河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

コミュニケーション

新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(3/5)

3.閑話休題。フェイスブックの隠れた潜在力(2/2)。

 

そこで二つ目の機能。文字入力など面倒なことは一切する必要なし。
独居老人問題の最大の課題は、今現在の健康状態や精神状態がどうなのか、である。それを別の手法で満たせばよいのであり、そのための機能開発が重要になる。

たとえば、トイレのドアを開けたら自動的にフェイスブック上にマーキングされるとか、玄関のドアを開けたら「外出」欄にマーキングされるなどいくらでも方法はある。
したがってフェイスブックのスタイルシートは主に二種類必要となる。従来のタイムラインに加えて「行動監視チャート」が新たに加わるのだ。


今までも似たような仕組みは確かにあった。ポットの電源を入れるだかお湯の量が減るだかしたらあらかじめ設定した人のところに連絡が行って、安否が確認できるという類がそれだが、あくまでも連絡先は身内や親戚に限られる。
身内に面倒を見てもらってはいるがあまりにも狭い範囲での監視体制では少々心許ない。重要なのは地域社会で面倒を見たように、いつも誰かが看てくれているという安心感だ。

それがフェイスブックでは可能になるかも知れないのだ。ただし前述のドアと連動した安否シグナルの送信と表示など、まったく新しい技術やアプリの開発は必要となるが、それもまた新たなビジネスチャンスと受け止めることもできるだろう。

そこでここまで書くとまた否定的な意見も推察できる。個人を「監視」とはどういうことだ。これは国民監視、さらには監視社会につながるのでは、とか、個人情報がどうがこうだでプライバシーの問題など。しかし今現在の重要課題を解決するのに、しかも人命に関わるような大きな課題解決のためには法律もへったくれもないだろう。法律にあわなければ法を変えればいい。


さらにデジタルデバイドの観点から見れば、今後音声入力や特定のボタンを押すことで安否シグナルが送信できる簡便さが必要になってくる。
専用リモコンの赤ボタンを押せば「ちょっとやばい。助けてくれ!」のシグナルになるとか、青のボタンなら「今日も元気だ。安心してくれ」というふうに。

老人向けFB画面

ディスプレイもパソコンでは敷居が高すぎる。普通のテレビをインターフェイスにした方がいいし、通常番組とフェイスブックの二画面同時表示がもっとも好ましいだろう。
つまりフェイスブック専用のテレビ、ということだ。こうすれば、老人のお友達仲間全体で誰が今どんな状況にあるのかをお互いに把握しあえる。

これはまさに地域社会そのものではないか。また監視の話になるが、もっと言えば行政がこれに荷担して複数のフェイスブックサイトを監視し、適切なアドバイスを記入してもいいし、赤ボタンが押された場合にのみ行政にアラートが出る仕組みにしてもいい。
フェイスブックを単に新しいメディアとするのでなく、社会インフラの一つとして捉えることだ。
 

で、こんなフェイスブックを立ち上げたところで何のビジネスにもつながらないじゃん、といったお決まりの経済合理主義が頭をもたげてきそうだが、どうしてどうしてここは将来最大の組織である老人社会そのものであるから、考えようによっては効率の良い老人マーケットと考えられる。
したがってスポンサー欄には現在のような訳のわからない広告ではなく、介護やホームヘルパー、出前、老人向けカルチャースクールなどいくらでもスポンサーは見つかる。
 

話はずれるが筆者は1997年に「マーネット」という概念を提唱した。数年前まで筆者のセミナーを受講された方にはそのさわりを紹介していたと思うが、要はリアルなマーケットが将来ネット上に形成される時代が来る、ということだ。
 

老人向けフェイスブックが軌道に乗れば、独居老人の悲劇もある程度回避されるだろうし、意外にも早々とマーネットが現実のものとなるのか知れない。
 

閑話休題と言いながら長々と書き綴ったが、BtoBコミュニケーションは組織対組織コミュニケーションであることから見ると、単にビジネスに直結したテーマだけでなくこのような最大の組織である社会が抱える課題解決も気にとめていきたいという思いからあえて紙幅を割かせていただいた。

新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(2/5)

3.閑話休題。フェイスブックの隠れた潜在力(1/2)。
 

ここでBtoBマーケティングとはまったくかけ離れるが、社会にとって重要な課題なのであえて提言しておきたい。
 

ASICAモデルのトリガーが「アサイメント(課題探索)」であるとした。
今、社会にとっての最大の課題は何かを考えたとき、どうしても見逃せないのが高齢化社会における課題であろう。とりわけ独居老人問題の悲劇的な報道を目にすることが最近少なくない。それとは裏腹に、むしろ社会における致し方ない暗部として認識され、遅々としてその解決策は進展していない。

数十年前は家族だけでなく地域社会が当たり前のように老人の介護に取り組んでいた。しかし現在はもう地域社会などあってないようなもの。いわば独居老人問題は地域社会の崩壊を意味すると理解できる。
この重大な課題を抛っておくわけにはいかないが、かといって以前のように地域で面倒を見るというのもここまで人と人のつながりが希薄になった今、もはや現実的ではない。ここでフェイスブック登場。

すでに今までBtoCと思われていた社会でも組織化が進みつつあると記した。
フリーターや若年層の独特な組織形態はともかく、現在もっとも大きな組織は定年を迎えた団塊の世代である。
企業という組織から離脱した後も無意識のうちに団塊世代は共通した価値観を持つ組織の一員として君臨する。マーケティングの一面から見れば、購買余力の点からも魅力ある組織ではあり、今後シルバー世代に対するマーケティングアプローチが盛んになるだろうが、一方で前述の独居老人予備軍でもある。

とかく金儲けに直結しない施策は後回しにされがちであるが、社会の大きな課題がここにあるとすれば、その解決に向けた対策は見過ごせないところだ。

 独居老人や介護老人のケアを以前は地域全体で行うことがありふれた日常であった。その地域社会の概念が希薄になりこれらの問題が白日の下にさらされてきたわけだが、それならばもう一度地域社会を復活させては、という思いが生まれてくる。

リアルな世界での地域社会復活が現実的でないとするなら、いっそのことフェイスブックでそれを構築すればいい。

今まさしくフェイスブックではお友達社会という新たな組織があちらこちらに出現している。これをそのまま老人社会に置き換えればすむ話だ。

つまり、気心の知れた老人同士のコミュニケーションの場としてフェイスブックは有効性を持つ。この場合、フェイスブック上では二つの機能が考えられる。
一つは現在主流となっているタイムラインに対応したコミュニケーションの場である。いわばこれは老人ホームの談話室的な機能だろう。「今起きた」とか「元気です」とか「どこどこへ行ってきました」などを自由に書き込めばそれだけで対象の状況が把握できるし、老人同士のつながりも生まれてくるだろう。このつながりが独居老人の悲劇を回避させる有効な機能を持つ。

しかしここまで読まれた読者の中には、多少なりとも違和感をもたれている方が少なくないと思う。キーボードもろくに扱えない老人にそんなことは無理だろうとか、外に出るのも億劫な人がわざわざパソコンに向かって四六時中文字入力するのかいな、など。
いわゆるデジタルデバイドの問題がここで大きく立ちはだかることになるのだが、それはそれで新たな商品開発やサービスのきっかけになることも忘れてはならない。

 


ASICAモデルからみた展示会の可能性(8/8)

12.ASICAモデルとこれからの展示会


BtoBコミュニケーションの過程であまりメディアの関与がない「I:inspection検証」や「C:consent同意/承認」のプロセスにおいても、展示会は有効だ。顧客企業の担当窓口との間で一通りの商談を済ませば一段落ではあるが、じつは顧客企業側ではその後の検証作業(製品の導入効果)や同意形成(決裁者による承認)プロセスが残っている。ここで十分なフォローがないと、一発逆転で他決してしまうことすらある。もし商談途中の案件があるなら、顧客企業の担当窓口だけでなく、上位の決裁者などを展示会に招くことも商談成立に効果がある。


ASICAモデルの最後の「A:action(購買/行動)」レベルでは、展示会は顧客の囲い込みに大きな役割を果たす。商談が成立した以降も次の商談に繋がるように、常に展示会に招いて課題探索を行う仕組みづくりが重要である。顧客は次の見込み客であることと、従来顧客の囲い込みよりも新規顧客の開拓の方にはるかにコストが掛かることを考えれば、むしろ展示会は従来顧客(将来の見込み客)のために用意されたホスピタリティの場と言えるのである。
 

BtoBの購買プロセスとASICA

今後さらなるネットの進化によって、BtoB分野においてもSNSやツイッターなどのソーシャルメディアが台頭してくるだろう。とかくこれらの目新しい手法に目が行きがちであるが、その根底に潜む要因にも目を向ける必要がある。インターネットが普及し、WEBサイトやブログで誰もが情報受発信することが可能になった後、SNSやツイッターが出現したことは、メディアがどんなに進化しても、最終的には人々が「対話」を求めていることを意味する。さらにSNSなどで、匿名ではなく実名でのディスカッションの重要性が議論されていることを考えれば、いずれリアルなFace to Faceコミュニケーションのありかたが再認識されてくるだろう。

そんな中にあって「接触メディア」として特異な性格を持つ展示会は、 Face to Faceマーケティングにおける将来もっとも注目されるべきメディアだと考える。
このように書けば昔返りのように思われるかも知れないが、文明は螺旋階段のように進化し、その過程で幾度となく原点回帰を繰り返すものである。

ASICAモデルからみた展示会の可能性(7/8)

11. 展示会効果の捉え方と効果測定例


さて、ここで展示会の効果測定についても考えてみたい。展示会の最終的な目的は「受注拡大(受注確保)」にあるだろうが、それ以外にも展示会は様々な機能を保有している。集客ありきの考え方も、展示会を広告媒体として見るなら否定はできない。要は、展示会を「広告媒体」として捉えるか「営業の場」として捉えるかによって、その効果に対する概念は変わってくる。


展示会には多くの来場者があり、当然そこではブランドの露出が行われ、認知度向上の効果がある。また、ブース内で顧客や見込み客とのコミュニケーションやソリューションの提示を通じて、顧客満足度の向上や需要創造の機会もある。展示会効果測定において、明確に数字として捉えることができるのは、「投資コスト」「来場者数(自社ブース・会場全体)」「商談額(受注額)」となる。これらの数字を用いて展示会効果測定の基準を作ることになるが、この数字以外の見えない効果、つまりブランドイメージやすぐには受注には結びつかないが、好意的な受注予備軍をどのように取り扱うかが課題として残る。

展示会効果測定の一例(1)
展示会効果測定の一例(2)

ここで端的な展示会効果測定の一例を示す。
まず展示会効果を「PR効果」と「セールス効果」の二つに分けて捉える。


a.PR効果=PR効果は来場者数を投資コストで除したものであり、単位コストでどれだけ多くの来場者が得られたかを示す。

PR効果=来場者数÷投資コスト → 認知効率

b.セールス効果=セールス効果は受注額(引き合い額・商談額)を来場者数で除したものであり、来場者ひとりあたりどれだけの受注が得られたかを示す。

セールス効果=受注額(引き合い額・商談額)÷来場者数 → 受注効率

このように展示会には二つの効果があると考えられ、最終的な展示会効果はこの二つの効果を掛け合わせることによって得られると理解することができる。つまり、

展示会効果=(来場者数÷投資コスト)×(受注額÷来場者数)

展示会効果=PR効果×セールス効果

となるが、ここではそれぞれの効果測定で分子と分母になる「来場者数」が相殺され、結果的には「受注額(引き合い額・商談額)」を「投資コスト」で除した数字となる。

展示会効果=受注額÷投資コスト

こうしてみれば展示会効果は単純に投資コストと受注額によって算出できるようであるが、実は相殺された「来場者数」の「量」ではなく「質」に大きな意味があることを忘れてはならない。この「質」の表現は数字では困難であるが、来場者の「質」の向上によってPR効果面でのブランド認知の「質」が向上する。また当然来場者の質が向上すれば結果的に受注額も増加し、セールス効果も向上する。

前述したように、展示会のROIを向上する条件として説明員の質の問題を取り上げたが、同時に来場者の質もまたROIに大きく影響する。この来場者の質を高めることが、6項で述べた集客の課題に合致する。またここでの来場者を、「展示会場全体の来場者」と設定した場合と「自社ブース来場者」と設定した場合とではやや意味合いは異なってくる。さらに、「受注額」を「引き合い額」や「リード件数(カタログ請求件数)」と置き換えることもできるが、各企業それぞれに営業形態や企業運営形態に沿った形で独自の効果算出式を構築すればよいと考える。

重要なのは展示会効果算出式で得られた数字は絶対的なものではなく、各展示会や年ごとの変化率の把握(トレンドの把握)として位置づけた方が良い。なお、受注成立にはセールスコールの質(引き合い処理の仕方)が大きく影響するため、多面的な営業活動の一環としてこの数式を捉えることも重要である。

また、数字では表れない様々な要素、例えば顧客創造やリレーションシップなども、最終的には後々の受注額に寄与するものと考えられ、またとりわけBtoB分野では受注成立までに長期間要することもあるため、この効果測定算式は継続的に使用しその結果のトレンドを数年に渡って把握していくことが重要と考える。

展示会効果測定の基本的な考え方

ASICAモデルからみた展示会の可能性(6/8)

9.説明員のスキルアップが展示会のROIを改善する


さて、唐突ですが「あなたがもっとも好きな企業は?」「その企業が好きになった理由やきっかけは?」と問われたらどう答えるだろう。BtoB分野では、おそらくほとんどの人がまず製品(技術)を思い浮かべ、その次にそれを購入したりサービスを受けた際の担当員の対応や、経営者の人柄がポイントになるだろう。広告がきっかけと答える人はごく僅かと思われる。

展示会においてこれを証明するようなデータがある。米国の Exhibit Surveys 社 が2006年まで毎年発表していた「Best-Remembered Exhibits」である。


展示ブースにおける記憶再生率と記憶の理由

これは展示会効果を、記憶される割合のレベルで測定し、展示会を構成する各要素との関係を定量的に把握したデータである。ここでは、展示会を構成する要素として「製品デモンストレーション」「製品そのもの」「文献(説明パネル)」「展示デザイン」「説明員」「ブランド認知度」などとし、一年間に開催された様々な展示会の終了後ある一定期間経ってから、「あなたがもっとも記憶している展示会」「その展示会の中でもっとも記憶している企業ブース」「その企業ブースがもっとも記憶される理由(要素)」についてアンケート調査を行ったものである。


表からわかるように、当然製品そのものに対する興味や製品のデモンストレーションおよびブランド認知度が高いポイントを占めているが、意外なのは、展示会の演出に重要な役割を持つと考えられる「展示デザイン」よりも「説明員の応対」の方が高いポイントを獲得していることである。これは今後展示会を運営していく中で非常に重要な課題になってくる。
従来、展示会には高いコストをかけて装飾を施し、どこよりも目立つように、またどこよりも格好良くデザインするのが広告マンとしてのプライドでもあった。その一方で、営業担当や技術者に対して、多忙な日常業務を割いて展示会の説明員として参加要請する後ろめたさもあった。


このデータを見る限り、展示会でのそれらの取り組みはまったく無意味であったことがわかる。もっともコストの掛かる展示ディスプレイに注力するのではなく、あくまでも製品とデモンストレーションが主役になるようなシンプルな装飾に止め、代わりに固定費として捉えられる説明員の応対の質を改善することが、展示会のROIを向上させる最大の近道なのである。
Face to Faceマーケティングや、人を集める重要性を述べた6項から8項までの内容とこれらを照らし合わせると、これからの展示会でいかに「製品」と「人」がその成否を握っているのか理解できる。


10.展示会のROI向上に寄与する説明員の条件

 

展示会を成功させる要因として、「説明員」の重要性が理解できたが、だからといって大勢の説明員をブース内に立たせるだけではかえって逆効果になる。よく目にするほとんどの説明員が待ちの姿勢で通路側を睨んでいる光景には尻込みしてしまう。そもそも自ら見込み客を招いたなら、待っているのではなく迎えに行かなくてはならない。来場者から話しかけられるのを待つような姿勢では、到底ホスピタリティは提供できないし、来場者の記憶にも残らない。


それではどのようなスキルが説明員に求められるのだろうか。まず来場者からの質問や課題に的確に答えられる技術的な知識を持っていること。話し上手であるが薄っぺらな知識しかない営業担当よりも、少々口べたでも自らの技術に誇りを持つ技術担当の方が説得力はある。
次に来場者の抱えている課題が十分に把握でき、場合によっては気付かれてない課題すら提示できるような当該分野での基本知識を備えていること。そして、課題に対して自信を持って明確なソリューションを提示できること。

ここまで行けばASICAモデルの「A:assignment課題」「S:solution解決策」「I:inspection検証」「C:consent同意/承認」のプロセスが満足できる。

展示会での説明を、単に製品説明という側面ではなく、来場者の持っている課題を引き出し、ともに考え、解決策を提示するという姿勢、つまり提案営業の心構えが展示会のROIを高める最大の要因なのである。そのため説明員には、単に自社の製品や技術だけでなく、顧客企業も含めた業界全体の動向を常に把握する能力が欠かせない。説明員と言うより、顧客企業のコンサルタンシーとして取り組む意気込みが求められる。

ASICAモデルからみた展示会の可能性(5/8)

7.ホスピタリティ・マーケティングから見た展示会


ASICAモデル提唱の際、BtoBビジネスの原点はホスピタリティにあると述べた。詳しくは「産業広告」の40周年記念号(2009年10月)をご覧いただきたいが、BtoBを構成する組織間の良好な関係性の維持にホスピタリティは不可欠である。では、展示会におけるホスピタリティとは何だろう。ホテルなどのサービス業界で通常用いられているこの概念は、客人をもてなすと言う意味があるため、米国の展示会でよく見られるギブアウェイ(景品)やブース内での飲食物の提供などと思われがちであるがそうではない。ホスピタリティの概念をもっとシンプルに「人に喜んでもらう」と理解すればわかりやすい。


自らが顧客側に立って考えればよく理解できるが、BtoB分野での顧客にとっての最大の喜びは、業務を遂行する上での難題(課題)の解決である。様々な課題を抱えた来場者が、展示会の場で課題解決できるのは最高のホスピタリティと言えるだろう。しかもWEBサイトなどビジュアルや音声だけに頼るのではなく、技術者と直に接して解決策を議論できるメディアは展示会以外には考えられない。だからこそ出展社側は、展示会で単に製品を並べるだけではなく、当然のことながら製品のデモを含めたスタッフ(技術者)から的確なソリューションを提供できる体制で臨まなければならない。


刺激反応型パラダイムの時代に流行っていた、コンパニオンにお仕着せのセリフを覚えさせて製品紹介するなどの手法は、現在の展示会では時代錯誤と言えるし、ホスピタリティの観点から見れば何の価値もない。くどいようではあるが、どんなにネットが普及しても技術者からFace to Faceでホスピタリティが提供できるのは、通常営業と展示会だけであり、営業効率から見れば展示会に勝る場はないと考えられる。
 

展示会におけるホスピタリティとは

8.セールス効率から見た展示会の価値


展示会を行動科学とマーケティングの両面から科学的にデータ解析する分野は、我が国では未成熟であるが、米国ではある程度研究されている。展示会におけるセールス効率についても詳細に研究されたデータがある。残念ながら原本は見あたらないが、過去に産業広告誌で紹介された石川忠弘氏の訳文をそのまま引用したい。


Business Marketing誌の記事から、「米国では、一回あたりの平均セールスコール費用は、292ドルかかり、取引成立までに平均3.7回のセールスコールを必要とする。したがって、成約取引一件あたり計1,080ドルかかる計算である。一方、展示会の場合、展示ブースへの入場者一人あたりのコストが185ドル、取引成立までの平均セールスコール回数が0.8回、一回あたりの平均セールスコール費用が292ドルだから234ドル、合わせて419ドルと、半分以下の費用で済んでいる。平均コール回数が一回未満なのは、取引がコールしないまま成立する場合があることを示唆している(産業広告vol.25 No.2)」


広大な国土をもつ米国でのセールスコールは確かにコストが掛かるだろうし、我が国ではまた違った解析結果になるのかも知れないが、少なくとも展示会でのセールス効率は通常営業のそれとくらべてはるかに高いことが見て取れる。また前述の記事紹介で重要な部分は、「取引がコールしないまま成立する場合があることを示唆している」のくだりである。つまり、様々な手段で得られた見込み客を、最終的に展示会というトレードの場で顧客に変えるビジネスモデルが米国では日常化していると考えられる。


その前提には、日頃から営業担当は見込み客のデータベースをしっかり把握し、効率の悪い客先訪問ではなく、展示会の場で取引を成立させると言ったビジネスモデルが必要になってくる。これはまさに「市」が営業効率を求めた結果として形成されたケースと同じと言える。
 

セールス効率からみた展示会の位置づけ

ASICAモデルからみた展示会の可能性(4/8)

6.人が集まるのか、人を集めるのか


昨年来我が国に限らず世界的に展示会の集客が低下してきている。もちろん不景気の影響が大きいと思うが、その原因は他にもある。

「この展示会は来場者数が少ないから出展しない」という声が当たり前のように聞こえてくるが、そこには集客は誰か(展示会主催者)がやってくれるはず、という甘えが隠れている。じつはこれが大きな勘違いであることに、多くの人は気付いていない。刺激反応型パラダイムの時代では、当然ながら刺激を求めてあちこちからわざわざ展示会に人はやってきた。しかしパラダイムが変化した今、交通費を払ってまでむやみに展示会に出かける人は少ないだろう。

展示会は、もはや黙っていては人は来てくれないものと認識すべきである。

経費削減の中、展示会に出展しなくても顧客訪問を中止する企業はない。それは課題を抱えた見込み客が存在するからで、その見込み客を展示会に誘うのがじつはマーケティング力なのである。どんなに頑張っても1日に訪問できる顧客数はせいぜい10件程度だろう。そんなに効率の悪い営業活動を行いながら、その何倍もの見込み客と接することができる展示会になぜ人を呼ばないのか。

自社が持っている膨大な見込み客にどれだけアプローチがかけられるか、それを出展企業すべてが行えるかによって展示会の価値が決まってくる。他社が集客した見込み客のおこぼれを期待するようでは、先が知れている。アプローチの仕方も案内状だけを送付して後はなしのつぶて、というのはほとんど効果がない。展示会直前には少なくとも電話やメールで顧客に来場を促すくらいの通常営業と同じ心遣いが必要である。

ちなみに筆者が以前行った自社の調査では、同じ展示会で案内状だけを送付した年と、開催直前に電話フォローした年とを比較してみると、電話フォローの年に25%の集客向上があった。

ここでもう一度展示会の原点である「市」の成り立ちについて振り返ってみよう。「市」が、物を探し歩く非効率の改善と物財交換のための効率的な「場」として成立し、そこで情報交換もなされたことを考えれば、顧客側からは、あちこちソリューションを探し回らなくてもそこに行けば様々な課題解決策が一堂に得られる場として展示会を捉えることができる。また出展企業側から見れば、あちこちに顧客訪問しなくても、そこに行けば見込み客が一堂に会している場として展示会の価値を認めることができる。つまり展示会構成企業がそれぞれに、見込み客への集客に最大限の努力を払うことは「市」の形成要因であった価値交換効率改善の最大の条件なのである。

ASICAモデルからみた展示会の可能性(3/8)

5.インターネット時代の展示会の役割と本来の価値(Face to Faceマーケティング)

インターネットの普及によって広報メディアとしての展示会は、ほとんど価値がなくなった。だからと言ってこれから展示会は発展しない、と考えるのはあまりにも早計である。とりわけ景気が低迷している時期には、展示会に参加しない理由に広報メディアとしての効果論をアリバイにする場合が多いが、そこでは展示会の本来持っている価値がほとんど議論されていない。
WEBサイトをいくら充実させても、そこで顧客と握手ができるのか?最先端のツイッターなどの手段を用いても、WEBサイト上で顧客の目を見ながら直接会話ができるのか?さらに顧客はWEBサイト上で実際に製品を手にとってその機能を確認できるのか?
様々な分野でネット至上論が展開されているが、唯一展示会だけはネットで代替できない機能を持っている。「接触メディア」としての機能である。Face to Faceマーケティングの一環として、顧客と直接面と向かって話せるメディアは展示会以外にない。もとより我々は五感を駆使して情報処理している。この五感がバランスよく機能して初めて正確な情報処理が可能になる。インターネットなど新しい技術が旧来のメディアを駆逐するような論調を目にするが、じつは五感を完備したメディアは旧来のリアルメディアである場合が多い。逆に言えば、インターネットメディアには視覚と聴覚の二感しか備えていない危うさがある。さらに旧来メディアのなかでもオーディエンスに対する広義の触覚を備えているメディアは展示会だけである。
この「接触メディア」機能が、展示会の本来の価値なのである。今後ますますネットの普及に伴って、やがて五感が満足できないネットに飽き足りた時、Face to Faceマーケティングの重要性が必ず見直される。ASICAモデルから見ても、Aから最後のAまですべてのプロセスをカバーできるメディアは展示会以外にない。インターネットの普及で代替できるのは展示会場で集めたカタログであり、展示会そのものではない。むしろ顧客との接触が最大の機能である展示会では、情報発信機能ではなく顧客とのコミュニケーション機能を重視した方が良い。 
そのコミュニケーションの核になるのが、ASICAモデルの課題(Assignment)探索であり、課題解決策(Solution)の提示である。一般に公開されている情報は展示会では必要ない。WEBサイトにも公開していない「顧客企業それぞれが持つこれからの課題と解決策」について顧客と議論できる場として展示会を運営すべきである。そのため、展示会には製品展示の場だけでなく、セミナーやワークショップなど双方向の仕掛けを導入しなければならない。つまり、五感をフル活用できる場として展示会を演出することが重要になってくる。
WEBの普及による展示会価値の変化

ASICAモデルからみた展示会の可能性(2/8)

3.マーケティングパラダイムの革新が展示会を変えた
 
消費行動プロセス「AIDMA」がローランド・ホールによって提唱されたのが1920年代であり、この一世紀近くにわたっては広告界やマーケティング界には新しい理論が満ちあふれ、それぞれが確固たる地位を築いた。そしてその根底にあった概念が、AIDMAモデルからもわかるように「刺激によるAttention」であった。これを後押ししたのが、物や便利さへの憧れであり、物に関する情報への切実な欲望であった。これらに対する刺激的なビジュアルやコピーが広告をいきいきとさせ、展示会でもことさら他社よりも目立つことが要求された。
刺激反応型パラダイムと称されたこのマーケティングの枠組みは、先進諸国では大量消費絶調の1990年代に最高潮に達した。我が国では○○博覧会と銘打ったイベントがあちこちで開催され、通常の展示会でも、主役であるはずの製品(物)はさておき、コンパニオンや映像を多用した派手な演出が目立っていた。やがて物が充足し、情報に飽き足りた社会は、もはや小手先の刺激には反応しなくなった。代わって物の価値表示(価格)と本来の価値との妥当性が問われ、その選別が慎重に行われるようになった。価値交換パラダイムへの変貌である。あわせて、物に充足した我々は物の活用や効用に対して新たな課題を持つようになる。飽食の時代を経て、食べることよりもダイエットや健康食品に課題の矛先が代わった現代のように。
しかし課題そのものと解決策の提示がマーケティングの新たな枠組みとして成り立ちつつある今でも、依然として広告や展示会で、従来のような刺激反応型のパラダイムに準拠した手法をとることが現在でも多く見られる。展示会は博覧会に代表される刺激反応型パラダイムから、課題解決のための価値交換型パラダイムへと変貌したことを念頭に置くべきである。
 
4.インターネットの普及が展示会の役割を変えた
 
マーケティングパラダイムの変化に呼応するかのように現れたインターネットによって、展示会の役割は大きく変わった。従来、展示会は情報収集の場として重要な役割を担っていた。新製品や新技術の調査と言う目的が展示会にはあったが、それ以上に我々が血眼になったのは、自社に関連する製品や技術のカタログ集めだった。各ブースで集めたカタログを、両手一杯にぶら下げて会場を後にする光景は当たり前で、展示会場では、持ちきれないカタログを発送する宅配便の受付があった。展示会は情報収集の名を借りたカタログ集めの場であったのだ。
それがインターネットによって一変する。1995年から翌年にかけて普及しだしたインターネットは、企業の情報発信機能を根底から変えた。さらに情報の受け手側であるオーディエンスもWEBサイトを訪問することによって主体的に情報収集することが可能になった。こうなれば情報収集の場としての展示会の機能はもはや意味をなさなくなってくる。高額なコストをかけてブースディスプレイを行った結果、得られた1件当たりのリード(引き合い)コストは、他の広告メディアの到達コストと比較すると圧倒的に不利なのは誰の目からも明らかであった。「これからはWEBが展示会の代わりになる」とか「これからはオンライン展示会だ」といった声が聞かれ、さらにはインターネット時代に展示会は不要とまで言われるようになってきた。
確かに広報機能としての展示会の役割はWEBサイトに代替されるが、そもそも展示会の機能がそれだけだったのだろうか。逆に考えれば、我々は刺激反応型パラダイムの中で、展示会の本来機能を忘れ、とにかく目立つことや誰でもいいから人を集め、ブースが賑わっていることが展示会の価値であるという勘違いをしていたのかもしれない。

ASICAモデルからみた展示会の可能性(1/8)

1.展示会の原点は「市」にあった

古代、人がまだ貨幣を持たず、物財のみの取引を行う場として生まれたのが「市(いち)」であった。これは物財交換を行うのに適当な場所として、交通の要所や寺院、神社の近辺に自然発生的に生じたものであり、ここで商取引の原型となる行為が行われていた。我が国では西暦210年に大和国(奈良県)で開かれた軽の市や、469年に河内国(大阪府)で開かれた餌香の市がよく知られている。この市の成立要件としては、まず人と物財が集まることにある。あちこちに物を探し歩くのではなく、そこに行けば様々な物があると言うように物財交換のための効率的な「場」として成立した。そこでは物財交換に合わせて情報交換もなされただろう。コミュニケーション手段がほとんどなく、どこに何があるのかさえもわからない情報が枯渇したなかで、この市の存在は商売の場としても情報メディアとしても価値があったと推測できる。そして等価交換が行われていた時代を経て西暦700年頃に貨幣が誕生した後は、物財を持たなくても商取引ができる場として市は劇的に進化していった。市がビジネスの場として市場(いちば)に、さらに現代に繋がる市場(しじょう/マーケット)へとその姿を変えていったのである。物財交換の効率性を求めて人が集まり、物が集まる。このことが現在の展示会のあり方を示唆しているし、展示会が見本市と言われる所以でもある。
展示会の原点

2.仮想市場としての展示会

市がさらに進化し都市が形成されるとますます経済は発展し、こんどは交換する物財そのものを効率的に製造する工業が誕生する。ここで生み出された工業製品は市場(マーケット)で交換され、さらに経済の発展に寄与することになるが、こんどは固定的なマーケットに限界が生じてくる。つまり、市の形成要因となった、「あちこちに売りに行く非効率」の是正である。市がこの是正のために物財を一箇所に集めたのと同様に、工業製品と人を一堂に集める仕組みが考えられた。その結果1756年には世界初の博覧会として「英国産業博覧会」が開催された。産業革命の足がかりとなる出来事だった。続いてナポレオンによってパリ工業博覧会が執り行われ、1851年にはイギリスで世界初の万国博覧会(ロンドン万国博)が開催されることとなる。このように地理的に固定化されたマーケットへのコミュニケーション効率の改善と、よりセグメントされた新たなマーケットを作り上げるために、仮想的なマーケット(市/市場)として博覧会は存在していたのだろう。これが、現在の展示会の原点である。つまり、展示会は仮想マーケットであり、物と人が集まるコミュニティとして成長した市の成り変わりと言える。
仮想マーケットである展示会(コミュニティ)では、ASICAモデルのトリガーであるA(Assignment/課題探求)が行われる。その結果はリアルなマーケットへのフィードバックを通じてさらに新しい技術や製品を誕生させる。そして経済の発展を促し、また新たな課題探求のために仮想マーケットが構築される、と言うようにリアルなマーケットと仮想マーケットがワンループとなってともに経済成長を促していった。博覧会や見本市は単に商取引の場としてだけでなく、課題探求とソリューション提示の場としても存在価値があったのである。
WEBの普及による展示会価値の変化

変革期におけるBtoB企業のコミュニケーション戦略と課題(4/4)マーケティングコミュニケーション

4.マーケティングコミュニケーション

セールスプロモーションの側面から見れば、マーケットの限定されたBtoB企業が、展示会やカタログなどのプロモーションにその多くのコストを費やすのは当然のことである。

ここで展示会でのコミュニケーションについて少し考えてみたい。BtoB企業の展示会はBtoC企業ほどではないが、相変わらず展示ブースのデザインに力点を置く場合が多い。展示会場の中でいかに目立つか、いかに人を呼び込めるかが重要な課題となっている以上それを否定はしないが、実は展示会において意外と知られていないのが「説明員の質」が来場者の記憶残留度にかなりの影響を与えていると言うことだ。

米国ののリサーチでは、来場者にとってもっとも記憶残留度の高い企業は、まず新製品の展示など製品に纏わるデモンストレーションが効果的であったかどうか。その次は説明員の対応が適切であったかどうか。3番目と4番目はブースデザインとプレゼンテーションが拮抗している。

意外にもオーディオビジュアルを使用したプレゼンテーションは記憶残留度にはあまり大きな効果は与えていないと言う結果が出ている。説明パネルに関してはほとんど影響を与えない最低点となっている。

これから分かるように展示会では製品のデモンストレーションと合わさって説明員がいかに来場者の問題解決に適切なサポートを行うか、が最大効果を発揮するポイントだと思える。展示会場はまさに顧客とBtoB企業とのコミュニケーションの場であるということなのだろう。

しかもエキジビットサーベイ社は展示会でのリード(引き合い)を元にした成約コストは、広告のそれとくらべて半分以下で達成できるとしている。マーケティングにおいて、展示会での説明員と顧客との充実したコミュニケーションはそのまま受注という対価に反映されるのである。その意味でも、展示会ではいかにして自社技術を熟知し、なおかつ適切なソリューションの提供と言うコンサルタント的な能力を備えた説明員を動員するか、が大きな課題と考える。

これと同じことがおそらくカタログにも言えるのではないか。とかく商品の特徴やセールスポイントを羅列してカタログとしての体裁を保とうとするが、今日ではもはや製品情報伝達メディアとしての機能はカタログでは薄れ、代わりに顧客の問題解決に対する明確な回答がその中に潜んでなければならない。こうして企画されたカタログは、展示会の説明員と同様にまたそれを駆使する優秀な営業担当によって、そのメディアとしての価値が増幅され、マーケティングコミュニケーションを完遂することができるのである。

2005年、ARF(米国広告調査財団)他はメディア評価に際し、従来の露出や到達率に替わって「エンゲージメント」を指標とする旨の提言を行った。このエンゲージメントは我が国では約束とか絆と解釈されているが、私は「共鳴」と理解している。つまり露出に意味があるのでなく、いかに社会やエンドユーザーの共鳴を得られるか、が今後の広告に課せられた命題なのである。さらにARFはエンゲージメントを得るためにコンテキスト(文脈)が重要であるとしている。

クロスメディアによってあらゆるステークホルダーへメッセージする場合、それぞれのメディアで展開されるコンテンツの意味的な関係性が大変重要であると言うことだろう。その意味でも前述のブランド、プロダクト、マーケティング(人)の織りなすコミュニケーションが、一貫した文脈をもってなされて初めて社会の共鳴を得ることが可能となり、共鳴によってそのメッセージの持つ力はますます強化され、成長していく。今、まさにコミュニケーションパラダイムの変革が始まったのである。

変革期におけるBtoB企業のコミュニケーション戦略と課題(3/4)プロダクトコミュニケーション

3.プロダクトコミュニケーション

BtoB企業にとって商品やサービスが最大の露出機会であることは意外と見過ごされている。BとC企業には遠く及ばない広告宣伝予算で、そのほとんどがカタログや展示会などのプロモーションツールで消化され、必然的にマスメディアを利用したブランド露出は制限されてしまう。

そんな中で、実はもっともエンドユーザーとの接触を保っているのがこの商品やサービスなのである。これはブランドコミュニケーションにも大いに関係するのだが、たとえば、「あなたは昨日見たテレビや新聞で、○○会社はどんな広告をしていましたか?」と問われた場合、ほとんどの人は明確に答えられないであろう。ここで言う○○会社がたとえBtoC分野の誰もが知っている企業であったとしてもだ。

言うまでもなくブランド形成における広告の役割は、その累積記憶度が大きく影響する。ブランド認知から記憶にまで昇華させるには、気が遠くなるほどの広告露出機会があって初めて可能になる。

一方上記の質問に代えて「あなたは○○会社にどんなイメージを持っていますか?」との質問では、接触機会のある企業に対してはほとんどの人が答えることができる。しかしここで想起されるブランドイメージはどのようにして形成されているのだろう。

おそらく過去に購入経験があった商品やサービスに対する何らかのイメージが、潜在的に影響しているものと思われる。あるサービスマンの理不尽な対応や想定外の商品の不具合がその企業のイメージを著しく損なってしまうのは誰もが経験することである。

このように商品やサービスが我々に与えるブランドイメージは、広告のそれとは比較にならないくらい重要な役割を演じている。その意味でも、商品やサービスに対する質の向上はブランド形成の最重要課題と言える。

またたとえBtoB商品であっても、心地よい作業空間の提供という観点から製品デザインにも一通りの質を与えるべきだろう。潤沢な広告宣伝予算を持たないBtoB企業にとっては、製品やサービスそのものがマスメディアであると捉えることができるし、それと接触したエンドユーザーそのものがまたメディアとなってブランド形成に一役買ってくれるかも知れない。

変革期におけるBtoB企業のコミュニケーション戦略と課題(2/4)ブランドコミュニケーション(2)

2.CSRの一環としてのブランドコミュニケーション

最近CSRや企業の説明責任ということが注目されているが、実はこの「企業の説明責任」が従来はほとんど行われていなかった。説明責任というと、事故や事件などネガティブな事柄に対しての説明責任と捉えられがちであるが、企業活動そのものに対して、また商品や技術そのものについて消費者に限らず社会全般にわたってきちっと説明する責任が、企業にはある。

そんな企業PRをしてもものは売れないよ、というのが企業経営者の常であろうが、口喧しくCSRなどというのならまず社会に対して自社の技術や優位性を分かり易く伝えるのが先決だろう。20世紀はとにかくマスメディアによる露出で商品の販売優先だったが、21世紀は各企業の持つ独自の技術や開発姿勢を、せめて高校生でも分かるような平易なメッセージで企業を売る時代だと言える。

いわゆるエクセレントカンパニーとか多額の資本を担保としたマスメディアでの露出によって注目される企業が多い一方、我が国にはほとんどブランド露出が行われていないにもかかわらず、世界でもまれに見る高度な技術を持った中小の企業が多く存在する。これらの企業がもっと自社の説明責任を果たしてもらいたいし、そうすることによってとかく物づくりの疲弊が云々されている中で、国民の企業を見る目や我が国の技術力への自信も深まってくると思われる。

WEBサイトを利用したこれらの情報開示は、極めて低コストで可能であり、しかもサイトへのアクセスが今ではURLの打ち込みよりもグーグルなどの検索サイトからの訪問の方がはるかに多いことを考えると、知名度のほとんどない企業でも十分な効果をもたらすだろう。

「いやあ、うちはネジしか作っていませんから、そんな情報誰も見ませんよ。」といわれるかも知れないが、BtoCの分野で我々が日常目にする商品には必ずこのネジなどの部品を含む。部品の優秀さが最終商品の品質を決定づけることは言うまでもなく、似たり寄ったりの過剰な商品に囲まれた現代は、むしろ部品の優位性がその商品の価値を差別化する時代とも言える。

事実最近は最終商品のメーカでさえ、商品の差別化のために使用部品の特異性を売りにしているケースを見受ける。こんな中で部品メーカがその技術を分かり易く社会にアピールすることは、ブランドコミュニケーションの第一歩だろう。

ではブランドコミュニケーションにおける演出はどうすればいいのか。マスメディアでのそれは、情報発信者である企業側がある意味では情報操作することができたし、実態にそぐわない華美なブランド演出が横行していた。しかしネット時代ではむしろ情報の受け手側、つまり社会や消費者の側にその判断が委ねられることになる。

ここではまず正確な情報を分かり易く伝える、というコミュニケーションの基本が最も重要になってくる。そのバックボーンには、企業自らの技術や商品に対する思い入れと自信があってこそ、初めて可能になる。

最近はブランディングコンサルタントなどにブランド演出を丸投げするケースが見受けられるが、まずは自社で今一度独自の技術とそれが社会に与える影響や効果を見つめ直すことが必要であろう。

ネジ1本でも技術の進歩や社会の発展に欠かせない力を持っているのであるから。自社の思い入れそのものがブランドであり、ブランドコミュニケーションとは、その思いを企業の説明責任と言う側面から社会にメッセージすることだと思う。

変革期におけるBtoB企業のコミュニケーション戦略と課題(1/4)ブランドコミュニケーション(1)

1995年頃から普及しだしたインターネットによって、コミュニケーションメディアのあり方が大きく変わった。とりわけ、BtoB企業にとって、今までは先端の営業担当でしか接触し得なかったエンドユーザーから、直接コンタクトを得ることができるこの仕組みの誕生は、企業活動にも少なからず影響を与えつつある。

しかし一方で、今までいわば密かに顧客と接触して与え与えられた情報を、誰が見るかもわからないネットで公開することに大きな抵抗感を持つ企業も見受けられる。BtoB企業は言うなれば今まで極めて閉鎖された社会の中で、その存在価値を維持していたとも言えるだろう。確かにセキュリティをはじめとしたネット社会特有の問題を抱え、いまだに社内LANから動画などの閲覧は禁止という企業も少なくない。

重要なのは、ネット社会の弊害というネガティブな側面を眺めつつ、50年に一度あるかないかのこのコミュニケーション変革を自社の企業システムにどのように植え付けていくか、が課題となる。

今後インターネットはまた新たな進化を遂げ、いわゆるWEB2.0に代表されるような社会や顧客を巻き込んだコミュニケーションダイナミズムが展開されようとしている。ここでも企業がもっとも嫌う情報のリークや個人認証の問題を抱えているが、時代は急速に移り変わろうとしているのも事実である。

いずれにしても、従来のいわばリアルな営業(コミュニケーション)活動と、ネットでの先端的な営業活動とのけじめを明確につけ、それぞれを共存させる仕組みづくりが必要となる。ここでは、このような社会的な背景を睨みながら、BtoB企業がなし得る4つのコミュニケーション(ブランドコミュニケーション・プロダクトコミュニケーション・マーケティングコミュニケーション・ヒューマンコミュニケーション)の形態とその課題について述べてみたい。

1.ブランドコミュニケーション

BtoB企業の多くは売上高広告宣伝費率が低く、マスメディアを駆使したブランド戦略はどうも敷居が高い。ブランディングに成功しているBtoB企業もあることはあるが、そのほとんどは企業規模も大きく多額の広告宣伝予算に裏付けられたマスメディアでの露出の効果と言える。もちろんその背後には綿密なブランド戦略が存在するのだろうが、要は予算の問題が欠かせない。ほとんどのBtoB企業はとてもマスメディアを利用したブランド戦略など考えられないと言うのが正直なところだろう。

しかしインターネットはこの難問を見事に打開する。WEBサイトの構築はそのデザインや仕組みによってコストにも大きな幅があるが決して多額の費用を必要とするものではない。このWEBサイトを利用したブランドコミュニケーションは、コストパフォーマンスから見ても妥当性が極めて高い。しかしここで壁になるのが前述した情報公開での及び腰の姿勢である。情報公開に対してこのアレルギーがある以上、これからますます進化するネットコミュニケーションから置き去りにされるのは目に見えている。今の時代はいくら隠そうとしても自然と漏れるものであり、むしろ漏れる以上に新しい情報をどんどん公開していく企業姿勢そのものが、ブランド形成の大きな要因となるのである。

一方、新聞広告やテレビCMなどでも最近BtoB企業が活発にメッセージしているのを見かける。これはBtoBよりむしろBtoS(Society)と言った方が適切と思うが、特定の人(C--Consumer)や企業(B--Business)にではなく、社会全般に対して企業の存在意義を訴えていこうとするものだ。

実は私自身は今後マスメディアではこのBtoSコミュニケーションが主流になってくるものと考えている。その背景にはやはりインターネットの存在がある。ネットによってあらゆる情報を入手することが可能となった。そこには正確な情報もあり当然間違った情報もあるが、受け手はそれぞれの情報を自在に組み合わせてひとつのイメージを自らの中に構築する。

BtoC分野ではたとえば価格comなどによって使用者からの新鮮な情報を得ることもできる。これは企業が発信する情報よりもむしろ信頼度が高く見なされる傾向があり、こと商品情報に関していえば、最近問題視されている広告の売る機能が低下しつつあることにも関連していると考えられる。もはや広告によっていくら商品の優位性を伝えようとも、使用者の正直な評価には太刀打ちできない構図がここにある。

それに替わってBtoSでは、社会に対して企業の存在意義や社会が抱えている様々な課題に対しての企業としての考え方などを独自のメッセージとして提示し、オーディエンスとともに考えると言う姿勢がこれからは重要になってくる。

つまり、企業側から一方通行的にブランド認知を強制するのではなく、オーディエンスとの共通課題に対する理解のプロセスで、ブランド認知という付加価値を得る手法である。

知能と知識、そして情報。

地球環境と対話する動物のセンサーについて考えれば考えるほど、ま、だいたい人間のセンサーは動物たちとくらべると、恥ずかしいくらいいい加減であることが分かってきた。そういえば、去年の冬は、いつになく寒かった。デパートなんかでも、冬物の洋服がどんどん売れて、日本のGDPに貢献したらしい。でも、こんなことやってるのは人間だけで、動物たちは寒かろうが暑かろうが自前の洋服をきちんと取り替えて、一年をうまく過ごしている。
洋服という人工物を作る知識と技術を身につけたから、自然との対話を忘れたとも言えるし、自然との対話と引き替えに、この技術を身につけたとも言える。どっちにしても、人間は自然とともに生きる動物に、なくてはならない自然の微妙な変化を感じとるセンサーを捨てて、合理的な代替物と共に生きる道を、選んだわけだ。
日常生活に一番身近な天気にしても、むかしなら、長老のおじいさんが、空を見上げて、ン?、明日は雨だ・・・といったら、たいがい雨だった。最近は人工衛星やコンピュータを駆使して、天気予報してるけど、残念ながらカエルの予報の方が当たってるような気がする。
おじいさんの天気予報とコンピュータの天気予報では、そのもとになる情報の量は格段に違う。というより質が違うのかな。おじいさんのは空を見て、雲を見て、風の流れを見て、ま、ほかに鳥やカエルやそこらにいる動物の動きを察知して、ン?明日は雨だ、となるんだけど、その頭の中は、おじいさんが生きてきた毎日の出来事がぎっしり詰まっていて、その情報と照らし合わせて天気予報しているのだろう。勘、といってしまえばそれまでだけど、じつはその勘こそがセンサーと同義語なのであります。そしてこの勘というものは、白か黒か、プラスかマイナスか、1+1=2といった、理屈にかなった見方とはまったく無縁の代物で、白みがかった黒であるとか、1+1=2.5かもしれないというような、ま、いい加減といえばいい加減な世界なのですね。
いいかえれば、コンピュータに何もかもお任せの今の時代に生きている人たちは、勘がにぶいともいえるわけですが、ほとんどの現代人からは、それがどうした、と開き直りのお言葉を頂戴するでしょう。
コンピュータが私たちの暮らしにあふれて、たしかに便利になった。とりわけ1995年頃から普及しだしたインターネットで、どんな情報でも自宅でせんべいかじりながら手に取ることができる。でもその一方で、どうも情報を処理する私たち人間の能力に、かげりが見え始めているらしい。
ここに面白いデータがある。総務省からだされた、「情報流通センサス」報告書を見てみると、インターネットが普及する前の1980年頃は、電話やテレビや新聞や、ま、ありとあらゆる情報の、一年間に発信された量が13.4京ワードだという。京というのは何も京都の略称ではなくて、いち、じゅう、ひゃく、せん・・・と進んでいって、兆の次の位のことで、ケイとよばれて10の16乗という膨大な数字になる。一方で、そのときに私たち人間が消費した情報量は、1.21京ワードだったので、10個にひとつくらいは選ばれて、自分の役に立つように使っていたといえる。このときはまだまだ人間の情報処理能力には余裕があった。でも、インターネットが普及しはじめた1996年頃では、情報量は43.5京ワードで、消費情報量は2.83京ワード。ま、20個にひとつとなりました。そして2003年にはなんと4,710京ワードの情報のうち、消費できたのは20.3京ワードということで、230個にひとつとなってしまった。人間の能力もたいしたもので、この間の情報処理能力は20倍に増えているけど、もうそろそろ限界に近いのだとか。
いいかえれば、1980年頃は、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、と10個いわれて、はいはいわかりました、それではご飯を、となって、ま、何とか余裕が持てた。それが今では、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、学校行きなさい、本を読みなさい、テレビを見るな、遊ぶな、こっちへ来い、と230個もいろんなこと言われて、もうシッチャカメッチャカのなかでなんとかひとつ選んでいる状態なんだ。
こんなに情報があふれた暮らしの中で、それこそ自然との対話なんぞ、しているヒマもないし、その間に私たちの勘はにぶり、センサーが衰退していくのであります。
実際、まわりを見渡してみれば、ここ十数年の間に私たちは、これでもか、といわんばかりの情報に囲まれ、知識も昔とは比べものにならないくらいに増えた。でも、たとえば、地下鉄の座席で周りの目もはばからず、ワシの足はこんなに長いんだ、といわんばかりに大きくふんぞり返っているオジサンや、世界は家庭の延長という感じで、わがもの顔で携帯電話に熱中する人など、けっしてモラルというか、人間の質みたいなものが良くなったとは思えない。
他人の微妙な心を感知できるセンサー、人を気遣うセンサー、こういったコミュニティーで生きていくのにだいじなセンサーの機能が、最近故障だらけというのも、地球環境の破壊と無縁であるとは思えないのであります。
以前、このコーナーで、一ヶ月くらい何も話さない、言葉を使わない状態を試してみたら、きっと私たちのセンサー能力がよみがえる、といったけど、同じように、一ヶ月くらい、ちまたの情報を遮断して、仙人気取りになってみるのも、いいのかもしれない、と思う。

ちょっと植物について。

前回の猫の集会で、ふと、気になったことがある。集会が終わると、それぞれ思い思いにどこかへ去っていくのやら、適当な場所でくつろぎはじめるのだが、数頭の猫はお寺の大きな樹の下で、いっぷくしはじめる。丸くなって、ちょうど樹の根のへこみに、ちょこんと納まるぐあいに心地よさそうに。でも中には、じっと樹の幹の一点を見つめ続け、なにやら樹と会話でもしているかのような猫もいる。ま、たぶん、樹の幹に小さな虫なんかが動いているのでしょうけれど、もしかして、例のテレパシーで樹とお話ししているのかも知れない。
そういえば、親しくしているある大学の先生によると、植物はコミュニケーションをするらしい。人間社会でいう声に出して喋るのではないが、たしかに、会話するのだそうだ。今でもよく言われることだが、リビングで栽培している観葉植物に、今日は寒いけどがんばってね、と優しい言葉をかけると、生き生き育つといわれている。ま、真偽のほどはともかく、植物が人間の言葉を理解するというより、心を読み取る能力があることは否定できませんね。いやいやそんなバカな話はありませんよ、と科学者の皆さんはおっしゃるかも知れませんが、植物に読心能力がないことを、科学的に証明できないこともたしかなのであります。
猫が言葉を使わずに、お互いにコミュニケーションできるとすれば、猫は樹と会話していても、何の不思議もありません。
植物がほんとに声を出すのかどうか、よく分からないけれど、その先生によると、植物の体内電流だか生体電位だかをはかれば、確かに周りの仲間と会話しているような変化があるのだそうです。昔、小学生の頃、京都の糺の森(ただすのもり)の近くに住んでいた。この森は平安時代以前からあった古い森だが、夜になると、うっそうと茂った森の中へ、肝試しよろしくよく出かけたことがある。怖さ半分、好奇心半分の中に、ほんの少し、こんな真っ暗闇でもボクは怖くないんだぞ、とかすかなプライドを抱えて、外灯も何もない暗黒の別世界へ進むのであります。で、このとき、昼間ではほとんど耳にしない不思議な音が、しんと静まりかえった森の中で聞こえてきたのを今でも覚えている。虫の鳴き声や木の葉のこすれる音とはまったく別の、全宇宙的と言えるような不思議な音。もしかして、その音が、樹と樹の会話だったのかもしれない。
植物は、光合成といって、炭酸ガスと水から、酸素と栄養分を作りだす、素晴らしい能力を持っています。ま、要するに、自然の状態では空気中の炭酸ガスを吸い込んで、酸素をはき出す、という、動物にとってはまことにありがたい存在なのであります。が、人類の進歩と産業の発展によって、この植物の吸収量をはるかに超えた炭酸ガスが放出され、植物の宝庫でもある熱帯地方の森や林が伐採されて、炭酸ガスの吸収量が少なくなった。これが地球温暖化という、やっかいな環境問題ですね。つい先日もアメリカで、超大型のハリケーンが大きな災害を与えたけれど、地球温暖化がもっと激しくなると、台風やハリケーンの規模も、今では想像できないくらい巨大になるらしい。植物と台風、こんなところでも関係があるのですね。日本には、昔から全国いたる所に「鎮守の森」というのがあった。鎮守の森は神様がおられる森だそうで、みな大切に崇めてきた。地方に行けば今でも目にすることはあるけれど、都会では、もうほとんど天然記念物状態の稀少価値ゾーンといえます。この鎮守の森、そこに生えている植物はほとんどが「広葉樹」なんだそうです。広葉樹というのは、ドングリやブナのように、文字どおり、葉っぱの広い樹のことで、松や杉などは葉っぱが針のようにとがっているから針葉樹。じつは、光合成を一番効率的にするのは、この広葉樹なんです。葉っぱの面積が広いから、光合成作業も効率的にできるのはあたりまえといえばあたりまえですが、都市化によって、広葉樹をたくさん蓄えた鎮守の森が年々少なくなっていくのが、温暖化にも大きな影響を与えているのですね。最近は、鎮守の森の効果が見直されて、その再生活動が盛んになっていますが、いっぽうで熱帯雨林を守ろうとか、寄付金で熱帯に植林しましょうなどといったイベントをよく目にします。ほんとはもっと身近なこの鎮守の森や近所の森を守っていくことが、大切なのでは、と思うのであります。そうそう、植林といえば、あまり気づかない大切なことが、最近分かってきたみたいです。自然に生育している樹と、人工的に植林した樹とくらべてみると、光合成の能力に大きな差があるらしい。つまり、人工林の樹は光合成をすることはするが、バリバリの野性味豊かな自然林の樹の方がはるかに力強く光合成するんだそうです。やはり、過保護というか人工的に自然を作ろうとしても、自然は自然にしかできないのであります。先の大学の先生もおっしゃってましたが、自然林と人工林をくらべてみると、自然林の樹々は、あちこちの樹とダイナミックにコミュニケーションするけれど、人工林の樹は、ほんのお隣さんとだけしかコミュニケーションしないって。なんだか、最近の教育問題を象徴するようでもあります。
と、ここまで書いて、「動物センサー」のテーマから、かなり脱線していることに気がついた。調子に乗りすぎて「植物コミュニケーション」になってしまった。しかし、ですね、動物どうし、植物どうし、そして植物と動物のコミュニケーションも、それぞれがもっているセンサー能力が大きくものをいうのです。相手やまわりの状況を感知して、適切な行動をとるためのセンサーです。
たとえば、人間の目の感度は555ナノメートルの波長あたりが一番高いとされています。これはちょうど黄緑付近の色になります。逆に赤やオレンジなどでは、極端に感度が悪くなります。感度が高いということは、細かな色の変化を見分けることができる、ということですね。たぶん人類は、大昔、樹々の微妙な色の変化を見て生活に役立てていたのではないでしょうか。今でも長野県の山奥や、草原に行ってみると、まわりはほとんど緑で、5月頃には新芽が出てきて、緑の固まりの中にぽつぽつと黄緑色の集団が見える。赤やオレンジはまずお目にかかれない。古代の人類にとって、食物になる新芽を探すには、この黄緑付近の感度を強くしておく必要があったのだ、と思うのであります。
このように、動物はそれぞれに自然と共生するためのセンサー機能を持っていたはずですが、文明の進歩とともに、そしてセンサーに代わる道具の発明によって、とくに人類は、まったくおそまつなセンサー機能しか持たなくなった、と考えています。

猫の集会に参加した。

1ヶ月ほど前の土曜日、猫の集会に参加した。夜12時を少しまわった近所のお寺。人影もまばらで、あ、こんな風景もあったんだと、いつもと違う週末を楽しんだ。
じつは1年くらい前から、このお寺の猫たちに、毎夜お食事を届けている。ま、猫ちゃん相手のデリバリーサービスといったところかな。そんなことで、こちらの猫たちとは、ある程度顔なじみだけど、集会とやらには初めて参加させていただいた。
お寺に到着すると、もうすでに6頭のメンバーがそろっていた。お、もう会議はじまってるの、と思いながらも適当に空いた場所にしゃがみ込む。で、ここで肝心なのは、けっして猫の近くに寄りすぎないこと。2メートルくらいの距離を保ちながら、静かにしゃがみ込む。昔何かの本で読んだけど、動物には心地よい距離というのがあるらしい。体感距離とかパーソナルエリアと言われているもので、心理的に認められた概念上の空間なのです。これは当然人間にも当てはまって、見知らぬ人があまり近くにいると、なんだか気味悪くて落ち着かない感触。あれが体感距離を侵略されている現象なんですね。子供の頃、まだ舗装されていない地面に木の枝で丸く円を描いて、ここはボクの陣地だから入らないでね、と言って遊んだあれに近いものがある。この体感距離は親しい人ほど短くなるらしく、恋人同士だと、もうほぼその距離は限りなくゼロに等しくなるのであります。
ま、それはともかく、体感距離を守って猫たちの間に均等配置につきましょう。そう言えば6頭の猫もそれぞれ、1メートルから2メートルの距離を置いて均等に座っている。しかも、面と向かっては座らないんだね。お互いにあっち向いたりこっち向いたり、実にうまく乱数表のごとく着座している。人間社会では、会議はおろか人とお話しするときは、フェイス ツー フェイスで相手の目を見て喋りなさい、と教育されてきた。先生に質問されて、えーと、それはねえ、と余所見しながら答えたら、ちゃんとこっちを向いて喋りなさい、って叱られたことがあったな。でも、猫の集会ではけっしてフェイス ツー フェイスの光景は見られないし、議長も誰かわからない。いったい誰が司会してどんなお話しをしてるんだろう、と探ってみても全く不明。皆ずっと黙ったまま、箱座りしているものやら退屈そうに毛繕いしているもの、もうこんな会議はつまらん、と言った風に居眠りをはじめる輩もいる。30分ほどしたら別の2頭が遅れて参加してきた。いやあ、野暮用で遅くなって申し訳ない、と言ったそぶりもなく、やはり体感距離をきちんと守って着座。これでいつものフルメンバー勢揃いなんだが、会議が進行しているのかどうかもよくわからん。2時間くらいすぎた頃、1頭また1頭、と近くの木下や灯籠の下など、好みの場所に移動しはじめた。それじゃ、また、と言わんばかりに、そそくさとどこかへ行ってしまうものもいる。どうも会議は滞りなく終了した模様です。
こちらは2時間のあいだ、無言でずっとしゃがみっぱなしだったが、何か心地よい。無言の会議。果たして、この集会で皆何を話していたんだろう。テリトリー問題の調停なのか、食事の順番の決めごとか、たわいもない世間話なのか。人間社会では、おい、誰か喋らんと会議にならんぞ、と議長からお叱りを頂戴するところだが、猫の集会では、えー私の見解は、まあ、こういったことでありまして、いやいや仰るとおりでごもっともなご意見で、と言った社交辞令が飛び交うこともなく、極めて効率的に進行されているのであります。
人間は、言葉によってすべてのコミュニケーションを行っている。言い替えれば言葉なしでは、もう、コミュニケーションはとれない動物だとも言える。でも、この猫たちは、おそらくは無言で話し合ったに違いない。私も集会のあいだ、一所懸命、「この猫たちは何を思っているのだろう」とか「あんたはどこから来たの」と無言で語りかけていることに気がついた。猫の心の奥底を、必死になって読み取ろうとしている。もしかして、この行為だけでもコミュニケーションが成り立つのでは、と思ってしまう。
確かに猫や犬など、動物にはある種のテレパシー能力が備わっている、と言われている。飼い主の心や気持ちが理解できる、と言う話は何回となく耳にしたことがある。飼い主が猫を動物病院に連れて行こうと思っただけで、雲隠れしてしまう猫がいたり、外出中の飼い主の事故や病気を予知する猫がいることも、海外事例で紹介されている。その原因はまだわからないにしても、どうも人の心を読む能力は、確かにあるらしい。たぶん、猫の集会でも、言葉を使わずに心と心で十分なコミュニケーションをしているのでしょう。
人間が行う言葉を用いたコミュニケーションが、絶対正確なものとは言えないことは、「まあ、それは可能といえないといえば嘘になりますが、可能性の中にも不可能な要因が潜んでいると言うことでして・・」と言ったザ・政治家らしいお言葉や、会社と赤チョウチンでの会話のギャップをみれば、至極当然のことであります。また、真意とは裏腹に、相手の心を傷つけたり、誤解されたりするのも、言葉という道具の仕業なのです。
企業でも最近は、コミュニケーションの活性化とか、情報の共有化などといった大スローガンが溢れまくっているが、どうも人間社会では、このコミュニケーションというものを勘違いしているのでは、と猫の集会は教えてくれるのです。まず、「あいつはコミュニケーションが優れている」と言われる人物は、話し上手でいろんな情報をあちこちに発信するタイプを指すでしょ。でもね、これが違うんですよ。ほんとうにコミュニケーションで大切なのは、情報を発信することよりも、読み取る能力なんです。誰がどんな情報をほしがっているのか、を見分ける力。相手の心を読む力が大切だと思っています。とくに、現代のようにネットワーク社会になって、ケイタイやらメールやらで自由に会話できる便利な装置が氾濫しているときこそ、これが大事。
どうも私たち人類は、大昔、言葉を発明したときから、心を読み取るという、超のつく貴重な宝物を置き去りにしてきたようですね。今、テレパシーがどうのこうの真顔で論じると、ちょっと違った世界の人のように思われてしまう。山のてっぺんで深夜、輪になって手をつないで、さあ、宇宙人さんいらっしゃい、と言った類のそれみたいに。でも、先に書いた猫や犬の予知能力を見ると、確かに人間にもその能力は備わっていたはずだと思う。事実、虫の知らせや、第六感などがそれに近いものかも知れないけど、人間の場合は、赤ん坊にその痕跡が見られると言われている。言葉をはじめ、いろんな知識を身につけるのと引き替えに、こう言った大切な能力がだんだん退化してくるのだろう。
で、現実には不可能かも知れないが、例えば、1ヶ月間はいっさい喋らない、と言った体験をしてみるのも面白いかも知れない。言葉を使わないから、こちらから話しかけることはできない。相手の言葉をきくこともできない。ただひたすら相手の気持ちを探ろうとする。たぶん、1ヶ月後には人や自然の心を読み取ると言った力が、少しは頭をもたげてくるようにも思える。
環境問題に対しても、今、言葉が先行して、地球温暖化や自然との共生など難しい話をしないと、偉そうに思われないのだが、もっと大切なのは、一度言葉をやめて、どこまで自然と会話できるか自分自身で体験することだと思うのであります。
人間も自然の一部だとしたら、人間社会だけで通用する言語ではなくて、動物や植物が当たり前のように行っているコミュニケーションのカタチを研究することも、大きな課題なのです。と、猫の集会は教えてくれたのでありました。
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河内英司(かわちえいじ)
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京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
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