河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

グローバル・コンパクト

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(7/7)

9.CSRの前にGSRを!

 

CSR広告で社会に課題を提示し、自社の技術でソリューションをメッセージする。それこそ持続可能な社会の形成のために、将来広告の役割は予想以上に大きくなると思い描きながらも、何かしら喉の奥に小骨が刺さったような屈託を拭いきれない。

企業が社会的責任を果たすためにCSR活動に邁進するのは、前述の違和感がありながらもある程度理解できる。しかし最も大きな組織である国家の社会的責任に目を向ければ、首を傾げざるを得ない。国民への明確な説明責任が未だに果たされていない消費増税や原発問題を持ち出すまでもなく、前政権に見られた当初のマニフェストをことごとく反故にする国家。さらには緊縮財政や社会保障の大きな課題を生じさせる要因となった年金運用の失敗。国民が納めた粒粒辛苦の気が遠くなるほど膨大な額の年金を溶かしてしまった責任は、いったいどうなったというのだ。昨今のCSRブームの裏側に、国に社会的責任を果たす能力がないから企業が肩代わりせよ、とでもいうわけでもあるまい。

国は政府の社会的責任(GSR—-Government Social Responsibility)や政党の社会的責任(PSR—-Party Social Responsibility)こそが今全社会から求められていることに早く気づくべきだろう。

大きな組織に属する小さな組織や個は、大きな組織の価値観や風土に無意識的に支配されてしまうことは拙著「ASICAれ!」で記した。CSRをもっともらしく唱えながら、一方で国民の大多数が認めない政策を此れ見よがしに支持する財界を見れば、何か隠されたうまみでもあるのか、と勘ぐってしまうと同時にやはり冒頭に述べた胡散臭さが蘇ってくる。

またISO26000ガイダンスも、各国の主体性を失った統一によって当然のようにさまざまな問題を露呈し、今や全世界に厄介事を投げつけているEUが主導して策定したとなれば、その取り組みに少々二の足を踏んでしまうのも正直なところだ。あんただけには言われたくない、と。

GSRの果たされていない国家や世界にCSRが根付くはずはない。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(6/7)

8.クリエイティブにおける社会的責任

8-1.わかりやすい広告の落とし穴

CSR広告といいながらどうしても顧客誘引を目的としたくなるのが企業の性ではあるが、美辞麗句で飾り立てた広告にほとんど効果がないことは既に本書でも拙著「ASICAれ!」でも述べた。企業の説明責任のための広告なのだから、なぜその企業が社会に存在しているのか、社会に対してどんな役割を演ずることができるのか、をメッセージしなければならない。

さらにはASICAモデルで何度も紹介したように、最高のメッセージ広告は、今社会に存在する見えない課題を炙りだすことだ。そして自社独自の技術によるソリューションを提示する。この様式がこれからの広告の基本的なスタイルになると確信しているし、これこそがCSR広告ともいえる。

ところで広告のクリエイティブについてであるが、ここ数年徐々に質が低下してきているように感じて仕方がない。何がどうというのではなく、要するに感動しないのだ。メッセージ性が少なく変哲もないアピールだけが目につく。言い換えれば大変わかりやすい広告が増えてきている。だから感動しない。

最近よく耳にすることだが、広告はわかりやすくなければならないという風潮が大勢を占めている。企業の広告担当者が頭を悩まし練りに練った広告を役員会に上程した際、こんな表現ではわかりにくい、もっと平易な表現にしろ、と一喝されたことが一度ならずあるだろう。

今、学生の読解力が一昔前に比べてワンランク低下しているという。つまり現在の大学生は高校3年生並の読解力しかないということか。全てがそうとも思えないが、学生に限らず一般人も社会人もなんとなく心当たりはある。だから広告は誰にでも理解できるように平易な表現が望まれるのだろうが、ちょっと待って欲しい。

先に広告はその時代の文化を表す、といった。もとより文化には優劣はないが、できれば高品質な民度を維持したい、と思うのは広告人の端くれとして当然だろう。低レベルの層を基準に考えるのではなく、ある程度の知識と読解力を持つ層にふさわしい広告表現が文化形成にも国民の意識向上にも不可欠だと思う。

筆者の記憶に残っているテレビCMに富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」がある。さらに「ROPE & JUN」のCMにも感動した。確かその頃筆者は大学生であったと思うが、いずれもCMの意図はさっぱり理解できないながらも、なんとなく世の中が大きく変化しつつあることを感じ取ることができた。もっと遡れば小学生の頃なのか中学生の頃なのか定かでないが、旭化成の「ベンベルグ」の広告が妙に今でも心に焼きついている。当然広告の意味も商品も全く理解できない。しかしベンベルグ、ベンベルグという呪文めいたものが頭を駆け巡り、時代が大きく変わる予感を子供ながらに楽しんだ。

わかりやすい広告は確かにその場で理解されやすい。しかし一方で忘れやすいのも事実だ。

広告の意味をわずかな時間でも自ら探ろうと努力したものは、いつまでたっても記憶に残るものである。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(5/7)

7.最高のCSRメディアは広告。そして身近なCSR活動は広告

 

さてそこで企業の社会的責任についてもう少し慎重に見てみたい。

国連グローバル・コンパクト以前の問題として、企業には説明責任が存在する。すべてのCSRはこの説明責任が根幹となって展開されるべきだといわれている。企業が行う様々な経済活動は利害関係者に対する説明責任を果たしてはじめて社会から認められる。さらにいえば企業の存在そのものについて、その理由と社会に与える影響、つまり企業の存在意義を説明しなければならない。企業の説明責任というと、とかく不祥事を起こした際の謝罪も含めた経緯の説明と受け取られがちであるが、それはエンロン、ワールドコムなど企業の不祥事がCSR確立のきっかけになったことに起因している。

不祥事とは関係なく、企業が存在する以上、社会に対して自らの存在理由を説明し社会から同意を得ることが企業の永続的な発展につながってくるのである。

CSR報告書で説明責任を果たすことは十分可能だ。しかし常々感じていることなんだが、いったいCSR報告書は誰が読むのだろう?という疑問が頭から離れない。企業に対してCSR報告書を要求する人たちやWEBサイトのCSRページを閲覧する人たちがそのターゲットとなるのだが、あまりにも限定されてはいまいか。

同じ年次報告書でも、極端に限定された投資家をターゲットとするアニュアルレポートとは、本質的に異なる特性を持つと捉えるべきだろう。

社会に対する説明責任といいながら、限定された人々だけを対象にしていたのでは辻褄が合わない。社会全体をターゲットにするならCSR報告書のようなプルメディアではなくマスメディアを軸としたプッシュメディアが最適だと思う。ここでひとつ断っておきたいが、インターネット広告は一件プッシュメディアのように思われるが、パソコンという装置を介して訪問者の能動的な行為によって情報を得ることから、これはプルメディアと理解できる。

すなわち、企業の社会的責任の骨格をなす説明責任に最も適したメディアは、昨今のデジタル化の波で肩身の狭い立場にある「広告(新聞・雑誌・テレビ)」なのだ。今更広告の重要性を説いたところで時代遅れの感が否めないかもしれないが、じつは広告の機能にはCSRの要素が多く含まれていることにあまり気づかれていない。

これは広告そのものが、永らく商品宣伝やブランディングなど顧客吸引力を求めるために利用されてきたため、あまりにも商業主義的な匂いがするからだろう。

しかし一方で広告はその時代の文化を形成するとまでいわれている。広告を見ればその時々の文化がわかる、というのである。つまり広告には極端ないい方をすれば健全な社会と良好な文化を育成する機能があるともいえる。あまりにも行き過ぎた喧伝はプロパガンダとして危険な要素があるかもしれないが、独裁国家ならともかく、現在のわが国ではあくまでも広告主は企業であり、企業自らが社会を良くする手立てができるのだ。これこそが本当の、そして身近なCSRではないだろうか。

しかしながら昨今の不況で各社とも広告宣伝費は削減され、とてもとても営業に直結しない広告なんぞ手が出ないといった意見が予測できる。しかしよく考えてみれば、前述した雇用確保の放棄というCSRに反した行為が広告の世界でも起こっているとはいえないだろうか。

社会に対する説明責任のためのコストを削減する一方で、CSRを声高に叫ぶ矛盾。

それはともかく、不況は永遠に続くものではなくいずれ景気回復期がやってくる。広告は経費ではなく投資である。なので即効性は期待できず、その効果が現れるのは2~3年後だろう。このことから景気回復し安定成長に移行した際に効果をもたらすのは、意外にも不況時の広告展開であることもまた確かである。無い袖は振れないといわれるかもしれないが、今企業には膨大な内部留保が蓄積されているという。不況であるがゆえに金の使い道がないのだ。いうまでもなく金が回らなければ経済は活性化しない。景気回復のためにも各社挙げてCSR広告に精を出すことが、じつはもっとも現実的なCSR活動ともいえる。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(4/7)

6.企業の社会的責任を果たすために上場廃止した企業がある

 

ここでCSRの担当者なら誰もが知る企業の社会的責任についての象徴的な話題を紹介したい。

米国にあるジーンズの老舗リーバイ・ストラウス社(通称リーバイス)は1971年に上場し、古くから企業の社会性について独自の理念を持っていた。

1982年からHIV/AIDSの啓発と予防に積極的に取り組み、1991年に策定した「グローバル・ソーシング&オペレイティング・ガイドライン」は世界各国の製造請負業者や原材料調達先に対して、賃金、労働時間、労働条件、倫理など各種の条件に合致しなければ取引しないといういわばサプライヤー向けの行動規範であり、これは現在でもハンドリングされている。いうなればCSRの元祖だ。

ところがこのリーバイ・ストラウス社。1992年に児童就労の実態が明らかになった。普通の企業ならここで社長か誰かが記者会見し、誠に申し訳ない、以後気をつけます、で済ませてしまうのだろうが、リーバイ・ストラウス社はそうではなかった。それならばとまず現地に学校を作り、児童をきちんと教育し、就労年齢に達した時点で雇用する策を提示した。雇用の創出という社会的責任と同時に貧困層への雇用機会の促進といった地域社会への責任を果たそうとしたこの策に対して、株主から猛烈な反対があった。

学校を作って教育するような金があるなら配当に回せ、というのである。今でもどこかで耳にするような言葉だが、ここで当社がとった行動はLBOを利用したMBO(マネジメント・バイアウト---経営者による買収)によって上場廃止し、私有企業となったのである。

株主の金よこせ運動よりも企業の社会的責任を優先した出来事だった。

資本主義がもはや金融資本主義と姿を変え、企業の株式ですらマネーゲームのカードとされるなか、決して少なくない上場維持コストを負担してまで上場を継続する必然性を疑わせるとともに、企業としての矜持が社会的責任を果たす上での骨格となることを見せ付けられた。

ちなみに日本法人であるリーバイ・ストラウスジャパンでは、WEBサイトにCSRページもなければCSR報告書も発行していない。不思議に思って当社の広報に尋ねてみたところ、「グローバル・ソーシング&オペレイティング・ガイドライン」で厳密にサプライチェーンも含めて管理し、古くから社会的に不公正な立場にある人々を支援するなど、もはや企業の社会的責任は当たり前であり、取り立ててCSR活動をアピールするつもりはないとのことだった。これこそが本来のCSRだろう。企業の存在そのものが社会的責任と同義なのだ。冒頭に述べたCSRを絶叫すればするほど胡散臭くなる、とはこういうことだ。

さらに最近SRI(社会的責任投資)が騒がれだしている。CSRに熱心な企業に積極的に投資しようという触れ込みであるが、多くの場合ファンドを組成して投資を行うことになる。もとより企業の社会的責任は、直接的な利益を得るための営業活動とは一線を画している。

SRIがリターンを求めない政策投資なら理解できるが、金儲けの権化のようなファンドが純投資としてこれに関わることへ強い違和感を持つのは筆者だけではあるまい。IR同様にCSRがマネーゲームの手段になり下がるのでは、という危惧さえある。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(3/7)

4.社会的責任と社会貢献を混同してはいないか

 

そこで各社が行っているCRS活動に目を向けると、当然のことながらコンプライアンスは重要テーマとなっているが、多くの活動内容は企業活動の延長線上、つまり広義でのマーケティング活動や生産活動に類するものが主であり、加えていわゆる「社会貢献」事業をCSRとみなしている企業の多いことが伺える。

ここで企業の社会的責任と社会貢献について考えてみたい。

責任と義務は明確な区別はないが、いわば義務を果たさなかった見返りに責任が発生するとも考えられる。したがって責任の前に義務が存在すると考えて差し支えない。

そして企業の社会的義務とは、と見てみると、まず納税義務。法人として社会に存在するからには一般人同様に納税義務は発生するし、言い換えれば納税責任があるということだ。

次に企業である以上そこから生み出される商品やサービスの品質が一定の基準を保っていること。企業として継続的な発展を目指すならば、まず商品やサービスの品質は最重要テーマだろう。さらに取引先との適切な関係。これも企業活動の継続性確保には不可欠な課題である。しかしここまでは通常の企業活動ではごく当たり前のことであり、ことさらに高品質な商品を提供しているとか、税金を払っていますなどをCSR活動として取り上げるものでもない。

これらの義務が果たせなかった場合、企業の存続そのものが危うくなるものであり、企業として避けて通れない義務であり責任なのだ。

一方社会貢献活動はどうだろう。どこそこへの寄付とか地域社会に貢献するとか教育機関に関与するとか木を植えるとか。これらは極論をいえば特別やらなければならないものでもない。

つまり、企業の社会的責任と社会貢献の区別をするには、企業の永続性のためにどうしてもやらなければならないものなのかどうか、を考えてみるとわかりやすい。とはいうものの社会貢献を一切行わないというのも企業として世間の目が有り、一応取り繕っておきたい気持ちはわかる。

 

5.CSR大合唱と現実との矛盾

 

しかしここで重大な社会的責任が果たせていない企業が少なくないことも事実だ。

国連グローバル・コンパクトにある、「労働基準」の拡張解釈と継続的な社会のために最も重要な課題は「雇用創出」である。つまり企業という公器である以上、雇用は地域社会にとっても国全体の経済にとっても最も重大な企業の社会的責任である。この責任を果たさずにやらなくてもよい社会貢献に精を出すことは、いわば自らの責任に頬被りし世間体を繕っているとしか思えない。

今、わが国ではこの雇用の問題が大きくのしかかっている。企業業績の問題があるにせよ、業績回復時の優先的復職の担保がないまま、いとも簡単に人員整理や給与カットを日常的に繰り返す企業に、声高にCSRを述べる資格があるのだろうか。

じつは冒頭にCSRとはほとんど関係のないIRを持ち出したのには意味がある。

IRがヒステリックに取り上げられた時期、各企業は大きな分水嶺に差し掛かっていた。それまでの企業は何よりも顧客や取引先を大切にし、従業員を人財として尊んだ。企業それぞれに見合った福利厚生体制を持ち、終身雇用や年功序列といった世界的にも優れた企業システムがあった。そこへ米国式の企業統治のあり方がIRと名を変えてやってきたのだ。会社は株主のものという会社法に則ったもっともらしい論議によって、株主への説明責任とあわせて高額な配当を要求されるようになった。投資家にしてみれば、高額な配当を行う企業ほど社会的責任を果たしているとみなすということだ。この結果企業は配当の原資を確保するために、徹底して余計なコストの削減を余儀なくされ、業績が芳しくなければ固定費である人のコストにまで手をかけるという従来では禁忌となっていた手法が、日常茶飯の光景となったのである。

企業の社会的責任である雇用創出のために余計なコストをかけると、株主からそれでは配当が少なくなるから社会的責任を果たしていないとバッシングを受ける。いかにも米国流の解釈の仕方だろうが、いい方によれば米国流IRに現を抜かすことによって、企業は社会的責任を果たせなってしまうのだ。

株主は確かに企業のステークホルダーに違いない。しかしそれは極めて限定的であり、多くの場合短期的な投資による利益を目的としている。もし仮に長期的な企業の成長を共にできる投資家ならば、業績が悪くとも将来の糧を生み出す人財を捨ててまで配当を要求することはないはずである。仮に会社法云々のくだらない論議を認め、企業は株主のものとするなら、企業の社会的責任の裏側には投資家の社会的責任があるはずである。ということは、企業の社会的責任は投資家が優先的に負うことになるのだが、この点について投資家はどの程度の覚悟があるのだろうか。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(2/7)

3.グローバル・コンパクトから見たCSR

 

さて企業の社会的責任は、国連グローバル・コンパクトで提唱されている次の項目が根拠となっている。

人権

②労働基準

③環境

④腐敗防止

いずれも極めてシリアスな課題であるが、まず①については単一民族といわれているわが国では馴染みが少ない。一方出自などによる差別が未だに存在していることも事実であり、将来否応なく中国や韓国、東南アジアなどからの移民受け入れが促進されるとなれば、大きな悩みを生み出すだろう。

②は結社の自由、強制労働の排除、児童労働の排除、雇用と職業の差別撤廃が求められているが、主に児童労働については発展途上国のみならず貧富の格差が拡大した諸国では古くから重大な問題を提起している。強制労働や雇用差別に対しては、わが国では法令で厳しく制限されており、CSR以前の問題として各社ともこの課題には熱心に取り組んでいるところだ。

しかし結社の自由についてはどうだろう。確かに現在でも多くの企業に労働組合は存在する。しかし一昔のそれとは明らかに異なった様相を呈している。以前の労働組合が資本に対する労働者側の立場を適切に保全する砦であったのに対し、現在では資本と労働の間にいささか生ぬるい関係が否定できない。極端な場合会社の方針に異議を唱える組合活動に熱心な社員に対して、組合の力も及ばず不利な会社生活を強いる企業が少なくないのも現実だろう。

③の環境についていえば「地球温暖化防止条約」に基づいた温暖化防止のための脱炭素が現在の最大のテーマであるが、そもそも温暖化と炭酸ガスとの因果関係がある種の政治的・経済的な目論見による作為であるといった論議が大勢を占めつつあり、より慎重な科学的根拠が求められるところである。

むしろ「環境汚染・環境破壊」をなすことなく企業活動を継続することへの必然性がここでは重要なテーマとなる。地球温暖化防止条約と同時期に制定された「生物多様性条約」の拡張解釈によって、このミッションはより具体性を帯びてくるだろう。「省エネルギーや省資源・リサイクル問題」はCSRというよりむしろ利潤追求のための営業・生産活動の延長線上にあると考える。

④の腐敗防止はいわゆる賄賂の強要などを戒めたものであるが、これも法令で十分対処できる課題である。一方で東南アジアなどでは未だに、というより今後も更にビジネスにおける賄賂の必要性が切っても切れない難しい現実がある。しかしもし仮に日本企業が海外で賄賂罪を犯した場合でも、国外犯の適応を受け不正競争防止法や背任罪で処罰されることになるだろうから、ここでもわが国の法体制で対応できる。

こうして見てみると、要するにほとんどの項目はコンプライアンスの徹底によってカバーできるものと考えられるし、コンプライアンスは企業活動の根幹でもあるため、何も取り立ててCSRを声高に叫ぶ必要もないように感じられる。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(1/7)

.過ぎ去ったIRブームに見るCSRとの共通項

 

最近CSRという言葉を耳にするたびに、ある種の胡散臭さが感じられてしようがない。

ちょうど2002年ころだったか、突如としてIRブームが巻き起こった。いうまでもなくIR活動は投資家に対して適切な情報開示を行う説明責任のことである。多くの上場企業はそれを当然のこととして古くから取り組んできた。にもかかわらず、IRというあたかも新しい概念に乗り遅れると大変なことになる。こんな論調が散見された。極端なケースではIRを行うと株価が上がる、あなたの企業価値は本来株価○○円だが現在はその半分しかない、その原因は適切なIRをしてないからだ、といった半ば恫喝ビジネスまがいのIRコンサルタントもいたという。そして各社は、こぞって新しいIR活動に熱を入れることとなった。

その結果どうなったか。20034月から2007年春にかけて株価は指数で2.5倍近くにまで上昇した。個別企業では10倍以上の株価上昇を果たした企業も数多く見られた。ここまで見ると確かにIRによって株価が上がるといえるかもしれない。しかしその後はどうだ。2007年の天井を境に現在はほぼ出発点にまで戻ってしまった。ということは2007年から企業はIR活動をやめたということなのか。そうではないだろう。2007年以降もむしろより熱心にIRは行っている。投資家に対する説明責任を果たすために。

じつは筆者は1995年くらいからIR責任者も兼務していた。様々な証券会社にヒアリングしIRとは何なのかを研究するとともに、本当にIRが株価形成に影響を与えるのかどうか定点観測を行った。

1996年から3年間にわたって毎日十数銘柄の株価の動きとIRとの関連について観測し続けた。その結果得られた結論は、IRと株価はマクロでは連動しないということと、株価形成に大きな影響を与えるのは世界的な需給および個別銘柄の需給のみであることがわかった。と同時にその需給にインパクトを与える仕掛けとして株式先物市場の存在があることも。

わが国に株式先物市場が上場したのは1987年である。バブル真っ只中のこの時期、株式先物を利用して米国のヘッジファンドは膨大な売りを仕掛けた。そして1991年のバブル崩壊。件のヘッジファンドが多額の利益を手中にしたのはいうまでもない。世界的な需給をいち早く知った連中が、この金儲けのからくりを再び利用したのが2003年から2007年の指数上昇だと考えられるし、それにうまく便乗して一儲けしたのがIRコンサルタントだったのだろう。

昨今のCSRに半狂乱になっている社会動向を見ていると、どうしてもこのIR至上主義の時期を思い出してしまう。

 

2.ノブレス・オブリージュを自然に身につけていた伝統的な日本企業

 

少なくともわが国の伝統的な企業は、その存在理由を明確にするための説明責任や社会的責任をCSRという難解な言葉を持ち出すまでもなく実践していたことは、拙著「ASICAれ!」でも述べた。現在でも生き続けているであろうこれらの企業の社訓や家訓に、それが見て取れる。いわば日本版の「ノブレス・オブリージュ(社会的地位の高い人が自覚すべき義務)」として、当たり前のように社会に対する組織の責任を明示し、実践していた。

反面、世界的にCSRが叫ばれだしたのはエンロンやワールドコムなどの米国企業がもたらした不祥事がきっかけになっている。不正会計など社会を欺くこれらの行為の再発を防ぐために、コンプライアンスを徹底し内部統制を厳粛に行うことはCSRでも何でもない。企業として至極当然のことだ。それを取り立ててあたかも企業経営における新しい概念としてCSRを持ち出すのは、米国企業ならともかくわが国の企業には不似合いな気がしてならない。

拙著「ASICAれ!」で日本企業の特性として株式持ち合い制度や労働組合の存在、さらには年功序列や終身雇用などの制度が組織維持に欠かせない有効な仕組みがあったにもかかわらず、グローバリズムの大義名分のもとにことごとく放棄せざるを得なかったことを述べた。ちなみに株式持ち合い制度の解体によって放出された株式の大部分が米国のヘッジファンドに流れ、その結果多大な利益を供与したのはいうまでもない。つまり、本来わが国の企業が普遍的に大切にしていた社会的責任の通念を、CSRという一見新しい仕組みに組み直すことによって、またどこかの誰かが金儲けを企んでいるのでは、という気がしてならないのだ。

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河内英司(かわちえいじ)
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京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
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