衝時にもこのあたりをもっと協力に説得することが不可欠です。

ご質問の回答になっているかどうか心許ないですが、要するに各メディアの特性から効果指標がそれぞれ異なることと、展示会での効果がじつはマスメディアの広告効果に依存していることをきちんと整理してデータ化すべきだと考えます。そしてくどいようですが、広告効果の最終目標は数字では把握できない商談スキルに依存いていることが、広告効果測定をいまいち信用できない要因になっていることをもっと経理部門にアピールすべきだと考えています。

新聞広告の将来性について

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ④
 

《質問》

我が社では昨年来新聞の発行部数が激減している中で、高額な新聞広告をやめてインターネット広告に切り替えるべきだという意見が多くなっています。インターネット広告では動画も利用でき説得力は新聞広告よりもはるかに高い、というのが大きな理由ですが、ほんとうに新聞広告はもうだめなんでしょうか。個人的には新聞広告にもまだまだ価値はあると思うのですが』(食品メーカー)

 

《回答》

 ご質問の内容は「今のようなネット時代に新聞広告の価値があるのかどうか」と言うことだと思います。それ以前の問題として、「ネット時代における新聞メディアの価値」を考えなければなりません。ここ数年の各メディアのシェアに関する調査を見ると、明らかに新聞はウェブサイトやインターネット広告に凌駕され、大変肩身の狭い立ち位置にいると言わざるを得ません。しかしこの結果が本当に信用できるのでしょうか。これらの調査はあくまでも各広告主の媒体別出稿量の結果として表れているだけであって、だからといって各メディアの「価値」を決定しているのもではありません。

 メディアはコミュニケーションにおける媒体であり、その価値はコミュニケーションの達成率によって決定されます。現在はインターネット上には膨大な情報が構築され、それを利用した(その根拠となる)ウェブサイトやインターネット広告は、言ってみれば情報量が大きいがために無意識にコミュニケーション価値があるように錯覚しているのではないか、と考えることもできます。

 ここで筆者の貴重?な体験をお話ししてみたいと思います。

 じつは筆者は2年前から新聞は購読していません。もうインターネット上には各新聞社のサイトが充実し、毎日の情報はここから入手すれば事足りるのではないか、あえて毎月数千円もの費用を払ってまでハードとしての新聞を購読する必要は無いだろう、と思ったからです。まさに、最近の新聞購読量の低下や新聞メディアの価値を縮小させる一般読者と同じようなことを行ってきたわけです。

 それでこの2年間は取りたてて情報収集に関しての問題は感じず、やはり新聞メディアは縮小して行かざるを得ないのかな、という感触を持っていました。それ以上に過去に新聞を購読していた時期に比べても、はるかに膨大な量の情報を頭にたたき込んでいる実感もありました。

 ところが、です。6月中旬、ある新聞がお試し購読と言った名目でポストに投函されていました。2週間ほどでしたがこの無料お試しの新聞を毎日読んでいてある重大なことに気がついたのです。当然この間もいつものようにインターネット上の新聞サイトから情報収集していたのは言うまでもありません。それと同時に「紙」の新聞も併読していたのです。

 2
3日してなんとなく頭の中がきれいに整理されていることに気がついたのです。たとえば昨日の事件や政治情勢などを思い返すとき、まず頭の中には紙の新聞紙面が浮かんできます。そしてその記事がおよそ何ページくらいの左上の方にあったな、という感じでおぼろげながら浮かんできます。そしてもう少し考えを巡らせると、そうそうその記事の中盤にあんなことが書いてあったっけ、などという風に記事の全貌が目に浮かんできます。それ以外にもその記事の右隣には米国によるシェールガスの対日輸出の記事があったな、という風に順々に思いおこされるのです。それからしばらくすると、その日の記事のほぼ半分くらいが明確に頭の中に再定着されることになります。

 ここで重要なことは、○月○日頃の情報という形のワンセットでけじめがついた形で脳に入力されていると言うことです。インターネットサイトの場合にはこのワンセットがなく、ただだらしなくあらゆる情報が脳に蓄積しているだけだ、と。いわば紙の新聞の場合はきちんと一日一日の情報がアーカイブとして整理されているのに対して、インターネットのそれはただ無造作に引き出しに抛り込んであるという状態なのです。そこから特定の情報をリコール(思い出し)するのはできなくもないですが、アーカイブされたデータベースとではリコールの効率が格段に異なります。さらに前述のように、特定の情報をリコールする際、それに関連した情報や全く関係なくてもその隣にあった情報などがあわせて思い起こされます。

 筆者は心理学者でも何でもないですから決定的なことは言えませんが、人間の情報処理にはいわゆる「パターン認識」が重要な役割を演じていると思います。じつは紙の新聞の最大の価値は一日の情報がパターン認識で脳にインプットされると言うことでしょう。情報は多ければ多いほど有利なのは認めますが、リコールされなければ何の価値もありません。そのリコールにパターン認識が有力であり、それを可能にするのが紙の新聞なのです。

 話は横道にそれますが、たとえば旅行の思い出を考えてみましょう。旅サイトなどで旅行先の情報はいくらでも入手できます。しかし現実に旅をした場合に比べて、リコールされる情報の量と濃密さは比較になりません。これはたとえば一泊二日というワンセットの出来事の中にそこで見聞きしたことや体験したことがビジュアルと共にアーカイブされているからだと思われます。

 新聞の価値はじつはここにあるのです。パターン認識が可能であると言うことと、日刊や週刊という発行形式が自然に情報のアーカイブ化を果たしていると言うことです。

 紙面のパターン認識を有効に作用させるために重要なのが「編集」です。どんな見出しをつけるのか、記事構成をどのようにするのかなど編集者の力量が試されます。ネット上のPDF形式の新聞でもこれは可能でしょうが、タブレットなどでいちいち拡大したり画面をずらしたりする行為がそもそもパターン認識を阻害する要因になります。

 したがって紙の新聞のメディアとしての価値は依然として強力であり、むしろネット時代であるからこそパターン認識とアーカイブ化の機能はいずれ再認識されてくるでしょう。

 広告担当の立場として、現在は何でもかんでもインターネットだという声に右往左往されがちだと思いますが、将来を見据えて新聞広告の有効性はむしろ高くなってくることを念頭において広告計画すべきだと考えます。なぜなら、新聞の最大の価値であるパターン認識の中には当然広告も一要素として機能しているからです。

紙の新聞も新聞広告もネット時代が成熟すればするほどその価値見直されてくるはずですし、その前提として各新聞社の編集能力や広告主側の広告コンセプト力を強化すべきでしょうね。

 ちなみに筆者はそれ以来新聞を再購読しています。

広告制作におけるコンペの是非について

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ③
 

《質問》

広告制作において個別発注がよいかコンペ形式がよいかの意見を聞かせて下さい。最近はどの企業でもコンペが多いと聞きますが、コンペの利点はどこにあるのでしょう。』(電機メーカー)

 

《回答》

 広告制作においてコンペ形式を採用することへの是非の問題だと思いますが、これは非常に難しいところがあります。最近では多くの企業がコンペ形式を採用しています。その根拠は大きく分けて二つあります。

 一番大きな問題は、コンプライアンスでしょう。広告制作に先立ってのオリエンテーションは、コンペ形式ではほとんどの場合コンペ参加企業を一堂に集めて一括開催されます。このことによって広告主から提供される情報の公平性が保たれます。広告主にとって見れば、コンペ参加企業に対して偏りのない公平な情報を提示しているからコンプライアンス上全く問題ない、という安心感があります。さらに一社指名の場合、とかく問題視されるのが広告主側の担当者と広告制作会社との癒着です。何も恥じることがなくても永年にわたって同じ企業と取引を続けていることへのこうした見立ては、ある意味では仕方のないものですし、広告分野に限らず営業や資材分野でも最近各企業とも人材のローテーションが多くなってきている根拠がここにあります。したがって昨今企業のコンプライアンスが声高に叫ばれている現状ではコンペ形式は妥当な手法と言えます。

 もう一つの問題は、じつはこれは広告文化において看過できない重要なものなのですが、広告主側の広告制作スキルの低下、があります。もとより広告制作に当たっての最も重要なプロセスは、はじめの段階のコンセプトメイキングです。このプロセスは広告対象物やサービスについて熟知しており、なおかつ市場やマーケットに新鮮なメッセージで訴求できる能力が要求されます。その能力には文学的、科学的、情緒的、心理学的、経済学的などあらゆる分野の知見が必要となります。その能力を持った広告担当者が、残念ながら広告主側に少なくなってきた、という事情が安易にコンペに走る結果をもたらしています。

 広告制作の最高の醍醐味は、コンセプトメイキングを自ら行い、それをコピーライティングやビジュアルの専門家と一緒になって四苦八苦しながら創り上げる。それが社会やマーケットから好感を持たれたとき、その醍醐味は最高潮に達します。

 この素晴らしい体感をコンペでは広告主ではなく制作会社に委ねてしまうことになります。広告主側の担当者にとっては制作効率の向上という名目が立ちますが、時間や数字では換算できない楽しみを放棄してしまうことへのマイナスの要因についてはあまり議論されません。

 今回いただいたご質問は、回答に非常に苦労するもので建前論に終始すべきか本音で語るべきか迷うところですが、この際私の個人的な本音でお話ししたいと思います。

  私はコンペ形式には反対の立場をとっています。その理由はいくつかありますが、もっとも大きな理由は前述の広告制作の醍醐味が失われることです。これは何も広告主側の担当者に限ったことではなく、制作会社にも言えることです。

 ここでコンペ形式で広告制作を行った際の決定プロセスを見てみましょう。

 まず基本的なオリエンテーションを経てプレゼンが行われます。で、このプレゼンされたいくつかの作品を審査するのは当然広告主側の担当者でありその上司となります。ここで問題なのが、前述のように広告制作の知見を持たない人たちによって審査されることです。その結果制作会社からプレゼンされた作品はどうしてもインサイド・アウトの視点で評価されてしまいます。仮に制作側がアウトサイド・インの視点で創作した奇抜な作品があり、それを採用されたとしてもたまたま目新しい作法だったと言うだけで真のアウトサイド・インの立場に立った結果とは言えないケースが多いと思われます。

 したがってその後の広告展開では全く文脈を無視したバラバラの作品が出てくる危険性があります。さらに大きな問題はコンペ作品の最終決定を役員会に持ち込んだ場合です。広告主側にしてみれば社長をはじめとした役員はそれなりの地位や知見もあり、だからこそ最高の意思決定機関と言われているのですが、これはあくまでもインサイド・アウトに関する事案についてです。こと広告についてはあくまでもアウトサイト・インのスタンスが重要なのですが、それを役員会で最終決定する妥当性があるとは思えません。

 いくら社長であっても役員であっても広告に関しては全くの素人です。だから広告部などの専門部署が存在するわけですが、その素人さんに制作会社が精根尽くした作品を評価してもらう違和感がどうしても私には拭いきれません。

 つまり、広告を見て社長や役員、もっと言えば社員が感動したところで何の意味もないのです。マーケットや社会に感動してもらう広告こそが文化的要素を持つ広告だと言えますし、その意味では役員会ではなく社外の評価を重視すべきだと思っています。

 ではどのような広告が社会やマーケットを感動させるのでしょうか。

 まずは主側の広告担当者と制作スタッフ(会社ではなくあくまで個人として)が自ら感動する広告といえます。極論を言えば広告に合議制は不要。制作担当者が感動すればそれでいいのです。思い起こせばほとんどのヒット商品といわれるものは「個人」の発想が原点になっています。そのために欠かせないのは主側の広告担当者はつねに片足はマーケットや社会に置いておくことです。もっと言えば、半分は社員であり残りの半分は一般の社会人であること。このように自制できなければ、なかなかアウトサイド・インの視点を持つことはできません。

 そして何より大切なのは、コンセプトメイキング以前の問題として広告に限らず夢や将来のビジョンを制作側の担当者と共有できていることです。ここでは広告以外の社会情勢や様々な現象について意見交換する場です。これには最低でも一年、制作側と主側の担当者が自由に語り合う時間が必要になってきます。不思議なものでこの期間を経ると制作側も主側の担当者も社会の一員として同化し、夢を共有することができるものです。主側と制作側が「個」になる瞬間です。まあ、言ってみればいい意味での完全な「癒着」です。この夢を語る時間を経て社会に感動される広告が生まれたとき、広告をやっていてよかった、と実感できるのです。

 こうして言うのは簡単ですが、実際は多くの困難が立ちはだかります。一年間も無駄話をする非効率性を会社がどのように判断するか、など。それを突破できる限られた広告人だけが、広告の醍醐味を味わうことができるのです。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(7/7)

9.CSRの前にGSRを!

 

CSR広告で社会に課題を提示し、自社の技術でソリューションをメッセージする。それこそ持続可能な社会の形成のために、将来広告の役割は予想以上に大きくなると思い描きながらも、何かしら喉の奥に小骨が刺さったような屈託を拭いきれない。

企業が社会的責任を果たすためにCSR活動に邁進するのは、前述の違和感がありながらもある程度理解できる。しかし最も大きな組織である国家の社会的責任に目を向ければ、首を傾げざるを得ない。国民への明確な説明責任が未だに果たされていない消費増税や原発問題を持ち出すまでもなく、前政権に見られた当初のマニフェストをことごとく反故にする国家。さらには緊縮財政や社会保障の大きな課題を生じさせる要因となった年金運用の失敗。国民が納めた粒粒辛苦の気が遠くなるほど膨大な額の年金を溶かしてしまった責任は、いったいどうなったというのだ。昨今のCSRブームの裏側に、国に社会的責任を果たす能力がないから企業が肩代わりせよ、とでもいうわけでもあるまい。

国は政府の社会的責任(GSR—-Government Social Responsibility)や政党の社会的責任(PSR—-Party Social Responsibility)こそが今全社会から求められていることに早く気づくべきだろう。

大きな組織に属する小さな組織や個は、大きな組織の価値観や風土に無意識的に支配されてしまうことは拙著「ASICAれ!」で記した。CSRをもっともらしく唱えながら、一方で国民の大多数が認めない政策を此れ見よがしに支持する財界を見れば、何か隠されたうまみでもあるのか、と勘ぐってしまうと同時にやはり冒頭に述べた胡散臭さが蘇ってくる。

またISO26000ガイダンスも、各国の主体性を失った統一によって当然のようにさまざまな問題を露呈し、今や全世界に厄介事を投げつけているEUが主導して策定したとなれば、その取り組みに少々二の足を踏んでしまうのも正直なところだ。あんただけには言われたくない、と。

GSRの果たされていない国家や世界にCSRが根付くはずはない。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(6/7)

8.クリエイティブにおける社会的責任

8-1.わかりやすい広告の落とし穴

CSR広告といいながらどうしても顧客誘引を目的としたくなるのが企業の性ではあるが、美辞麗句で飾り立てた広告にほとんど効果がないことは既に本書でも拙著「ASICAれ!」でも述べた。企業の説明責任のための広告なのだから、なぜその企業が社会に存在しているのか、社会に対してどんな役割を演ずることができるのか、をメッセージしなければならない。

さらにはASICAモデルで何度も紹介したように、最高のメッセージ広告は、今社会に存在する見えない課題を炙りだすことだ。そして自社独自の技術によるソリューションを提示する。この様式がこれからの広告の基本的なスタイルになると確信しているし、これこそがCSR広告ともいえる。

ところで広告のクリエイティブについてであるが、ここ数年徐々に質が低下してきているように感じて仕方がない。何がどうというのではなく、要するに感動しないのだ。メッセージ性が少なく変哲もないアピールだけが目につく。言い換えれば大変わかりやすい広告が増えてきている。だから感動しない。

最近よく耳にすることだが、広告はわかりやすくなければならないという風潮が大勢を占めている。企業の広告担当者が頭を悩まし練りに練った広告を役員会に上程した際、こんな表現ではわかりにくい、もっと平易な表現にしろ、と一喝されたことが一度ならずあるだろう。

今、学生の読解力が一昔前に比べてワンランク低下しているという。つまり現在の大学生は高校3年生並の読解力しかないということか。全てがそうとも思えないが、学生に限らず一般人も社会人もなんとなく心当たりはある。だから広告は誰にでも理解できるように平易な表現が望まれるのだろうが、ちょっと待って欲しい。

先に広告はその時代の文化を表す、といった。もとより文化には優劣はないが、できれば高品質な民度を維持したい、と思うのは広告人の端くれとして当然だろう。低レベルの層を基準に考えるのではなく、ある程度の知識と読解力を持つ層にふさわしい広告表現が文化形成にも国民の意識向上にも不可欠だと思う。

筆者の記憶に残っているテレビCMに富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」がある。さらに「ROPE & JUN」のCMにも感動した。確かその頃筆者は大学生であったと思うが、いずれもCMの意図はさっぱり理解できないながらも、なんとなく世の中が大きく変化しつつあることを感じ取ることができた。もっと遡れば小学生の頃なのか中学生の頃なのか定かでないが、旭化成の「ベンベルグ」の広告が妙に今でも心に焼きついている。当然広告の意味も商品も全く理解できない。しかしベンベルグ、ベンベルグという呪文めいたものが頭を駆け巡り、時代が大きく変わる予感を子供ながらに楽しんだ。

わかりやすい広告は確かにその場で理解されやすい。しかし一方で忘れやすいのも事実だ。

広告の意味をわずかな時間でも自ら探ろうと努力したものは、いつまでたっても記憶に残るものである。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(5/7)

7.最高のCSRメディアは広告。そして身近なCSR活動は広告

 

さてそこで企業の社会的責任についてもう少し慎重に見てみたい。

国連グローバル・コンパクト以前の問題として、企業には説明責任が存在する。すべてのCSRはこの説明責任が根幹となって展開されるべきだといわれている。企業が行う様々な経済活動は利害関係者に対する説明責任を果たしてはじめて社会から認められる。さらにいえば企業の存在そのものについて、その理由と社会に与える影響、つまり企業の存在意義を説明しなければならない。企業の説明責任というと、とかく不祥事を起こした際の謝罪も含めた経緯の説明と受け取られがちであるが、それはエンロン、ワールドコムなど企業の不祥事がCSR確立のきっかけになったことに起因している。

不祥事とは関係なく、企業が存在する以上、社会に対して自らの存在理由を説明し社会から同意を得ることが企業の永続的な発展につながってくるのである。

CSR報告書で説明責任を果たすことは十分可能だ。しかし常々感じていることなんだが、いったいCSR報告書は誰が読むのだろう?という疑問が頭から離れない。企業に対してCSR報告書を要求する人たちやWEBサイトのCSRページを閲覧する人たちがそのターゲットとなるのだが、あまりにも限定されてはいまいか。

同じ年次報告書でも、極端に限定された投資家をターゲットとするアニュアルレポートとは、本質的に異なる特性を持つと捉えるべきだろう。

社会に対する説明責任といいながら、限定された人々だけを対象にしていたのでは辻褄が合わない。社会全体をターゲットにするならCSR報告書のようなプルメディアではなくマスメディアを軸としたプッシュメディアが最適だと思う。ここでひとつ断っておきたいが、インターネット広告は一件プッシュメディアのように思われるが、パソコンという装置を介して訪問者の能動的な行為によって情報を得ることから、これはプルメディアと理解できる。

すなわち、企業の社会的責任の骨格をなす説明責任に最も適したメディアは、昨今のデジタル化の波で肩身の狭い立場にある「広告(新聞・雑誌・テレビ)」なのだ。今更広告の重要性を説いたところで時代遅れの感が否めないかもしれないが、じつは広告の機能にはCSRの要素が多く含まれていることにあまり気づかれていない。

これは広告そのものが、永らく商品宣伝やブランディングなど顧客吸引力を求めるために利用されてきたため、あまりにも商業主義的な匂いがするからだろう。

しかし一方で広告はその時代の文化を形成するとまでいわれている。広告を見ればその時々の文化がわかる、というのである。つまり広告には極端ないい方をすれば健全な社会と良好な文化を育成する機能があるともいえる。あまりにも行き過ぎた喧伝はプロパガンダとして危険な要素があるかもしれないが、独裁国家ならともかく、現在のわが国ではあくまでも広告主は企業であり、企業自らが社会を良くする手立てができるのだ。これこそが本当の、そして身近なCSRではないだろうか。

しかしながら昨今の不況で各社とも広告宣伝費は削減され、とてもとても営業に直結しない広告なんぞ手が出ないといった意見が予測できる。しかしよく考えてみれば、前述した雇用確保の放棄というCSRに反した行為が広告の世界でも起こっているとはいえないだろうか。

社会に対する説明責任のためのコストを削減する一方で、CSRを声高に叫ぶ矛盾。

それはともかく、不況は永遠に続くものではなくいずれ景気回復期がやってくる。広告は経費ではなく投資である。なので即効性は期待できず、その効果が現れるのは2~3年後だろう。このことから景気回復し安定成長に移行した際に効果をもたらすのは、意外にも不況時の広告展開であることもまた確かである。無い袖は振れないといわれるかもしれないが、今企業には膨大な内部留保が蓄積されているという。不況であるがゆえに金の使い道がないのだ。いうまでもなく金が回らなければ経済は活性化しない。景気回復のためにも各社挙げてCSR広告に精を出すことが、じつはもっとも現実的なCSR活動ともいえる。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(4/7)

6.企業の社会的責任を果たすために上場廃止した企業がある

 

ここでCSRの担当者なら誰もが知る企業の社会的責任についての象徴的な話題を紹介したい。

米国にあるジーンズの老舗リーバイ・ストラウス社(通称リーバイス)は1971年に上場し、古くから企業の社会性について独自の理念を持っていた。

1982年からHIV/AIDSの啓発と予防に積極的に取り組み、1991年に策定した「グローバル・ソーシング&オペレイティング・ガイドライン」は世界各国の製造請負業者や原材料調達先に対して、賃金、労働時間、労働条件、倫理など各種の条件に合致しなければ取引しないといういわばサプライヤー向けの行動規範であり、これは現在でもハンドリングされている。いうなればCSRの元祖だ。

ところがこのリーバイ・ストラウス社。1992年に児童就労の実態が明らかになった。普通の企業ならここで社長か誰かが記者会見し、誠に申し訳ない、以後気をつけます、で済ませてしまうのだろうが、リーバイ・ストラウス社はそうではなかった。それならばとまず現地に学校を作り、児童をきちんと教育し、就労年齢に達した時点で雇用する策を提示した。雇用の創出という社会的責任と同時に貧困層への雇用機会の促進といった地域社会への責任を果たそうとしたこの策に対して、株主から猛烈な反対があった。

学校を作って教育するような金があるなら配当に回せ、というのである。今でもどこかで耳にするような言葉だが、ここで当社がとった行動はLBOを利用したMBO(マネジメント・バイアウト---経営者による買収)によって上場廃止し、私有企業となったのである。

株主の金よこせ運動よりも企業の社会的責任を優先した出来事だった。

資本主義がもはや金融資本主義と姿を変え、企業の株式ですらマネーゲームのカードとされるなか、決して少なくない上場維持コストを負担してまで上場を継続する必然性を疑わせるとともに、企業としての矜持が社会的責任を果たす上での骨格となることを見せ付けられた。

ちなみに日本法人であるリーバイ・ストラウスジャパンでは、WEBサイトにCSRページもなければCSR報告書も発行していない。不思議に思って当社の広報に尋ねてみたところ、「グローバル・ソーシング&オペレイティング・ガイドライン」で厳密にサプライチェーンも含めて管理し、古くから社会的に不公正な立場にある人々を支援するなど、もはや企業の社会的責任は当たり前であり、取り立ててCSR活動をアピールするつもりはないとのことだった。これこそが本来のCSRだろう。企業の存在そのものが社会的責任と同義なのだ。冒頭に述べたCSRを絶叫すればするほど胡散臭くなる、とはこういうことだ。

さらに最近SRI(社会的責任投資)が騒がれだしている。CSRに熱心な企業に積極的に投資しようという触れ込みであるが、多くの場合ファンドを組成して投資を行うことになる。もとより企業の社会的責任は、直接的な利益を得るための営業活動とは一線を画している。

SRIがリターンを求めない政策投資なら理解できるが、金儲けの権化のようなファンドが純投資としてこれに関わることへ強い違和感を持つのは筆者だけではあるまい。IR同様にCSRがマネーゲームの手段になり下がるのでは、という危惧さえある。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(3/7)

4.社会的責任と社会貢献を混同してはいないか

 

そこで各社が行っているCRS活動に目を向けると、当然のことながらコンプライアンスは重要テーマとなっているが、多くの活動内容は企業活動の延長線上、つまり広義でのマーケティング活動や生産活動に類するものが主であり、加えていわゆる「社会貢献」事業をCSRとみなしている企業の多いことが伺える。

ここで企業の社会的責任と社会貢献について考えてみたい。

責任と義務は明確な区別はないが、いわば義務を果たさなかった見返りに責任が発生するとも考えられる。したがって責任の前に義務が存在すると考えて差し支えない。

そして企業の社会的義務とは、と見てみると、まず納税義務。法人として社会に存在するからには一般人同様に納税義務は発生するし、言い換えれば納税責任があるということだ。

次に企業である以上そこから生み出される商品やサービスの品質が一定の基準を保っていること。企業として継続的な発展を目指すならば、まず商品やサービスの品質は最重要テーマだろう。さらに取引先との適切な関係。これも企業活動の継続性確保には不可欠な課題である。しかしここまでは通常の企業活動ではごく当たり前のことであり、ことさらに高品質な商品を提供しているとか、税金を払っていますなどをCSR活動として取り上げるものでもない。

これらの義務が果たせなかった場合、企業の存続そのものが危うくなるものであり、企業として避けて通れない義務であり責任なのだ。

一方社会貢献活動はどうだろう。どこそこへの寄付とか地域社会に貢献するとか教育機関に関与するとか木を植えるとか。これらは極論をいえば特別やらなければならないものでもない。

つまり、企業の社会的責任と社会貢献の区別をするには、企業の永続性のためにどうしてもやらなければならないものなのかどうか、を考えてみるとわかりやすい。とはいうものの社会貢献を一切行わないというのも企業として世間の目が有り、一応取り繕っておきたい気持ちはわかる。

 

5.CSR大合唱と現実との矛盾

 

しかしここで重大な社会的責任が果たせていない企業が少なくないことも事実だ。

国連グローバル・コンパクトにある、「労働基準」の拡張解釈と継続的な社会のために最も重要な課題は「雇用創出」である。つまり企業という公器である以上、雇用は地域社会にとっても国全体の経済にとっても最も重大な企業の社会的責任である。この責任を果たさずにやらなくてもよい社会貢献に精を出すことは、いわば自らの責任に頬被りし世間体を繕っているとしか思えない。

今、わが国ではこの雇用の問題が大きくのしかかっている。企業業績の問題があるにせよ、業績回復時の優先的復職の担保がないまま、いとも簡単に人員整理や給与カットを日常的に繰り返す企業に、声高にCSRを述べる資格があるのだろうか。

じつは冒頭にCSRとはほとんど関係のないIRを持ち出したのには意味がある。

IRがヒステリックに取り上げられた時期、各企業は大きな分水嶺に差し掛かっていた。それまでの企業は何よりも顧客や取引先を大切にし、従業員を人財として尊んだ。企業それぞれに見合った福利厚生体制を持ち、終身雇用や年功序列といった世界的にも優れた企業システムがあった。そこへ米国式の企業統治のあり方がIRと名を変えてやってきたのだ。会社は株主のものという会社法に則ったもっともらしい論議によって、株主への説明責任とあわせて高額な配当を要求されるようになった。投資家にしてみれば、高額な配当を行う企業ほど社会的責任を果たしているとみなすということだ。この結果企業は配当の原資を確保するために、徹底して余計なコストの削減を余儀なくされ、業績が芳しくなければ固定費である人のコストにまで手をかけるという従来では禁忌となっていた手法が、日常茶飯の光景となったのである。

企業の社会的責任である雇用創出のために余計なコストをかけると、株主からそれでは配当が少なくなるから社会的責任を果たしていないとバッシングを受ける。いかにも米国流の解釈の仕方だろうが、いい方によれば米国流IRに現を抜かすことによって、企業は社会的責任を果たせなってしまうのだ。

株主は確かに企業のステークホルダーに違いない。しかしそれは極めて限定的であり、多くの場合短期的な投資による利益を目的としている。もし仮に長期的な企業の成長を共にできる投資家ならば、業績が悪くとも将来の糧を生み出す人財を捨ててまで配当を要求することはないはずである。仮に会社法云々のくだらない論議を認め、企業は株主のものとするなら、企業の社会的責任の裏側には投資家の社会的責任があるはずである。ということは、企業の社会的責任は投資家が優先的に負うことになるのだが、この点について投資家はどの程度の覚悟があるのだろうか。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(2/7)

3.グローバル・コンパクトから見たCSR

 

さて企業の社会的責任は、国連グローバル・コンパクトで提唱されている次の項目が根拠となっている。

人権

②労働基準

③環境

④腐敗防止

いずれも極めてシリアスな課題であるが、まず①については単一民族といわれているわが国では馴染みが少ない。一方出自などによる差別が未だに存在していることも事実であり、将来否応なく中国や韓国、東南アジアなどからの移民受け入れが促進されるとなれば、大きな悩みを生み出すだろう。

②は結社の自由、強制労働の排除、児童労働の排除、雇用と職業の差別撤廃が求められているが、主に児童労働については発展途上国のみならず貧富の格差が拡大した諸国では古くから重大な問題を提起している。強制労働や雇用差別に対しては、わが国では法令で厳しく制限されており、CSR以前の問題として各社ともこの課題には熱心に取り組んでいるところだ。

しかし結社の自由についてはどうだろう。確かに現在でも多くの企業に労働組合は存在する。しかし一昔のそれとは明らかに異なった様相を呈している。以前の労働組合が資本に対する労働者側の立場を適切に保全する砦であったのに対し、現在では資本と労働の間にいささか生ぬるい関係が否定できない。極端な場合会社の方針に異議を唱える組合活動に熱心な社員に対して、組合の力も及ばず不利な会社生活を強いる企業が少なくないのも現実だろう。

③の環境についていえば「地球温暖化防止条約」に基づいた温暖化防止のための脱炭素が現在の最大のテーマであるが、そもそも温暖化と炭酸ガスとの因果関係がある種の政治的・経済的な目論見による作為であるといった論議が大勢を占めつつあり、より慎重な科学的根拠が求められるところである。

むしろ「環境汚染・環境破壊」をなすことなく企業活動を継続することへの必然性がここでは重要なテーマとなる。地球温暖化防止条約と同時期に制定された「生物多様性条約」の拡張解釈によって、このミッションはより具体性を帯びてくるだろう。「省エネルギーや省資源・リサイクル問題」はCSRというよりむしろ利潤追求のための営業・生産活動の延長線上にあると考える。

④の腐敗防止はいわゆる賄賂の強要などを戒めたものであるが、これも法令で十分対処できる課題である。一方で東南アジアなどでは未だに、というより今後も更にビジネスにおける賄賂の必要性が切っても切れない難しい現実がある。しかしもし仮に日本企業が海外で賄賂罪を犯した場合でも、国外犯の適応を受け不正競争防止法や背任罪で処罰されることになるだろうから、ここでもわが国の法体制で対応できる。

こうして見てみると、要するにほとんどの項目はコンプライアンスの徹底によってカバーできるものと考えられるし、コンプライアンスは企業活動の根幹でもあるため、何も取り立ててCSRを声高に叫ぶ必要もないように感じられる。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(1/7)

.過ぎ去ったIRブームに見るCSRとの共通項

 

最近CSRという言葉を耳にするたびに、ある種の胡散臭さが感じられてしようがない。

ちょうど2002年ころだったか、突如としてIRブームが巻き起こった。いうまでもなくIR活動は投資家に対して適切な情報開示を行う説明責任のことである。多くの上場企業はそれを当然のこととして古くから取り組んできた。にもかかわらず、IRというあたかも新しい概念に乗り遅れると大変なことになる。こんな論調が散見された。極端なケースではIRを行うと株価が上がる、あなたの企業価値は本来株価○○円だが現在はその半分しかない、その原因は適切なIRをしてないからだ、といった半ば恫喝ビジネスまがいのIRコンサルタントもいたという。そして各社は、こぞって新しいIR活動に熱を入れることとなった。

その結果どうなったか。20034月から2007年春にかけて株価は指数で2.5倍近くにまで上昇した。個別企業では10倍以上の株価上昇を果たした企業も数多く見られた。ここまで見ると確かにIRによって株価が上がるといえるかもしれない。しかしその後はどうだ。2007年の天井を境に現在はほぼ出発点にまで戻ってしまった。ということは2007年から企業はIR活動をやめたということなのか。そうではないだろう。2007年以降もむしろより熱心にIRは行っている。投資家に対する説明責任を果たすために。

じつは筆者は1995年くらいからIR責任者も兼務していた。様々な証券会社にヒアリングしIRとは何なのかを研究するとともに、本当にIRが株価形成に影響を与えるのかどうか定点観測を行った。

1996年から3年間にわたって毎日十数銘柄の株価の動きとIRとの関連について観測し続けた。その結果得られた結論は、IRと株価はマクロでは連動しないということと、株価形成に大きな影響を与えるのは世界的な需給および個別銘柄の需給のみであることがわかった。と同時にその需給にインパクトを与える仕掛けとして株式先物市場の存在があることも。

わが国に株式先物市場が上場したのは1987年である。バブル真っ只中のこの時期、株式先物を利用して米国のヘッジファンドは膨大な売りを仕掛けた。そして1991年のバブル崩壊。件のヘッジファンドが多額の利益を手中にしたのはいうまでもない。世界的な需給をいち早く知った連中が、この金儲けのからくりを再び利用したのが2003年から2007年の指数上昇だと考えられるし、それにうまく便乗して一儲けしたのがIRコンサルタントだったのだろう。

昨今のCSRに半狂乱になっている社会動向を見ていると、どうしてもこのIR至上主義の時期を思い出してしまう。

 

2.ノブレス・オブリージュを自然に身につけていた伝統的な日本企業

 

少なくともわが国の伝統的な企業は、その存在理由を明確にするための説明責任や社会的責任をCSRという難解な言葉を持ち出すまでもなく実践していたことは、拙著「ASICAれ!」でも述べた。現在でも生き続けているであろうこれらの企業の社訓や家訓に、それが見て取れる。いわば日本版の「ノブレス・オブリージュ(社会的地位の高い人が自覚すべき義務)」として、当たり前のように社会に対する組織の責任を明示し、実践していた。

反面、世界的にCSRが叫ばれだしたのはエンロンやワールドコムなどの米国企業がもたらした不祥事がきっかけになっている。不正会計など社会を欺くこれらの行為の再発を防ぐために、コンプライアンスを徹底し内部統制を厳粛に行うことはCSRでも何でもない。企業として至極当然のことだ。それを取り立ててあたかも企業経営における新しい概念としてCSRを持ち出すのは、米国企業ならともかくわが国の企業には不似合いな気がしてならない。

拙著「ASICAれ!」で日本企業の特性として株式持ち合い制度や労働組合の存在、さらには年功序列や終身雇用などの制度が組織維持に欠かせない有効な仕組みがあったにもかかわらず、グローバリズムの大義名分のもとにことごとく放棄せざるを得なかったことを述べた。ちなみに株式持ち合い制度の解体によって放出された株式の大部分が米国のヘッジファンドに流れ、その結果多大な利益を供与したのはいうまでもない。つまり、本来わが国の企業が普遍的に大切にしていた社会的責任の通念を、CSRという一見新しい仕組みに組み直すことによって、またどこかの誰かが金儲けを企んでいるのでは、という気がしてならないのだ。

新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(5/5)

5.違和感がある最近のリクルート広告

 

広告では企業の根底に存在している思想や哲学から導き出されたメッセージを社会に向けて発信すべきだと述べたが、ことリクルート広告に関しては、まったく逆というか本末転倒の取り組みが未だに多く見られる。

リクルート広告はBtoB広告協会では完全なBtoB広告と位置づけている。
学生である人をモノにたとえるのはいささか気が引けるが、要は組織である大学や高校に所属する組織人としての学生を企業という組織が購入する、そのための広告ということだ。

ここで興味深いのはリクルート広告がBtoB購買プロセスとはまったく逆の様式を呈していることだ。つまり、本来なら売り手であるはずの学校が買い手の企業に対して広告するのがもっともなはずだが、現実には買い手側が広告している。

しかもほとんどの企業のそれが、自社がどれだけ素晴らしいかを、ヒステリックなフレーズを並べ立ててアピールしているのである。本来ならそんな美辞麗句はもう信じる人などいないはずだが、なんせ売り手にとってみれば多少いかがわしさが感じられても、自分を企業に買ってもらいたい一心で、とりあえずは信じるふりをするのだろうか。
 

ASICAモデルからリクルート広告を見るならば、まず課題探索。
これは売り手が買い手の抱えている課題を発掘するという意味からすると、学生側が企業について綿密な研究が欠かせない。ネットを利用したり企業訪問したりでバイトどころではない。ここでは企業側の飾り立てたメッセージなど何の役にも立たないはずだ。

そしてASICAのソリューション段階。学生自身がどの企業に対して得意とするソリューションを発揮できるのかを自覚する段階だが、このプロセスである程度自分の特性にあった企業に絞られるはずだ。今のようにとにかく何十社も面接を受けるなどは、言い換えればソリューションを持たない自分を好きなようにしてくれ、といわんばかりだ。
 

企業側にも問題がある。いかに自社の課題解決に役立つ人材を購入するかという観点から見れば、そもそも多くのリクルート広告に見られる自社アピールではなく、課題提供を行うべきだろう。
もっといえば、「我が社ではこのような課題がある。それを解決できない人材はいらない」とまで言い切ることも必要だ。採用試験に際しての面接官の役割も然りだろう。

日本BtoB広告賞の審査でいつも不思議に思うのは、応募される作品のほぼすべてに学生への媚びが見られることだ。なぜそこまして買い手が売り手に低姿勢になるのかよく理解できない。

こうした広告で惑わされ自ら確固たるソリューションの自覚もないまま入社したところで、永遠に自分の特性は発揮できないだろうし、その結果離職率も多くなる。
ただ企業としては色のついていない人材を思い通りに組織人化できるたやすさは、ある。
昨今の企業に突出した個性的な人材が見られないのは、案外このようなリクルートプロセスに問題があるのかも知れない。

前述の企業広告にしろリクルート広告にしろ、まず企業に眠る思想や哲学を社会にメッセージし、課題探索を社会に関与させることを忘れてはならないと思う。これはたとえリクルート市場が売り手優先になったとしても、矜持としなければならない企業文化の砦でもある。

新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(4/5)

4.ASICAモデルにおける広告の役割

 

ASICAのトリガーが課題探索であることはくどいほど述べた。
であるならば、企業としてもう一つの組織である社会に対してどのような取り組みが必要なのか、広告に絞って考えてみたい。

広告でモノを売る、企業を売る時代は終わったことはすでに何度かの拙稿で述べた。
そしてそれに替わっていわゆる企業広告は社会の隠れた課題を掘り起こし、国民にそれを気づかせる大役が待っている。
情報が過度に氾濫した今、企業の本当の姿を知ろうとすればいくらでも可能になった。
こんな中で声高に「私どもは世界でも優れた技術を持っていて、なんとかかんとか、すばらしい企業なんです」といった自画自賛広告はもう恥ずかしくてやる気にもならないし、たとえ広告したところでそんな美辞麗句は誰も信用しない。そんな時代だ。

つまりいわゆる「アピール広告」はもう過去のものとなりこれからは社会に埋もれた課題発掘のための「メッセージ広告」が主流とならなければならない。
「メッセージ広告」といいながらよく見てみると未だにアピールから抜け切れていない広告が少なくないが、そもそもメッセージというのは「見えない部分をわからせる」ところに真骨頂がある。

つまりアピールはオーディエンスに考える余裕を与えず広告主のいいたいことをそのまま刷り込むことを目的としているのに対して、メッセージはオーディエンスに考える余裕を持たせなければならない。
そしてオーディエンスから発せられた二次メッセージが広告主のメッセージに作用するという双方向性を有する。ここから社会に横たわった課題が徐々に際立ってくるのである。

ではどのようにしてメッセージ広告を企画すればよいか。企業には経営理念のもっと奥底に経営に対しての思想や哲学の核がある。その核を包み込むようにして経営理念が生まれ、経営理念によって企業風土が形作られる。そして企業風土がアピールの源泉(企業の癖)となるのだ。

哲学は昔も今も替わらないが企業理念は時代に応じて変える場合がある。流行に即するためだ。CIが流行った時代には多くの企業で創業の哲学は蔑ろにされ美辞麗句の企業理念がアピールされた。
人間でいえば哲学は心や人格であり企業理念は化粧である。そして多くの人前で振る舞うことがアピールと理解できる。で、そんな厚化粧のまやかしはもう誰も信じない、となった。企業の「心」を真摯に社会に対して示すこと。これがメッセージなのだ。

アピール広告とメッセージ広告

したがってメッセージ広告を企画するに当たって最も重要なのは、いったん世の中の流行や異説は忘れて企業自ら社会に対して独自の意見を述べることだろう。
そのためにはまず自社の心が何なのかを知ることから始めなければならない。十人十色というように企業にもそれぞれの特色がある。その結果メディアを通じたメッセージ広告によって、社会にはさまざまな意見が飛び交うようになる。

今のようにどの企業も似たような広告、という不思議な現象もなくなる。もちろんオーディエンスから同意されないメッセージや敬遠されるメーセージもあるだろうがそんなことは気にする必要はない。決して社会に媚びることなく企業独自の意見を発すること。これがメッセージ広告の根幹になる。
 

広告に携わっておられる読者ならすでによくご存じだと思うが、放送禁止や掲載禁止になったCMや広告が少なからずある。
もとより広告制作クリエイターは日頃から広告倫理規定を熟知しながら対応している。それにもかかわらず、くだらない言葉狩りや過剰な良い子主義のあおりで致し方なく日の目を見なかったのだろうが、中にはどうしてこんなすばらしい広告が、と思う作品もある。

その多くは紛争や戦争をモチーフにしたものである。たとえば子供が銃を抱えた映像があるだけで、子供に銃を持たせることを容認している、だから広告としては許せない、という短絡思考が生まれるらしい。
子供が戦士として否応なく駆り出されている国が現実に存在しているにもかかわらず、だ。

白い犬が喋っても、犬が喋るわけがないそんな広告はおかしい、と目くじらたてるわけでもなく単純に受け入れる一方で、現実にある負の光景を見せることに躊躇する。
最大の環境破壊や社会崩壊の要因である紛争が大きな課題であるならば、それをテーマにした広告は平和ボケした我が国でこそ価値があると思うのだが。
メディア側の広告倫理規定をはじめ、企業側の神経質なくらいの事なかれ主義や臭物蓋体質は、これからの広告のありかたに重要な課題を提示しているように思う。メディアや広告主こそまずASICAの課題探索から始まって、将来の広告を見直さなければならないのかも知れない。

 

新BtoB社会の到来とマーケティングの行く末

昨年チュニジアのジャスミン革命に端を発した北アフリカの民主化運動は、BtoB社会のこれからのありかたを見る良い機会だった。ソーシャルメディアが急速に普及しながらも、それが企業あるいは国民一人一人にどのような影響を与えるのか、明確な結論を得ない中でおこったこの事件は、Twitterなどが持つメディア力をまざまざと見せつけた。

まったく面識のない人々同士がTwitterを触媒としてあたかも一つの頭脳を持ったような行動パターンを誘発する。この現象は独裁国家のみならず一応民主的だと思われている我が国も含めて、先進諸国でも最大の組織である国家の運営において大きな課題を投げかけた。ここまで行かなくてもすでに我が国ではBtoC社会が崩壊し、新たなBtoB社会が到来しつつあることを機会あるごとに述べてきた。

「個」の組織化(BtoB化)を行う触媒となるのは何もTwitterだけではない。あらゆるメディアが交錯している現在、しかもCGMといわれる誰もが情報発信できる仕組みの中では、個人個人が無意識下で特定の思想や見識に誘導される可能性は十分ある。原発事故後のマスコミ対応とは裏腹にCGMによってさまざまな情報が公にさらされ、その真偽が問われているが、今となってはどうもCGMに分がありそうだ。

マスメディア全盛の時代は、良い意味でも悪い意味でも世論誘導は比較的簡単だった。一時期話題になった劇場型政治などその典型だろう。しかしCGMが今後ますます普及することを考慮すると、もはやマスメディアによる世論誘導はまったく不可能になる。それがマスメディアの信頼性低下につながり、替わって人々は独自に構築した自分だけのネットワークにある情報だけを頼りにする。こうしてさまざまなネットワークにつながれた見ず知らずの人たちが、無意識下で組織化されてしまうのだ。もうすでに若年層では携帯ネットワークなど極めて強固な組織が出来上がっている。

こうなればBtoC分野では今までのような「個」の価値観を重視したコミュニケーション活動はほとんど効力がないと考えて良い。最近広告が効かないとかものが売れないという声を耳にするが、すでに社会全体がBtoB化し、個の意識が希薄になりつつあることを考えれば当然とも言える。

メディアの多様化に伴い縦横無尽に生成される虚構の組織化、つまりBtoB化がすでに始まっている。ここでは純粋な個の意識はさして重要ではなく、組織化された個がどのような意識を持つのか、が今後広告やマーケティング分野での大きな課題になる。何とも頼りないあの人が、どうして国をひっくり返す闘志を持ったのか、など群衆心理の研究は、BtoBコミュニケーションの魅力あるテーマだ。
こうなるとBtoBマーケティング分野では今までのように経営学一辺倒ではなく、社会心理学や組織心理学、さらには個と組織を絡めた精神分析学などの学際的な取り組みが求められてくるだろう。

宣伝力変革の時代 (5/5)

⑤インターナル・マーケティング。

高気圧型で広告の変革を。

組織間のホスピタリティを実感できる身近な方法がある。「インターナル・マーケティング」は社内の様々な部署を顧客と見なして対応する活動だが、ここにホスピタリティの概念を持ち込むのだ。「相手に喜んでもらう」ことを前提に全ての業務に取り組むが、重要なポイントは喜んでもらう相手部署は必ず自部署よりも外側、つまり顧客や社会に近い部署であることだ。

最も外側に位置するのは言うまでもなく営業やサービス・広報部門である。その内側にある開発・製造や販促部門は、営業に喜んでもらうために力を尽くす。さらに内側の総務・人事や経理部門は、開発・製造や販促部門に対してホスピタリティを提供すると言う具合になる。

では会社の中枢にいる総務・人事や経理部門はどこからホスピタリティを受けるのか。経営トップからである。トップを頂点にして企業の外側の部門に対してホスピタリティが広がって行く様から、このスタイルは「高気圧型ホスピタリティ」と呼べる。

一方でこれが逆になっている企業を目にする機会が少なくない。社内交渉に手間がかかるとか、顧客をさしおいてまず上司や社長のご機嫌を伺う企業風土は、ホスピタリティの流れが外側から中心の上部に向かう「低気圧型ホスピタリティ」である。組織同士の関係を良好に維持して行くためには、常にホスピタリティの先端が社会に接している高気圧型がよい。

しかし広告の現場で興味深い事実がある。多くの企業は広告計画に際し、役員会などに上程しご意見を伺うことがあるが、これこそが低気圧型なのである。自社の役員よりも顧客や社会からの評価の方が重要なのにもかかわらず、低気圧型を維持せざるを得ない難しさが企業論理としてある。

低気圧型の組織はいずれ社会から孤立する様に、こうして作られた広告は顧客などお構いなしに、社内だけが盛り上がっているという奇妙な現象を生むこととなる。広告担当は、まず顧客や社会に視点を置き、徹底的に課題探索をした上で自信を持ってソリューションをメッセージすべきであり、内向きのご意見伺いは無意味だろう。

ネットを始め多様なメディアが乱立する今、宣伝力の変革が求められとかくメディア論や広告手法に矛先が向かいがちだが、その前に広告主はトップを頂点に顧客や社会に向かって、ホスピタリティを送る高気圧型の企業風土に変革すれば自ずと広告も変わる。その糸口がインターナル・マーケティングにある。

インターナルマーケティング
 
 
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河内英司(かわちえいじ)
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京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
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