1ヶ月ほど前の土曜日、猫の集会に参加した。夜12時を少しまわった近所のお寺。人影もまばらで、あ、こんな風景もあったんだと、いつもと違う週末を楽しんだ。
じつは1年くらい前から、このお寺の猫たちに、毎夜お食事を届けている。ま、猫ちゃん相手のデリバリーサービスといったところかな。そんなことで、こちらの猫たちとは、ある程度顔なじみだけど、集会とやらには初めて参加させていただいた。
お寺に到着すると、もうすでに6頭のメンバーがそろっていた。お、もう会議はじまってるの、と思いながらも適当に空いた場所にしゃがみ込む。で、ここで肝心なのは、けっして猫の近くに寄りすぎないこと。2メートルくらいの距離を保ちながら、静かにしゃがみ込む。昔何かの本で読んだけど、動物には心地よい距離というのがあるらしい。体感距離とかパーソナルエリアと言われているもので、心理的に認められた概念上の空間なのです。これは当然人間にも当てはまって、見知らぬ人があまり近くにいると、なんだか気味悪くて落ち着かない感触。あれが体感距離を侵略されている現象なんですね。子供の頃、まだ舗装されていない地面に木の枝で丸く円を描いて、ここはボクの陣地だから入らないでね、と言って遊んだあれに近いものがある。この体感距離は親しい人ほど短くなるらしく、恋人同士だと、もうほぼその距離は限りなくゼロに等しくなるのであります。
ま、それはともかく、体感距離を守って猫たちの間に均等配置につきましょう。そう言えば6頭の猫もそれぞれ、1メートルから2メートルの距離を置いて均等に座っている。しかも、面と向かっては座らないんだね。お互いにあっち向いたりこっち向いたり、実にうまく乱数表のごとく着座している。人間社会では、会議はおろか人とお話しするときは、フェイス ツー フェイスで相手の目を見て喋りなさい、と教育されてきた。先生に質問されて、えーと、それはねえ、と余所見しながら答えたら、ちゃんとこっちを向いて喋りなさい、って叱られたことがあったな。でも、猫の集会ではけっしてフェイス ツー フェイスの光景は見られないし、議長も誰かわからない。いったい誰が司会してどんなお話しをしてるんだろう、と探ってみても全く不明。皆ずっと黙ったまま、箱座りしているものやら退屈そうに毛繕いしているもの、もうこんな会議はつまらん、と言った風に居眠りをはじめる輩もいる。30分ほどしたら別の2頭が遅れて参加してきた。いやあ、野暮用で遅くなって申し訳ない、と言ったそぶりもなく、やはり体感距離をきちんと守って着座。これでいつものフルメンバー勢揃いなんだが、会議が進行しているのかどうかもよくわからん。2時間くらいすぎた頃、1頭また1頭、と近くの木下や灯籠の下など、好みの場所に移動しはじめた。それじゃ、また、と言わんばかりに、そそくさとどこかへ行ってしまうものもいる。どうも会議は滞りなく終了した模様です。
こちらは2時間のあいだ、無言でずっとしゃがみっぱなしだったが、何か心地よい。無言の会議。果たして、この集会で皆何を話していたんだろう。テリトリー問題の調停なのか、食事の順番の決めごとか、たわいもない世間話なのか。人間社会では、おい、誰か喋らんと会議にならんぞ、と議長からお叱りを頂戴するところだが、猫の集会では、えー私の見解は、まあ、こういったことでありまして、いやいや仰るとおりでごもっともなご意見で、と言った社交辞令が飛び交うこともなく、極めて効率的に進行されているのであります。
人間は、言葉によってすべてのコミュニケーションを行っている。言い替えれば言葉なしでは、もう、コミュニケーションはとれない動物だとも言える。でも、この猫たちは、おそらくは無言で話し合ったに違いない。私も集会のあいだ、一所懸命、「この猫たちは何を思っているのだろう」とか「あんたはどこから来たの」と無言で語りかけていることに気がついた。猫の心の奥底を、必死になって読み取ろうとしている。もしかして、この行為だけでもコミュニケーションが成り立つのでは、と思ってしまう。
確かに猫や犬など、動物にはある種のテレパシー能力が備わっている、と言われている。飼い主の心や気持ちが理解できる、と言う話は何回となく耳にしたことがある。飼い主が猫を動物病院に連れて行こうと思っただけで、雲隠れしてしまう猫がいたり、外出中の飼い主の事故や病気を予知する猫がいることも、海外事例で紹介されている。その原因はまだわからないにしても、どうも人の心を読む能力は、確かにあるらしい。たぶん、猫の集会でも、言葉を使わずに心と心で十分なコミュニケーションをしているのでしょう。
人間が行う言葉を用いたコミュニケーションが、絶対正確なものとは言えないことは、「まあ、それは可能といえないといえば嘘になりますが、可能性の中にも不可能な要因が潜んでいると言うことでして・・」と言ったザ・政治家らしいお言葉や、会社と赤チョウチンでの会話のギャップをみれば、至極当然のことであります。また、真意とは裏腹に、相手の心を傷つけたり、誤解されたりするのも、言葉という道具の仕業なのです。
企業でも最近は、コミュニケーションの活性化とか、情報の共有化などといった大スローガンが溢れまくっているが、どうも人間社会では、このコミュニケーションというものを勘違いしているのでは、と猫の集会は教えてくれるのです。まず、「あいつはコミュニケーションが優れている」と言われる人物は、話し上手でいろんな情報をあちこちに発信するタイプを指すでしょ。でもね、これが違うんですよ。ほんとうにコミュニケーションで大切なのは、情報を発信することよりも、読み取る能力なんです。誰がどんな情報をほしがっているのか、を見分ける力。相手の心を読む力が大切だと思っています。とくに、現代のようにネットワーク社会になって、ケイタイやらメールやらで自由に会話できる便利な装置が氾濫しているときこそ、これが大事。
どうも私たち人類は、大昔、言葉を発明したときから、心を読み取るという、超のつく貴重な宝物を置き去りにしてきたようですね。今、テレパシーがどうのこうの真顔で論じると、ちょっと違った世界の人のように思われてしまう。山のてっぺんで深夜、輪になって手をつないで、さあ、宇宙人さんいらっしゃい、と言った類のそれみたいに。でも、先に書いた猫や犬の予知能力を見ると、確かに人間にもその能力は備わっていたはずだと思う。事実、虫の知らせや、第六感などがそれに近いものかも知れないけど、人間の場合は、赤ん坊にその痕跡が見られると言われている。言葉をはじめ、いろんな知識を身につけるのと引き替えに、こう言った大切な能力がだんだん退化してくるのだろう。
で、現実には不可能かも知れないが、例えば、1ヶ月間はいっさい喋らない、と言った体験をしてみるのも面白いかも知れない。言葉を使わないから、こちらから話しかけることはできない。相手の言葉をきくこともできない。ただひたすら相手の気持ちを探ろうとする。たぶん、1ヶ月後には人や自然の心を読み取ると言った力が、少しは頭をもたげてくるようにも思える。
環境問題に対しても、今、言葉が先行して、地球温暖化や自然との共生など難しい話をしないと、偉そうに思われないのだが、もっと大切なのは、一度言葉をやめて、どこまで自然と会話できるか自分自身で体験することだと思うのであります。
人間も自然の一部だとしたら、人間社会だけで通用する言語ではなくて、動物や植物が当たり前のように行っているコミュニケーションのカタチを研究することも、大きな課題なのです。と、猫の集会は教えてくれたのでありました。