河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

環境と対話する生物センサー

地域猫活動の矛盾と集団ヒステリー

東京の杉並区に妙法寺という日蓮宗のお寺がある。古くから厄除けにご利益があると言うことで、昔は相当賑わっていたらしい。近年はご多聞にもれず付近の商店街も寂れ、お寺に訪れる人もそんなに多くはない。どういう訳かお寺に猫はつきものなんだが、妙法寺にも猫が、いる。お寺に住み着いたものもいれば、近所から足繁く通ってくる猫もいる。多いときには十数頭、少なくても数頭の猫がお寺を訪れる人々を和ませている。雨の日も風の日も寸暇を惜しんで熱心にエサやりをする人々のおかげだろう。同じ猫でもエサやりをする人それぞれが自分勝手に名前をつけるため、一人で幾つもの名前を持つ猫がほとんどだ。それほど猫は人に愛される存在なのだろう。

 

「断種」を招くTNR(捕獲・不妊処置・リリース)

こんな風情を持つ妙法寺にも最近異様な事態が生じ始めている。
野良猫による近所トラブルは後を絶たないが、その解決策として十数年前からはじめられた「地域猫」活動が普及しつつある。これはまず大前提として野良猫を害獣として捉え、近隣の住民に害を及ぼさないようにボランティアなどの有志で猫を管理していこうとするものである。この活動にはいくつかのプロトコルがあるが、筆者がもっとも危惧しているのは「TNR」と称される捕獲・不妊処置・リリースの一連の行為である。野良猫対策や地域ネコ活動ではもう当たり前のように語られるこのTNRが、妙法寺でも行われるようになってきたのだ。


猫に対しては犬など他の動物と同様に人それぞれに好き嫌いがある。だから人と猫が同じ地域に共存するために様々な対策を取ることについて何ら異論はない。しかしTNRの問題は、「断種」を促すことだ。言うまでもなく人類を含めた生物の最大の使命は「種の存続」である。どんな危険な害獣であっても種の絶滅を防止するために完全な断種は行わず、ある程度の個体は温存するのが通例だ。しかしTNRに至っては地域ネコ活動家の間に、種の存続という概念がまったく見当たらない。誰が考えても簡単に理解できると思うが、野良猫にTNRを施せば猫の寿命である数年から十数年経てば、野良猫はこの世から絶滅してしまう。


動物医療従事者などの間でTNRを行っても野良猫の数は減らない、という見解を述べる人もいるが、それはおそらくいくら野良猫を減らしても次から次へと捨て猫が増えるから、という論理なのだろう。しかしこの論理が破綻しているのはまず捨て猫があることを前提にしていることにある。動物愛護および管理に関する法律で、厳に捨て猫は禁止されている。にもかかわらず捨て猫が減らないから、という前提条件を持ち出すことは、暗に捨て猫を許容していることと同じと言える。つまり、TNRを論じる際、家猫を捨てる行為とは別の次元で議論すべきなのだ。問題を整理すると、TNRは「断種」という人類を含めた生物全体の存在にかかわることであり、捨て猫は単に飼い主個人のモラルの問題といえる。法体系から捉えれば、「断種」は最上位概念である憲法に含まれるべき基本的な事柄であるのに対し、「捨て猫」は刑法に値する程度だろう。


相手が猫だからこのような考え方は疎かになりがちであるが、人間に置き換えればよく分かる。いささか品のない例ではあるが、年収100万円にも満たない家族がいたとしよう。そこに子供が生まれる。とても養っていけないからと生まれたばかりの子供を捨てる。あるいはもう先がないからと老人を捨てる。これは明らかにネグレクトであり児童虐待や高齢者虐待で刑法によって罰せられることになる。一方、年収100万円にも満たない家庭で産まれる子供はかわいそう。生まれたところで生きていけない。だからこの夫婦には子供が生まれないように処置しよう。しかも本人の同意無しに、だ。これが断種であって、傷害罪という刑法はもちろんだが、憲法で謳われている基本的人権や幸福追求権を侵害したとして罰せられることになる。
断種は古くはナチスによっても行われた忌まわしい行為であるが、残念なことに現在でもなお優生志向を持つ人たちによって肯定される場合もあると聞く。

 

「地域猫」活動に隠された課題と集団ヒステリー

ほんの数日前、妙法寺でTNRを行った活動家の話しによれば、避妊処置を行った雌猫のお腹の中に、二匹の仔猫が入っていたという。この仔猫は当然殺されたらしい。その理由を尋ねると、「当たり前でしょ!。当然殺すわよ。生まれたらどうするのよ。どうせ生まれてもカラスに殺されたり交通事故にあったりで、かわいそうでしょ」と。上述の例から言えば、貧困家庭の女性は妊娠するべきでなく、たまたま妊娠したなら避妊処置と同時にお腹の中の子供も堕胎させる、という論理になる。何という詭弁だろう。


TNR
活動が危ういのは、インターネットで検索しても人に尋ねても不思議なくらいそれを否定する人が少ないことである。どうせ猫だから、という気持ちがあるにせよ、ここにTNRを無意識に肯定させる仕掛けがあることにあまり気付かれていない。


まず一つは「地域猫」「住民との共生」「みんなで一代限りの野良猫を見守ろう」「それによって地域の連携を強くしよう」といった耳障りの良い言葉の羅列。この言葉によって活動に反対する人は地域の共生にも反対することになる、という無意識の刷り込みが地域猫活動への反論を押さえることになっている。


次は、野良猫は近所迷惑という大前提を解決する最高の施策がTNRであるという触れこみだ。なかなか自分一人では解決できない野良猫問題を自分の腹が痛まない程度で解決できるなら、動物の生きる権利などややこしい議論は避けたいという意識。


さらに、TNRによって一代限りになった猫を地域のみんなで大切にしていこうと呼びかけるシュプレヒコール効果。よく考えれば一代限りの種となってしまった猫を作りだした本人が、それを大切に、といわれても大きな違和感を抱かないのはやはり自分の家族ではないたかが猫だからなのだろう。


そして、とにかく猫を害獣として刷り込み、その害から近隣を守るマッチポンプ思考である。
その他、TNR活動の小難しいプロトコルを説明されると、十分に議論された最高の施策だという錯覚に陥ってしまうこと、などがある。

 

野良猫は「害獣」の刷り込みによる地域猫活動の正当性確保

ところで野良猫が増える最大の原因は家猫を捨てるから、といわれるが、もともと数十年前には家猫などほとんどなくほぼ全てが野良猫だった。さらにこの野良猫は元を正せばネズミや害虫を駆除するために家畜化された益獣であり、その役割から見ても家の中で飼う意味は全くなく、外で生きるからこそ猫の益獣としての本領が発揮できた。ペットブームの到来と共に飼い飽きた人たちや何らかの理由で飼い猫を捨てることが、結果的に野良猫が増えることに関してはまったく異論はない。確かに猫を捨てるのは法的にも問題で、心ある人間なら倫理感にも苛まれる。しかし捨てられた猫の中で、野生化して生きる力を持っている猫は、堂々と益獣としての野良猫に変身できるのである。
まずTNRプロトコルの中で、猫を害獣として見なしているところに最大の心得違いがある。

 

人類の持つ最大の美点「寛容性」の欠如が社会を貧困にする

とはいうもののやはり猫は嫌いだ。あいつは害獣だ。なぜなら鳴き声がうるさいし、庭に糞をするし、子供だって砂場で遊べないじゃないか、という声もある。昨今の殺伐とした都会生活を満喫しているひとたちには理解できないかもしれないが、まず鳴き声。たしかに繁殖期になれば雄同志のケンカなどでうるさいだろう。でもそれも年柄年中ではなく決まった季節に時折聞かれる程度だ。いわば季節の風物詩。都会ではほとんど耳にしないが、まだ寝足りない早朝、「コケコッコー」と天然の目覚ましが鳴ったからといって、ニワトリがうるさいから飼うのなら一代限りにTNRしよう、となるのだろうか。


夏の蝉にしても鳥の声にしても、少なくとも日本人はこれを季節の風物詩として楽しんできた。動物に限らず様々な生物との自然な関係を、当たり前のように許容してきた寛容さが、我が国独自の文化を形成したとも言える。


猫の糞の問題は当事者には深刻だろう。大切な花壇をことごとく荒らされては腹の虫も納まらない。筆者も子供の頃、楽しみに育てていたキンセンカの箱庭の中で猫におしっこをされ、鼻がもげるほどの匂いを経験したが、それはそれでこれも自然なんだという感覚しかなかったことを覚えているし、わざわざ小さな箱庭めがけてきっちりとおしっこをしていった猫を愛おしくも思った。

 

野良猫は本当に増えているのか---野良猫の生態を無視した数の論理

野良猫の数の問題であるが、どうもTNR活動家の見解には不自然な点がある。筆者は散歩が好きだから、杉並区や隣の中野区を当てもなく歩き回ることが度々だが、少なくとも昔にくらべて野良猫が増えたとは思えない。


宮城県に田代島という小さな島がある。猫の島として有名で、島の中心には猫神社もある。古くは養蚕のために蚕を喰うネズミを駆除するために島に連れてきたらしいが、住民の数と猫の数がほぼ同じという珍しい猫島だ。ほぼ全数がいわゆる野良猫で、もっぱら漁師が獲ってきた魚のおこぼれが主な餌であるが、自主的にエサやりをしている島民もいるらしい。この田代島の猫だが、当然TNRは施していない。小さな島だからわざわざ本土から船に乗って猫を捨てに来る人もないだろう。このような閉鎖された区域では猫の生態がよく分かる。


昔からこの方島の猫は多少の増減はあったにしてもほとんど数は変わらないのだという。TNRもせずに餌は潤沢にあるとなれば、ねずみ算式とは言わないまでもどんどん数は増えていきそうなものだが、じつはそうではない。これが野生動物の生態である。人間が管理するよりもはるかに綿密に彼らは生態系を管理している。もしこの小さな島で爆発的に猫の数が増えればどうなるか。それは猫が一番よく知っている。食糧不足になりケンカが絶えずやがて種の存続が危うくなる。そのために猫は自然に頭数制限をしているのかどうか不明だが、とにかく、増えない。これが人類には理解できない自然の摂理というものなのだろう。


では都会に暮らす猫はどうだろう。上述のように近年野良猫が極端に増えたと思えないのは、都会のような解放区域であったとしても、それぞれの猫のコロニーにおいて田代島と同じような頭数制限を自ら行っていると考えられる。猫はテリトリーを重視する動物である。たとえ解放区域であってもテリトリーは閉鎖区域と見なすことができ、そのテリトリーに適切な数を多少の増減があるにしてもある程度維持していると思われる。たとえそこの捨て猫が現れても、この動物の生態系が崩れることはない。要は強いものが生き残り弱いものが消えていく。それが種の存続なのだから。


この考えからすると、TNR活動家が声高に言う「放っておけばどんどん野良猫が増える」というのは単純なネズミ算による計算間違いだろう。もしくは動物の生態に対する無知から来る物なのかも知れない。


現実に妙法寺に限って言えばここ十年来、捨て猫があったり仔猫が生まれたりで、多いときに十数匹、現在は数匹で年ごとの増減はあっても閾値は守られている。ただ本来なら今頃(9月)仔猫がたくさん現れる楽しみがあるのだが、TNRのおかげでお寺もひっそり静まりかえったままであるのが少し寂しい。

 

ギュスターヴ・ル・ボンの群衆心理と地域猫集団ヒステリー現象

あまりにもヒステリックに叫ばれるTNR活動家を見ていると、どうも理由が別のところにあるような見もするし、いわゆる集団ヒステリーとしてフランスの社会心理学者であるギュスターヴ・ル・ボンが唱えた群衆心理に合致するようにも思える。ル・ボンは群衆心理で無意識のうちに人々はその群衆のリーダーの思考や価値観が刷り込まれ、思ってもいなかったことをするようになる、といっている。

ビジネスの世界でも比較的有効な手法として「恐怖ビジネス」がある。消費者に持たざる恐怖を煽って無意識に商品を買わせるというのがそれだが、TNR活動はどうもそれに近い気がしてならない。放っておけばどんどん野良猫が増えて、感染症が流行って町が汚くなって、だから我々が何とかしなければという使命感が先に立っているのかどうか分からないが、野良猫家猫関係なく猫を守るという壮大なビジョンではなく、自分たちの活動を正当化するために猫を害獣に仕立て上げているのでは、と思ってしまう。

 

種の存続を担保する多産動物

野良猫の増加を危惧する根拠として、猫は人と違って数匹の子供を産むことにある。ここでよく考えたいのは、動物はサバイバル状態では出来るだけ多くの子供を産む、ということだ。魚などは産んだ卵のほとんどが捕食されるため気が遠くなるほどの数を生む。ウミガメもそうだし、人間以外の多くの動物は複数匹の子供を生む。こうして結果的に種の存続に必要な最小限度の数を確保しているのだ。ちなみに人間も戦争状態など危機に瀕した場合、生殖感覚が異様に高まるらしいが、それはともかくどれだけ種の存続を動物が大切にしているのかがよく分かる。どんな理由があるにせよ、種の存続を妨げる愚行は許されるべきではない。

 

野良猫の絶滅が社会に与える影響

TNR活動家は仮に野良猫の数がどんどん減った場合、社会でどのような問題が起きるのか認識しているのだろうか。猫は益獣として家畜化されたといったが、それがいなくなった場合、ネズミは増える。ゴキブリなどの害虫も増える。ネズミやゴキブリが増えればそれに纏わる様々な感染症が蔓延することになる。古くはヨーロッパで猫が悪魔の使いとして嫌われ、大々的に駆除した結果、猫に救われたネズミがもたらすペストが大流行したのはよく知られている。


これと同じような問題がTNRの結果として生じることを危惧しているのだが、一旦益獣として我々の生活に深く入り込んでいる猫の役割についても十分な議論が必要だろう。

もっとも、TNRで猫がいなくなり風が吹けば桶屋が儲かる式に感染症が増加すれば、医療業界や医薬品業界は最高のビジネスチャンスではあるが、こんなことまで勘ぐりたくなるようないかがわしい活動のようにも思えてくる。

 

野良猫は益獣として社会の有効なリソースになる

ところで飼い猫(家猫)と野良猫が、自然に対する感受性が大きく異なるのはわが家の猫を見ているとよく分かる。わが家の猫は3匹とも野良猫出身だ。飼い始めた当時は地震予知によく活躍してくれた。しかし時が経つに連れ、二食昼寝付きの安泰な暮らしを続けるうちに、地震がおきても我関せずすやすや眠っている。野生動物としての感覚機能が少々衰えてきているのだろう。つまりもうすでに彼らは人間生活の中に入り込み家族の一員となったのだ。だからこそ家猫には我々は保護者としての責任がある。


一方で野良猫はまだまだ本来の感覚機能は健在だ。この野生感覚がどうも人間には気に入られないようだが、ここはもう少し野生動物ならではの役割をもっと発揮させるような施策が考えられないのだろうか。

筆者が以前提案した「地域猫による地震予知システム」は今こそ真剣に具体化すべきだろう。事実関西サイエンスフォーラムではペットによる地震予知システムの研究が産学事業として進められていると聞く。もっとも家庭で飼育されているペットを対象とするのなら、その効果はあまり期待できないとは考えるが。


いまのまま「断種」を続けて野良猫がいなくなってしまってからでは、この貴重なリソースが生かせなくなる。

百歩譲って TNRを肯定するにしても、たとえば「一つのコロニーのうち断種は総数の2/3を超えてはならない」などというルールを作るべきである。件の活動家は「とにかく雄でも雌でも徹底的に不妊処置する」と息巻いている。地域猫活動以上の特別な思想や利権がそこに存在するかのようでもある。

野良猫が増えると困るから断種する、つまり未来の命を絶つ、などといった短絡的な捉え方はいかにも傲慢な人間らしさの表れとも言えるが、声高に社会と野生動物との共生などというきれい事に隠された愚策ではなく、もっと益獣として社会に役立てる知恵が普通の人間にはあると思う。

 

猫にとってはご利益がなくなった妙法寺

東京都内でも名刹と言われている妙法寺の山門に、ねずみ取りを何倍にもした無骨なトラップを遠慮なく仕掛け、極めて事務的に捕獲から不妊処置そして同じ場所に放つ。戻ってきた猫たちの表情は一様に恐怖心が見られ、まるで人格?が変わってしまった猫もいる。たった二日間ほどの間で、だ。

これらの行為を行っている活動家の表情を見ていると、どこかで見たような気がした。そう、オウム真理教や新興宗教の信者と酷似しているその表情は、やはりル・ボンの群衆心理に当てはまるのだろう。

いずれにしても、厄除けにご利益があると崇められている「堀之内のおそっさま」も、最近は猫に対してはあまりご利益はなさそうである。

●ちなみにその後妙法寺に確認したところ、捕獲機を使用した 捕獲活動には驚いた様子で、妙法寺としては許可はしていないとのこと。今後捕獲現場を見つけたら注意するということだった。野良猫と言えども殺生を禁ずるお寺としては当然だろうが、少し安心した。

音と脳。

いつのまにか寒さも和らぎ、気の早い桜の花がちらほらする季節となってきた。人も虫も動物も、何となく、さあてそろそろ動き始めるか、と言ったところ。で、今回は虫の声のおはなしです。

まだまだこの季節は虫らしい虫は出てないんだが、これから夏にかけて蝶々をはじめいろんな虫が登場します。虫の声という観点から見れば、夏の蝉が一応ピークと思えるんですが、実は秋虫の音がもっとすごいらしい。

おきまりの猫ちゃんお食事デリバリーをしている近所のお寺でも、秋口になるとコオロギやらクビキリギスで大にぎわいの、一年で一番心地よい時期となります。でもこの秋虫の音をよく聞いてみると、意外にうるさいことに気がつく。うるさいけどさわやかなその中で、クビキリギスと鬼ごっこしている猫たちを眺めているのも、また心地よい時間なのであります。

秋虫の鳴き声の周波数は、ほとんどが4キロヘルツ以上といわれていますが、私たち人間が聞こえる周波数の範囲は、だいたい20ヘルツから20キロヘルツの間ですが、年をとるとだんだん高音が聞き取れにくくなって、それこそ10キロヘルツくらいしか聞こえなくなるから、ま、ちょうど真ん中より少し低めの一番心地よく聞こえるゾーンなんでしょう。

しかし、ですね、実は超高音の声を出すソプラノ虫がいるんです。というか、ほとんどの秋虫は基本周波数という領域以外に、かなり高音の音を出しているらしい。一番多いのは倍音という基本周波数の倍の波長なんですが、これはもう人間の可聴領域の限界に近い。クサキリなんていう虫は、基本周波数が16キロヘルツですから、その倍音は32キロヘルツの超音波で、いくらがんばっても私たちには聞き取れない未知の世界に突入です。 もし人間の可聴領域がもっと高ければ、お寺の境内なんか、もううるさくてお互いの話し声も聞こえないくらいなんでしょうね。

これと同じように、熱帯雨林の音が、じつは都会の交差点と同じくらいにうるさいのだそうです。ま、うるさいというより、いわゆる音圧と言われる音の強さを見てみると、熱帯雨林の夜では70デシベルを超えることもあるという。70デシベルといえば、電話のベルが鳴り続けたり騒々しい街角、という表現がなされているくらいにうるさいのだけれど、そんな音が年中熱帯雨林には鳴り響いているのだ。

でもそれがお寺の境内と同じようにうるさく感じないのは、熱帯雨林の音の大部分に、人間の耳では聞き取れない高周波の音が含まれているからなんです。なんと100キロヘルツを超える超高周波をはじめ、色んな波形の音が万華鏡のように入り乱れて熱帯雨林を覆っているのだそうです。これがほんとうの自然なのです。

そこで、では実際に熱帯雨林の音がどんなものか試してみようと思ってCDを買ってみたけれど、よく考えてみると、スピーカーは再生周波数が20キロヘルツまで。そんなことより、CDそのものが20キロヘルツまでしか録音できないんだから、残念ながら熱帯雨林の万華鏡を耳にすることはできなかったのであります。

では都会の音はというと、これはもう単純な音ばかりで、だいたいが20キロヘルツ以内におさまっている。だから人間の耳は20キロヘルツまでしか聞こえないのかどうか分からないけれど、ま、とにかく都会は単純で退屈で、ただうるさいだけの世界らしいのです。

20キロヘルツ以内であっても、音楽のようにメロディーがあれば綺麗に聞こえてしまう。でも、実際に聞こえるのと、その音が人間の身体に与える影響はまた違うのです。CDとレコードを聞き比べてみると、はるかにレコードの方が、なんというか厚みのある暖かな音として聞こえてくる。これがライブだったら同じ曲でも、もう別の世界になってしまう。レコードの方は高音域が再生されているからという人もいるけれど、少なくともCDのように強制的に20キロヘルツ以上はダメ、ということではないし、ライブの場合は、楽器の醸し出す音に加えて、たとえば弦のはじかれる瞬間などに微かな高音域が含まれている可能性は、ある。

そして見逃せないのは、この高音域の音がどうも人間の脳の活性化に大きな役割を果たしているらしいのだ。豊かな音域の中にいると、脳も生き生きとしてくるという。

古代から最も永く生命をはぐくんでいる熱帯雨林と同じように、日本の山や森の中でも20キロヘルツ以上の音がたくさん含まれている。一時マイナスイオンなんかが流行った時期があったけれど、山歩きをしたり田舎に行くと気持ちがいいのは、もしかしてこの20キロヘルツ以上の音のせいかもしれない。確かに高周波は私たちの耳には聞こえないが、直接脳かどこかに作用して、生命力を高めてくれているのかも知れない。言ってみれば、感知できないセンサーがまだ私たちの身体には存在しているのだろう。
とかく人間は目に見えない物、聞こえない物を信じようとはしないけれど、自然の中には人間には感知できない大切な栄養分が溢れているのだと思うのです。

最近、地下鉄の中でも歩きながらでもヘッドホンをつけた人たちをたくさん見受けますが、CDにしても音楽プレーヤーにしても20キロヘルツまでしか再生できない。退屈な都会の中で、しかも一日中こんな単純な音の世界に引きこもっていると、知らず知らずのうちに私たちの脳もおかしくなってしまうのでは、とちょっと心配でもあります。
たまには近場の自然に出かけて、高周波サプリメントでもいただきましょうか。

桜の計算。

毎年この季節になると、日本気象協会が桜の開花予想をだしますが、いつだったかこの予想を間違えたとかなんとか言ってましたけれど、ま、これはコンピュータへの単純な入力ミスと言うことらしいです。でも、その年の桜はたしかにちょっと開花予想が難しかったらしい。私たちは毎年春になるとになると、そろそろ暖かくなって桜のつぼみも目を覚まして、一気に咲き出すと思いがちですが、じつはその準備はずうっと前、前年の7月頃から始まっているのです。この頃に花芽というつぼみの元ができあがり、そのまま一旦休眠に入ってしまいます。翌春の大イベントのために、まずは準備万端整えて、体力温存のためにしばし一服と言うことでしょうか。と言うか、みんなで、せいの!と言って花開くために、だれも遅れないようにきちっと半年以上も前から準備して、後はゆっくり眠りにつく。朝起きて、あ、今日の会議はなんだったっけ?、と書類を慌てて鞄に突っ込んでいる私も見習わなくっちゃ、とは思うのですが。 ところで、よく秋の終わり頃にぽつぽつと勘違いしたように咲き出す桜があります。あれは、桜の葉っぱと大いに関係があって、7月頃に花芽ができた後おきまりの休眠にはいるのですが、台風やら異常乾燥などで葉っぱがなくなってしまうと、秋の寒い日に目を覚まされて、日中の暖かい日を春と間違えて咲くのだそうです。 桜の葉っぱには開花抑制物質というのがあって、これがたとえ秋に暖かな日があっても、まだ春じゃないよ、まだ咲くなよ、という信号を送っているのですね。だから、葉っぱがないと、もう咲きたい!って言う歯止めがきかなくなって、春でもないのにちらほらと花開いてしまうのです。 このように花芽だけでなく、葉っぱも翌春の開花に関係しているのです。花芽の準備ができて、さらには夏場には葉っぱもちゃんとついていて、秋の終わり頃になって徐々に葉っぱが落ちて、と言うこのプロセスがきちんと守られていないと、あの見事な咲きっぷりは期待できないのです。 で、一旦休眠に入った花芽がどのようにして目覚めるか、なのですが、ここには綿密な計算が桜によって行われているのです。これは「休眠打破」というのですが、休眠している花芽が、秋から冬にかけてある寒さに一定期間さらされると、この休眠から解き放たれる、と言うもの。ま、普通は休眠から目覚めるのは暖かくなったから、と言うのでしょうが、桜の場合はある低温の期間がどれだけ経過したか、が大きな問題なのです。え〜と、この計算はですね、まず一日の平均気温が15度の時を標準温度としてこれを一日の成長量とします。ですから、たとえば平均気温が5度のときは1/3日、つまり約0.3日の成長量。25度の時は約3.3日となるわけです。そしてこの成長量の日数を足して合計で20日になったらいよいよ開花、となります。普通東京なんかでは、冬場の平均気温は5度から6度くらいですから、この計算で行くと、20÷0.3で67日と言うことになります。ではいったいいつから勘定して67日か、なのですが、この計算式の起算日は過去のデータから決められていて各地の観測点によってそれぞれ違ってきます。ま、この辺が曖昧になっていると、どうも私たちはイライラするものですが、桜にとってはそんなものどうでもいいのであって、要するにちゃんと休眠から目覚めるような環境が大切なのです。 そこで、上の計算で行くと、とにかく気温が高ければ高いほど成長も早く休眠打破も早くなって、桜にとってもお花見を楽しみにしている私たちにとっても、とっても有り難いことだと思ってしまうのですが、そうは問屋は卸さない。 さきに書いたようにここで冬場の低温がカンフル剤のように休眠打破に効果をもたらすのです。つまり、単純に成長量の日数計算だけじゃなくて、もう一つ、チルユニットという温度指標が関係してくるのであります。チルユニットでは、5度前後の気温が休眠打破に一番効果があると言われています。つまり、冬の平均気温が5度前後の日が10日から15日くらい続くことが休眠打破には必要なんだ、と。平均気温が5度と言えば、最低気温が0度で最高気温が10度ですから結構寒い。この寒い日が2週間くらい続かないとうまく休眠から目覚めないと言うことらしい。と言うことは桜にとっていちばん格好良く咲けるのは、11月とか12月にぐぐっと寒くなって、それが2週間ほど続いて、1月や2月になればぽかぽか陽気。ま、こうなれば3月はじめには開花宣言と相成るわけです。 私たちは、近頃のように暖冬になれば桜の開花も早まって、合格発表の「サクラサク」というのも時代遅れになったり、入学式の頃は桜も散ってしまってなんか寂しい締まりのない記念写真になりそうですが、けっしてそうではないんですね。 豪華絢爛なお花見を演出するには、カリフォルニアのような暖かさだけじゃなくて、身が引き締まるような寒さが必要なんでございます。 でも、もし仮にとんでもない暖冬になってしまったら、休眠打破はどうなってしまうのか。桜にしてみたら来るべき低温の日がないわけですから、いつ目覚めからさめていいのか分からないわけでして、ただただ周りが暖かくなってきて、あれ、もしかして寒い日あったっけ?。いやなかったはずだけど・・・。でももう春みたいだし・・・。と言うような会話が、桜どうしでなされるのかどうかは別にして、要するに休眠打破が中途半端になってしまうらしいのです。ですから、おいおい、もう春だぜ。そろそろ咲こうか。いやちょっと待った方がいいんじゃない。確か去年はもう少し先だったような。でも、隣の木はつぼみもかなりふくらんでるし。そんなこと言っても、私の計算狂っちゃったからよくわかんないし。という感じで、どうも足並みが揃わないのであります。事実私の自宅周辺ではいつもは一斉に咲き始めるのに、記録的な暖冬だった2008年は、ちょっと勇み足で決まり悪そうに咲き出しているのやら、頑としてふくらんだつぼみのままいっこうに咲こうとしないのやら、どうも締まりのない春だったような気がします。 それにしても、何度の日が何日あって、その合計は、などという複雑な計算を桜の中でどのようにしてやっているのか分かりませんが、ちゃんと桜らしい誇らしげな咲き方をするために、私たちには理解できない能力が、桜にあることは確かなようです。しかも、ただ暖かいだけでは、ぼーとしてしまっていつ咲いて良いのやら分からなくなる。きちんと咲くには冬場の寒さというか、ま、試練みたいなものですが、これが必要だと言うことは、何か私たちの子育てにも通じるようですね。 こんどのお花見は、こんなことも考えながら、楽しみたいと思っています。 ちなみに、冬場の寒さが必ずやってくる東北の桜は開花予想がしやすいけれど、寒い日があったりなかったりの中途半端な南の地方の桜は、開花予想が難しいらしいのです。

ニオイ。

いつかの新聞に「検疫探知犬」の活躍が紹介されている。この検疫探知犬は、空港などで海外旅行から帰ってくる人たちの荷物に、輸入が禁止されている畜産物がないかどうかを嗅ぎ分けるらしい。最近は、鳥インフルエンザやBSEなどの問題もあって、不用意にこのようなお肉や加工品を勝手に海外から持ち込むことが厳しくなっている。海外旅行では、日本では口にしたことのない珍しい味覚の食べ物に遭遇することが、ある。ついつい、これはうまい!、日本で売ってないから買って帰ろう、ってなるけど、そう簡単に持ち帰れるわけではない。ちゃんと空港の検疫所で、このお肉加工品は変なウイルスや輸入禁止物は含まれていないですよ、と言った検査証明書を出さないといけない。ま、普通の人はこんな証明書をわざわざ現地のお肉屋さんでもらわなくちゃならない、ってこともあまり気にしていないから、そのまま空港に到着して、ワン!っていうことになってしまうのであります。 この検疫探知犬以外にも、災害救助犬や麻薬探知犬、そしておなじみの警察犬など、私たち人間はずいぶんと犬のお世話になっている。そして最近の研究では、人間のガンを発見する犬も出てきているとか。皮膚ガンなどのガン細胞から出てくる独特のニオイを検知するのだそうだ。1989年にイギリスで、ある夫人がいつもはおとなしい愛犬に激しく吠えられて、足もとを噛みつかれた。びっくりした夫人は急いで病院に駆けつけ治療をしたところ、ちょうど噛まれた部分に皮膚ガンが見つかった、とか。またアメリカのある夫人は、自分の飼い犬がしきりに胸に鼻をこすりつけてくるのを不思議に思い、なんとなくその部分を触れてみるとしこりがあるのに気づいて、病院に行くと乳ガンと診断された、など。 そもそも犬の嗅覚は人間の100万倍から1億倍の能力を持っている。嗅覚は鼻の中にある嗅粘膜のまた中にある嗅細胞というのが、ニオイの分子をキャッチすることで成り立つわけであって、言い替えれば嗅細胞の数によって嗅覚の能力は決まってしまう。人の嗅粘膜は、ちょっと大きめの記念切手くらいの大きさですが、犬のそれはなんと新聞紙くらいの巨大な面積を持っているのです。当然そこにある嗅細胞の数も人にくらべて400倍なんですが、嗅覚が人の1億倍近いと言うことは、この細胞ひとつひとつの感度がまた、人とくらべて格段に高いと言えるのですね。 そこで疑問になってくるのは、よくこのように人の何倍・・・と言う表現がありますが、ではここで言う人って、いったいどんな人なのか、と言うことであります。たぶん人も大昔は今よりもはるかに嗅覚が良かったと思われますし、文明の発展とともに嗅覚が退化してきたのは間違いないはずです。たぶんここでは現代の人という定義なんでしょうけど、現代と言ってもまた幅広い。今ではほとんどの食品に賞味期限が表示されていて、神経質な人なら賞味期限が一日でも過ぎていたら、もう親の敵ような感覚で捨ててしまう。たぶん、臭いをかいで、これ、まだいける、とか言うような行為はなくて、賞味期限表示をそのまま信じて暮らしている。私が小学生の頃は、こんな賞味期限などどこをみても書いてなかったし、すべては自分の嗅覚が頼りだった。それも、貧しい時代だったから、臭いをかいで、ン?ちょっと酸っぱい気がするがもともとのニオイも微かにするし、捨てるのももったいないし、微妙なラインだけどオーケー、みたいな感じで毎日暮らしてきた。このときの嗅覚は今とくらべてもはるかに優れていた、と思う。 都会に暮らしている人が、お盆やお正月に故郷に帰ったとき、もう駅に着いた時から昔懐かしい街のニオイに気づく。家に帰れば、あっ、これがわが家だ、というそれぞれの家庭が持っている独特なニオイに、安心したりもする。賞味期限もそうだけど、ニオイは私たちの日頃の暮らしを生き生きとさせるエンターテイメントを与えてきたのであります。 最近は、俗に言う良いニオイ、ま、これを香りと言うのでしょうか、それが重宝されて、生き生きとしたニオイが消滅しつつあります。湿気を含んだ土壁とカビが織りなす微妙なニオイや、美味しそうな野菜を彷彿とさせる肥だめのニオイなどは、今や悪とされてこの世から消えてしまいつつあります。言うまでもなく犬や猫などは、良いニオイや悪いニオイという判断基準ではなくて、自分が生きていく上で必要な情報の一部として感知している。彼らはニオイをかいだだけで、こいつは敵か味方か、食べて良いのか悪いのかがわかるという。ま、人間の場合はニオイよりも見た目で、こいつは好きか嫌いか、を判別することがよくありますが、実は視覚と嗅覚には密接な関係があるらしい。人間の視覚は総天然色で色んな色が見えるが、犬や猫は特定の色しか見えない。人間の祖先である猿の研究で分かったのですが、視覚細胞の色を見分ける遺伝子が、進化すればするほど嗅覚は退化していくのだそうだ。テレビでも街角でもこれでもかっ、と言うくらい色彩が氾濫している現代、貴重な嗅覚が退化していくのも仕方ないのかも知れません。

ヒゲ。

もうほとんどの人が持っているデジカメの性能は、毎年毎年いや毎月毎月技術革新が進んで、今では数百万画素と言う解像度も普通のコンパクトカメラで手に入れることができる。画素というのは、写真の画面を構成する色のついた「点」のことで、これが多いほど精密な画面、つまり綺麗な写真になるということだ。 このデジカメと同じような機能を持った動物が、ネズミなんだ。ま、最近はとんと街中では目にすることはなくなったが、それでも地下鉄のホームなんかでぼーっと立ってると、線路脇をちょろちょろ動く、イタチくらいのバカでかいネズミが、妙に懐かしい感触を呼び起こしてくれたりもする。 このネズミの顔には、実は数百本もの「ヒゲ」があるのだ。正確には顔に生えている体毛とは違って、「洞毛」と呼ばれる特殊な毛ですが、鼻の脇だけじゃなくて、目の上や喉などにも生えている。ま、顔中ヒゲだらけの異様な風貌と言えるのだが、見た目にはそれなりの可愛さ、もある。そしてこのヒゲの根元は100本以上の神経がつながっている。1本のヒゲに対して100本の神経が、ヒゲに加えられた圧力の強さや方向を察知するのだそうだ。しかも、それぞれの神経はネズミの脳の中にあるバレルと呼ばれる神経細胞の集団にひとつひとつつながっている。つまり、1本のヒゲに対して、ひとつの神経細胞の集団が100の神経から寄せられた圧力や方向などの情報を処理する、と言うわけなんだ。で、その結果は、というと、残念ながらネズミの友達もいないため、詳しくは本人から聞いたわけではないけれど、人間の持っている科学の知識から推測すると、おそらくは3次元的なかたちで、ネズミは自分の突っ込んでいる顔の周りの状況を立体的に把握できているのでは、ということになる。 数百本のヒゲについて、それぞれ100個の神経細胞が活動するわけだから、ざっと無意味な計算をしてみると、数万画素の撮像素子(CCD)を脳の中に持っていることになる。デジカメの数百万画素には遠く及ばないかも知れないが、こちらはなんと3次元映像だから、私だったらこちらの方が、欲しい。 ま、こうなれば目をつぶっていても、顔を突っ込んだだけで頭の中のディスプレイには周りの立体映像が映し出され、自分がその中に入っても安全かどうかがわかる、と言う便利な代物なのであります。 最近、やたらとヒゲを生やす人たちが増えてきたようだが、人間のヒゲは、他人が認めるかどうかは別にして権威の象徴であったり、何となく頼りない顔面に締まりを与えるワンポイントであったり、もうそろそろ歳だからそれなりの風格も必要だしという暖簾代わりだったり、病気で入院中に剃らずにいたら、思いがけずひげ面が自分に似合っているのを実感する棚からぼた餅であったり、どうも剃るのが面倒で、なんとなくこんな感じになっちゃったというなまくらであったり、といろいろその事情はあるでしょうが、けっして生死に関わるような重要なものでもないと思うのです。それに対してネズミのヒゲは、自分が生きていく上で欠かすことのできない環境センサーやレーダーの役割を持っているのだ。ネズミはヒゲの先っぽが触れる程度の穴や隙間であれば、それをくぐり抜けられるらしいし、さらには、このヒゲが物音などの低周波音を感じる振動センサーの役割も持っているとも言われている。まさに自分が生きていく上での必要な情報を、数百本のヒゲから集中的にキャッチしているのだ。 人間のヒゲには、見栄え以外の効果はあまりないけれど、実は人間の体毛も、ネズミには遠く及ばないにしても、微かな圧力や環境の変化なんぞをキャッチすることができるのだそうだ。驚いたり感激したりすると、鳥肌が立つとか言うけれど、たとえば人の気配なんかも、この体毛の根元にある神経で検知できるのだとか。ま、本当かどうか知らないけれど、どんな人でも電気を帯びていて、その人がある場所からある場所へ移動しても、先にいた場所にはその人の電気が少し残っていて、その残留電気を皮膚表面の体毛が感じとると、おや?ここには誰かいたな・・・と、気づくというのであります。少々オカルトの世界ではありますが、心霊スポットとかにいくと、ぞくっとして寒気がするというのも、もしかして体毛センサーが何かを感じとっているのかも知れません。これも人間に残された、数少ないセンサーのひとつでしょうね。 それはそれとして、デジカメの機能も、最近はカメラだけではなくて、携帯電話やパソコンのディスプレイなどにもついて、身の回り中カメラだらけだけれど、どうも最近はこの優れた機能を、間違った用途に使っている輩が少なくない今日この頃ですが、ネズミ社会では、ちゃんとその機能を自分の短い人生のために必死に活用しているのであります。ネズミからヒゲをとったら、もう生きていけない。ミッキーマウスはむしろ人間なのかも知れない。

閑話、子育て。

感動的な出来事があったので、今回は動物センサーから少しずれるけれど、ちょっとムダ話をしてみます。
近くのお寺で毎夜、猫たちにお食事デリバリーをして、もう11匹の大集団になってしまった。時折遅刻してくるものや、お休みの猫もいるけど、ま、賑やかなレストランテのひとときを楽しんでくれている。不思議なもので、毎日ちゃんと決まった時間にお食事がもらえるとなると、ちょっと前までガサガサしてなんとなく落ちつきのなかった子も、見違えるようにお利口さんの礼儀正しい猫になってしまうのである。11匹の組織を上手く守っていくために、自然とリーダー役や世話役、争いの仲裁役なんかが決まってくるのだ。でもその中でも、いぜんとして自分を絶対に曲げない頑固な輩も、いる。ゴエモンというその猫は、容貌も不気味でとても普通の猫とは思えない大きな顔に、目と鼻ががさつについている。辺り構わずケンカを売ってくるこのゴエモンが来ると、他の猫たちは、まるでツチノコのように一斉に這い蹲ってその行動を注視するのであります。だからゴエモンだけは、みんなと少し離れた場所でお食事をとってもらうことにしている。
今から3ヶ月くらい前、リナという雌猫が1匹の仔猫を連れてきた。リナはそれまでそんなにお腹も大きくなく、ほとんど毎日お寺に来ていたので、その仔猫がリナの子かどうかは分からないけど、見た目にはほほえましい親子だ。初日から数日間、リナは決して仔猫を10匹の集団に近づけようとはせず、お寺の山門あたりに一人残し、自分だけ食事に来ていた。あまりにもかわいそうだと思って仔猫の近くに食事をもっていくと、恐る恐る口を付けるが、遠くからじっと見つめているリナの視線がある。やがてそれから数日たつと、こんどはレストランテと山門の中間当たりに仔猫を移し、自分もそこで食事をするようになった。というより、自分の食事を分け与えているような優しい素振りが伺える。食事が終わると、リナは仔猫の毛繕いに精を出し、仔猫はお母さんに甘えたいのが半分、他の猫たちと遊びたいのが半分、といったどこかぎこちなさげな様子。この仔猫にシジミという名前を付けた。
それから数日たつと、相変わらず食事の場所は同じだが、食事のあとのシジミの毛繕いが終わると、リナはシジミから離れていくようになった。シジミはどういうわけか、あのゴエモンがたいそう気になるらしく、彼の元に歩み寄ろうとするのだけど、ゴエモンが「なんか用か?。このチビ。」って様子で睨みつけると、シジミは一瞬でたじろいでしまう。このときもリナは数メートル離れたところから、じっとシジミの行動を監視している。言うまでもなく、11匹の猫たちの中で、唯一ゴエモンだけが不良というか、背中に入れ墨のごとくにマークされている注意人物なのだ。他の猫にはあまり気にしないリナが、ゴエモンだけにはいつも注意を払っているようで、必ずどんなときでもシジミとゴエモンの間に、リナがいる。
じつはこのシジミ、11匹の中のチッチという雄猫にそっくりなのだ。チッチはレストランテをはじめたときからのチャーターメンバーで、もう3年近くのつきあいになる。ちょうどシジミくらいの大きさの時だったな。よく眺めてみると、シジミとリナの関係以外に、必ずチッチが絡んでいることが分かる。ゴエモン包囲網の時も、リナはゴエモンとシジミの中間地点に位置し、チッチはそれとは90度位の角度を持ったところで監視をしている。ゴエモンが「もうワシは腹一杯。帰る。」といったときも、シジミとリナ、チッチの位置関係は微妙に維持されながら変化していくのだ。ゴエモンが去った後は、3匹でほんとに仲むつまじく食後のひとときを、まったりと過ごしている。雄猫は自分のこどもの面倒は見ない、とよく言われるが、この光景からは決してそんな風には思えない。お父さんの役割をきちんと果たしている。
そんな状態がひと月近くたった時、食事が終わってほとんどの猫が三々五々帰った後、シジミが一人で樹で爪研ぎしたり落ち葉で遊んでいた。ああ、やっと親離れしたんだな、と頼もしく思って眺めていると、背中の向こうで何やら気配がする。ん?、と思って振り返ると、10メートルくらい離れた暗闇で、やっぱりリナが監視していた。そしてよくよく見渡してみるとチッチも別の方向から。おもわず、あっゴメンね、と呟いてしまった。
あるとき、もう何もかもがおもしろくて仕方ないシジミが、他の猫同士がにらみ合いをしているその真ん中を、さっと通り過ぎた。「ね、みなさんケンカなんかしちゃだめですよお。」という風で、あるいは、「そんなに睨めっこしないで、僕と遊ぼうよ。」といわんばかりに足早に通り過ぎた。するとリナはおもむろにシジミに近づいて、猫パンチ1発。「あの人たちはね、今むつかしいお話しをしているの。邪魔しちゃだめ。」と無邪気なこどもを窘めるように。
またあるときは、「はやくちょうだいよお。おなかすいた。」とニャオニャオお食事を催促していると、「黙って待ってなさい。そんな声出すと怖いおじさんに見つかっちゃうから。」といわんばかりに、このときもリナが強烈な猫パンチ。よく、母親にちゃんと育てられた野良猫は、上手に道路を渡るので車に轢かれることが少ないけど、早くから母親と離れたこどもはそれが分からないから交通事故に遭ってしまうといわれる。こうして大人の社会に上手くとけ込んでいく術を、身をもって教えているんだな。
この3ヶ月間、よちよち歩きのこどもが、どのようにして一人前になっていくのか、そしてそのときの母親や父親の役割がどんなに大事なものか、知らされた。たぶんお寺に来た頃が生後2〜3ヶ月だから、今ではもう人間に直すと10歳近くになっているはずだ。まるで早送りのビデオを眺めているように、子育てで一番大切な時期を目の当たりにすることができた。食事が終わった後は、いつもリナやチッチのそばから離れなかったシジミは、今では他の猫たちとそれぞれに楽しそうな時を過ごしている。リナやチッチはまるで何事もなかったかのように、決してシジミの世界を侵そうとはしない。別に保育園にも幼稚園にも行っていないし、母親学校にも行っていない。生まれながらにして持っている、母親としての本能と、父親としての本能が、また新しい大人を育て上げたのだ。そして見事とも言える親としての引き際。
親離れのできないこどもや子離れのできない親。新聞を見ればこどもの虐待やいじめ。地下鉄に乗ればお年寄りをさしおいて、我先に席を取ろうとする横着なこども。こどもをほったらかして、パチンコに現を抜かす親。
動物的とか本能的とかといえばちょっとワイルドで、理性とは対極にあるような言葉だけど、むしろ動物にはそれこそ倫理をも含んだ論理的な生き方や生かし方が、その本能に備わっているのだ、と教えられた。

知能と知識、そして情報。

地球環境と対話する動物のセンサーについて考えれば考えるほど、ま、だいたい人間のセンサーは動物たちとくらべると、恥ずかしいくらいいい加減であることが分かってきた。そういえば、去年の冬は、いつになく寒かった。デパートなんかでも、冬物の洋服がどんどん売れて、日本のGDPに貢献したらしい。でも、こんなことやってるのは人間だけで、動物たちは寒かろうが暑かろうが自前の洋服をきちんと取り替えて、一年をうまく過ごしている。
洋服という人工物を作る知識と技術を身につけたから、自然との対話を忘れたとも言えるし、自然との対話と引き替えに、この技術を身につけたとも言える。どっちにしても、人間は自然とともに生きる動物に、なくてはならない自然の微妙な変化を感じとるセンサーを捨てて、合理的な代替物と共に生きる道を、選んだわけだ。
日常生活に一番身近な天気にしても、むかしなら、長老のおじいさんが、空を見上げて、ン?、明日は雨だ・・・といったら、たいがい雨だった。最近は人工衛星やコンピュータを駆使して、天気予報してるけど、残念ながらカエルの予報の方が当たってるような気がする。
おじいさんの天気予報とコンピュータの天気予報では、そのもとになる情報の量は格段に違う。というより質が違うのかな。おじいさんのは空を見て、雲を見て、風の流れを見て、ま、ほかに鳥やカエルやそこらにいる動物の動きを察知して、ン?明日は雨だ、となるんだけど、その頭の中は、おじいさんが生きてきた毎日の出来事がぎっしり詰まっていて、その情報と照らし合わせて天気予報しているのだろう。勘、といってしまえばそれまでだけど、じつはその勘こそがセンサーと同義語なのであります。そしてこの勘というものは、白か黒か、プラスかマイナスか、1+1=2といった、理屈にかなった見方とはまったく無縁の代物で、白みがかった黒であるとか、1+1=2.5かもしれないというような、ま、いい加減といえばいい加減な世界なのですね。
いいかえれば、コンピュータに何もかもお任せの今の時代に生きている人たちは、勘がにぶいともいえるわけですが、ほとんどの現代人からは、それがどうした、と開き直りのお言葉を頂戴するでしょう。
コンピュータが私たちの暮らしにあふれて、たしかに便利になった。とりわけ1995年頃から普及しだしたインターネットで、どんな情報でも自宅でせんべいかじりながら手に取ることができる。でもその一方で、どうも情報を処理する私たち人間の能力に、かげりが見え始めているらしい。
ここに面白いデータがある。総務省からだされた、「情報流通センサス」報告書を見てみると、インターネットが普及する前の1980年頃は、電話やテレビや新聞や、ま、ありとあらゆる情報の、一年間に発信された量が13.4京ワードだという。京というのは何も京都の略称ではなくて、いち、じゅう、ひゃく、せん・・・と進んでいって、兆の次の位のことで、ケイとよばれて10の16乗という膨大な数字になる。一方で、そのときに私たち人間が消費した情報量は、1.21京ワードだったので、10個にひとつくらいは選ばれて、自分の役に立つように使っていたといえる。このときはまだまだ人間の情報処理能力には余裕があった。でも、インターネットが普及しはじめた1996年頃では、情報量は43.5京ワードで、消費情報量は2.83京ワード。ま、20個にひとつとなりました。そして2003年にはなんと4,710京ワードの情報のうち、消費できたのは20.3京ワードということで、230個にひとつとなってしまった。人間の能力もたいしたもので、この間の情報処理能力は20倍に増えているけど、もうそろそろ限界に近いのだとか。
いいかえれば、1980年頃は、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、と10個いわれて、はいはいわかりました、それではご飯を、となって、ま、何とか余裕が持てた。それが今では、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、学校行きなさい、本を読みなさい、テレビを見るな、遊ぶな、こっちへ来い、と230個もいろんなこと言われて、もうシッチャカメッチャカのなかでなんとかひとつ選んでいる状態なんだ。
こんなに情報があふれた暮らしの中で、それこそ自然との対話なんぞ、しているヒマもないし、その間に私たちの勘はにぶり、センサーが衰退していくのであります。
実際、まわりを見渡してみれば、ここ十数年の間に私たちは、これでもか、といわんばかりの情報に囲まれ、知識も昔とは比べものにならないくらいに増えた。でも、たとえば、地下鉄の座席で周りの目もはばからず、ワシの足はこんなに長いんだ、といわんばかりに大きくふんぞり返っているオジサンや、世界は家庭の延長という感じで、わがもの顔で携帯電話に熱中する人など、けっしてモラルというか、人間の質みたいなものが良くなったとは思えない。
他人の微妙な心を感知できるセンサー、人を気遣うセンサー、こういったコミュニティーで生きていくのにだいじなセンサーの機能が、最近故障だらけというのも、地球環境の破壊と無縁であるとは思えないのであります。
以前、このコーナーで、一ヶ月くらい何も話さない、言葉を使わない状態を試してみたら、きっと私たちのセンサー能力がよみがえる、といったけど、同じように、一ヶ月くらい、ちまたの情報を遮断して、仙人気取りになってみるのも、いいのかもしれない、と思う。

渡り鳥とナビ。

冬の到来とともに、渡り鳥たちも気ぜわしくなってきているようですね。毎年きまったところに、きまった頃にやってくる。その数が環境問題のせいか、年々少なくなっているとはいえ、やっぱりきまった頃にやってくる。渡り鳥が、どうして行き先を判別できるのか、30年くらい前から研究されているのだが、まだはっきりとした結論は出ていないようだ。そんな中で、何となく、これだ、というのが地磁気説であります。多くの鳥には生体磁石、つまり身体の中に磁石をもっているらしく、これがコンパス代わりになって、方向が分かるのだそうです。身体の中に耳石器という器官があって、その耳石が磁性をもっている。これが地磁気の変化によって感覚細胞を刺激するのだ、とか。身体の中に、あの、磁石があること自体、大変不思議なのでありますが、実は多くの生物にその磁性体があることが分かってきています。有名なのは魚。サケが毎年同じ場所で卵を産むために帰ってくるのも、この磁石のおかげということです。ま、サケについては他に生まれ育った場所の臭いを記憶している、という説もありますが。
生体磁石の発見は、1979年に米国の大学生が海底の底に生息するバクテリアを見つけたことがきっかけといわれています。このバクテリアに磁鉄鉱を脂肪酸で覆った生体磁石の存在が分かったのです。磁鉄鉱なんぞ、地球上のどこにでもあって、それが海底の泥に生息する生物の身体に含まれる、と考えれば、そんなに不思議ではないですし、それと接する魚にも存在するのも、また、当たり前といえば当たり前です。ま、いわゆる食物連鎖のひとつなんでしょうか。
ところで、私たち人間の身体にも磁石があることをご存じですか。ひとつは脳下垂体という脳のちょうど真ん中あたりにある器官で、いろんなホルモンを分泌する重要な役割をもったところですが、この脳下垂体の前の方に磁気器官があるのだそうです。そしてもう一つは、脳の中央部にあるといわれる松果体という器官です。この器官は下等動物では第三の目といわれ、おもに光の明暗を感知するらしいです。鳥の松果体には時計機能も備わっていて、体内時計の調整にも使われています。人間ではここでも地場を感知することができます。さらには、人間の両目の間にある篩骨という骨にも、ごくわずかな鉄分が含まれていて、これが方位磁石の役割をしているとも言われています。こうしてみると人間も、なんだか磁石の固まりのようで、やっぱり地球人なんだな、と思ってしまうのであります。
最近は、なんとかナビといって、遠くに行くにも地図なしで、300メートル先右方向へ、といった音声ガイドが、もう生活の必需品のようになってしまって、そこらじゅうに地図音痴が増えていますが、もともと人間は鳥と同じように地図なしでも歩き回れる能力があったのですね。
鳥をはじめとした多くの生き物に磁石が備わっていて、磁石の親玉でもある地球と交信していたのは、まぎれもない事実ですが、渡り鳥の帰巣本能として地磁気説に異議を唱える学者もいるそうです。
ある学者が、意地の悪いことに鳥の頭に強力な磁石をくっつけて、わざと磁場の感覚を狂わせた実験をしたのですが、それでも鳥はきちんと方向を感知することができた、というのです。だから地磁気説は間違いだと。ま、どちらでもいいんですけど、実は鳥の目の中には櫛状体(しつじょうたい)という不思議な器官があります。字面からすれば、ちょうど櫛のようになった細胞とでもいうのでしょうね。ここで、映像をよりはっきりと見えるように調節するそうです。そしてこの器官を使って、なんと、昼間でも星座を見ることができるのであります。むかしNHKのウルトラアイという番組で、煙突の底から空を見れば、星座が見えるか、という実験があった。結果は残念ながら見えなかったらしいが、これは昼間、星を見にくくしている太陽からの散乱光をできるだけ少なくすれば、もしかして星が見えるかも、という期待から行われた実験で、ようは、煙突で散乱光を遮ってしまえば昼間でも星が見えるのでは、という理屈であります。鳥の場合は、櫛状体の櫛の部分で散乱光を遮って、星座を頼りに方向を察知しているというのがこの説。私は個人的には、この説の方がロマンチックで魅力的に感じます。
どの説が本当なのか、残念ながら我々人間の科学力をもってしても、まだ明確な回答は残せないままですが、自然と向き合っている生物には、ちゃんと生活していく機能がはじめから備わっているのですね。
たまには、ナビのお世話にならずに、気の向くままに生体磁石にでも頼って、歩き回ってみるのもいいかもしれません。

ちょっと植物について。

前回の猫の集会で、ふと、気になったことがある。集会が終わると、それぞれ思い思いにどこかへ去っていくのやら、適当な場所でくつろぎはじめるのだが、数頭の猫はお寺の大きな樹の下で、いっぷくしはじめる。丸くなって、ちょうど樹の根のへこみに、ちょこんと納まるぐあいに心地よさそうに。でも中には、じっと樹の幹の一点を見つめ続け、なにやら樹と会話でもしているかのような猫もいる。ま、たぶん、樹の幹に小さな虫なんかが動いているのでしょうけれど、もしかして、例のテレパシーで樹とお話ししているのかも知れない。
そういえば、親しくしているある大学の先生によると、植物はコミュニケーションをするらしい。人間社会でいう声に出して喋るのではないが、たしかに、会話するのだそうだ。今でもよく言われることだが、リビングで栽培している観葉植物に、今日は寒いけどがんばってね、と優しい言葉をかけると、生き生き育つといわれている。ま、真偽のほどはともかく、植物が人間の言葉を理解するというより、心を読み取る能力があることは否定できませんね。いやいやそんなバカな話はありませんよ、と科学者の皆さんはおっしゃるかも知れませんが、植物に読心能力がないことを、科学的に証明できないこともたしかなのであります。
猫が言葉を使わずに、お互いにコミュニケーションできるとすれば、猫は樹と会話していても、何の不思議もありません。
植物がほんとに声を出すのかどうか、よく分からないけれど、その先生によると、植物の体内電流だか生体電位だかをはかれば、確かに周りの仲間と会話しているような変化があるのだそうです。昔、小学生の頃、京都の糺の森(ただすのもり)の近くに住んでいた。この森は平安時代以前からあった古い森だが、夜になると、うっそうと茂った森の中へ、肝試しよろしくよく出かけたことがある。怖さ半分、好奇心半分の中に、ほんの少し、こんな真っ暗闇でもボクは怖くないんだぞ、とかすかなプライドを抱えて、外灯も何もない暗黒の別世界へ進むのであります。で、このとき、昼間ではほとんど耳にしない不思議な音が、しんと静まりかえった森の中で聞こえてきたのを今でも覚えている。虫の鳴き声や木の葉のこすれる音とはまったく別の、全宇宙的と言えるような不思議な音。もしかして、その音が、樹と樹の会話だったのかもしれない。
植物は、光合成といって、炭酸ガスと水から、酸素と栄養分を作りだす、素晴らしい能力を持っています。ま、要するに、自然の状態では空気中の炭酸ガスを吸い込んで、酸素をはき出す、という、動物にとってはまことにありがたい存在なのであります。が、人類の進歩と産業の発展によって、この植物の吸収量をはるかに超えた炭酸ガスが放出され、植物の宝庫でもある熱帯地方の森や林が伐採されて、炭酸ガスの吸収量が少なくなった。これが地球温暖化という、やっかいな環境問題ですね。つい先日もアメリカで、超大型のハリケーンが大きな災害を与えたけれど、地球温暖化がもっと激しくなると、台風やハリケーンの規模も、今では想像できないくらい巨大になるらしい。植物と台風、こんなところでも関係があるのですね。日本には、昔から全国いたる所に「鎮守の森」というのがあった。鎮守の森は神様がおられる森だそうで、みな大切に崇めてきた。地方に行けば今でも目にすることはあるけれど、都会では、もうほとんど天然記念物状態の稀少価値ゾーンといえます。この鎮守の森、そこに生えている植物はほとんどが「広葉樹」なんだそうです。広葉樹というのは、ドングリやブナのように、文字どおり、葉っぱの広い樹のことで、松や杉などは葉っぱが針のようにとがっているから針葉樹。じつは、光合成を一番効率的にするのは、この広葉樹なんです。葉っぱの面積が広いから、光合成作業も効率的にできるのはあたりまえといえばあたりまえですが、都市化によって、広葉樹をたくさん蓄えた鎮守の森が年々少なくなっていくのが、温暖化にも大きな影響を与えているのですね。最近は、鎮守の森の効果が見直されて、その再生活動が盛んになっていますが、いっぽうで熱帯雨林を守ろうとか、寄付金で熱帯に植林しましょうなどといったイベントをよく目にします。ほんとはもっと身近なこの鎮守の森や近所の森を守っていくことが、大切なのでは、と思うのであります。そうそう、植林といえば、あまり気づかない大切なことが、最近分かってきたみたいです。自然に生育している樹と、人工的に植林した樹とくらべてみると、光合成の能力に大きな差があるらしい。つまり、人工林の樹は光合成をすることはするが、バリバリの野性味豊かな自然林の樹の方がはるかに力強く光合成するんだそうです。やはり、過保護というか人工的に自然を作ろうとしても、自然は自然にしかできないのであります。先の大学の先生もおっしゃってましたが、自然林と人工林をくらべてみると、自然林の樹々は、あちこちの樹とダイナミックにコミュニケーションするけれど、人工林の樹は、ほんのお隣さんとだけしかコミュニケーションしないって。なんだか、最近の教育問題を象徴するようでもあります。
と、ここまで書いて、「動物センサー」のテーマから、かなり脱線していることに気がついた。調子に乗りすぎて「植物コミュニケーション」になってしまった。しかし、ですね、動物どうし、植物どうし、そして植物と動物のコミュニケーションも、それぞれがもっているセンサー能力が大きくものをいうのです。相手やまわりの状況を感知して、適切な行動をとるためのセンサーです。
たとえば、人間の目の感度は555ナノメートルの波長あたりが一番高いとされています。これはちょうど黄緑付近の色になります。逆に赤やオレンジなどでは、極端に感度が悪くなります。感度が高いということは、細かな色の変化を見分けることができる、ということですね。たぶん人類は、大昔、樹々の微妙な色の変化を見て生活に役立てていたのではないでしょうか。今でも長野県の山奥や、草原に行ってみると、まわりはほとんど緑で、5月頃には新芽が出てきて、緑の固まりの中にぽつぽつと黄緑色の集団が見える。赤やオレンジはまずお目にかかれない。古代の人類にとって、食物になる新芽を探すには、この黄緑付近の感度を強くしておく必要があったのだ、と思うのであります。
このように、動物はそれぞれに自然と共生するためのセンサー機能を持っていたはずですが、文明の進歩とともに、そしてセンサーに代わる道具の発明によって、とくに人類は、まったくおそまつなセンサー機能しか持たなくなった、と考えています。

猫の集会に参加した。

1ヶ月ほど前の土曜日、猫の集会に参加した。夜12時を少しまわった近所のお寺。人影もまばらで、あ、こんな風景もあったんだと、いつもと違う週末を楽しんだ。
じつは1年くらい前から、このお寺の猫たちに、毎夜お食事を届けている。ま、猫ちゃん相手のデリバリーサービスといったところかな。そんなことで、こちらの猫たちとは、ある程度顔なじみだけど、集会とやらには初めて参加させていただいた。
お寺に到着すると、もうすでに6頭のメンバーがそろっていた。お、もう会議はじまってるの、と思いながらも適当に空いた場所にしゃがみ込む。で、ここで肝心なのは、けっして猫の近くに寄りすぎないこと。2メートルくらいの距離を保ちながら、静かにしゃがみ込む。昔何かの本で読んだけど、動物には心地よい距離というのがあるらしい。体感距離とかパーソナルエリアと言われているもので、心理的に認められた概念上の空間なのです。これは当然人間にも当てはまって、見知らぬ人があまり近くにいると、なんだか気味悪くて落ち着かない感触。あれが体感距離を侵略されている現象なんですね。子供の頃、まだ舗装されていない地面に木の枝で丸く円を描いて、ここはボクの陣地だから入らないでね、と言って遊んだあれに近いものがある。この体感距離は親しい人ほど短くなるらしく、恋人同士だと、もうほぼその距離は限りなくゼロに等しくなるのであります。
ま、それはともかく、体感距離を守って猫たちの間に均等配置につきましょう。そう言えば6頭の猫もそれぞれ、1メートルから2メートルの距離を置いて均等に座っている。しかも、面と向かっては座らないんだね。お互いにあっち向いたりこっち向いたり、実にうまく乱数表のごとく着座している。人間社会では、会議はおろか人とお話しするときは、フェイス ツー フェイスで相手の目を見て喋りなさい、と教育されてきた。先生に質問されて、えーと、それはねえ、と余所見しながら答えたら、ちゃんとこっちを向いて喋りなさい、って叱られたことがあったな。でも、猫の集会ではけっしてフェイス ツー フェイスの光景は見られないし、議長も誰かわからない。いったい誰が司会してどんなお話しをしてるんだろう、と探ってみても全く不明。皆ずっと黙ったまま、箱座りしているものやら退屈そうに毛繕いしているもの、もうこんな会議はつまらん、と言った風に居眠りをはじめる輩もいる。30分ほどしたら別の2頭が遅れて参加してきた。いやあ、野暮用で遅くなって申し訳ない、と言ったそぶりもなく、やはり体感距離をきちんと守って着座。これでいつものフルメンバー勢揃いなんだが、会議が進行しているのかどうかもよくわからん。2時間くらいすぎた頃、1頭また1頭、と近くの木下や灯籠の下など、好みの場所に移動しはじめた。それじゃ、また、と言わんばかりに、そそくさとどこかへ行ってしまうものもいる。どうも会議は滞りなく終了した模様です。
こちらは2時間のあいだ、無言でずっとしゃがみっぱなしだったが、何か心地よい。無言の会議。果たして、この集会で皆何を話していたんだろう。テリトリー問題の調停なのか、食事の順番の決めごとか、たわいもない世間話なのか。人間社会では、おい、誰か喋らんと会議にならんぞ、と議長からお叱りを頂戴するところだが、猫の集会では、えー私の見解は、まあ、こういったことでありまして、いやいや仰るとおりでごもっともなご意見で、と言った社交辞令が飛び交うこともなく、極めて効率的に進行されているのであります。
人間は、言葉によってすべてのコミュニケーションを行っている。言い替えれば言葉なしでは、もう、コミュニケーションはとれない動物だとも言える。でも、この猫たちは、おそらくは無言で話し合ったに違いない。私も集会のあいだ、一所懸命、「この猫たちは何を思っているのだろう」とか「あんたはどこから来たの」と無言で語りかけていることに気がついた。猫の心の奥底を、必死になって読み取ろうとしている。もしかして、この行為だけでもコミュニケーションが成り立つのでは、と思ってしまう。
確かに猫や犬など、動物にはある種のテレパシー能力が備わっている、と言われている。飼い主の心や気持ちが理解できる、と言う話は何回となく耳にしたことがある。飼い主が猫を動物病院に連れて行こうと思っただけで、雲隠れしてしまう猫がいたり、外出中の飼い主の事故や病気を予知する猫がいることも、海外事例で紹介されている。その原因はまだわからないにしても、どうも人の心を読む能力は、確かにあるらしい。たぶん、猫の集会でも、言葉を使わずに心と心で十分なコミュニケーションをしているのでしょう。
人間が行う言葉を用いたコミュニケーションが、絶対正確なものとは言えないことは、「まあ、それは可能といえないといえば嘘になりますが、可能性の中にも不可能な要因が潜んでいると言うことでして・・」と言ったザ・政治家らしいお言葉や、会社と赤チョウチンでの会話のギャップをみれば、至極当然のことであります。また、真意とは裏腹に、相手の心を傷つけたり、誤解されたりするのも、言葉という道具の仕業なのです。
企業でも最近は、コミュニケーションの活性化とか、情報の共有化などといった大スローガンが溢れまくっているが、どうも人間社会では、このコミュニケーションというものを勘違いしているのでは、と猫の集会は教えてくれるのです。まず、「あいつはコミュニケーションが優れている」と言われる人物は、話し上手でいろんな情報をあちこちに発信するタイプを指すでしょ。でもね、これが違うんですよ。ほんとうにコミュニケーションで大切なのは、情報を発信することよりも、読み取る能力なんです。誰がどんな情報をほしがっているのか、を見分ける力。相手の心を読む力が大切だと思っています。とくに、現代のようにネットワーク社会になって、ケイタイやらメールやらで自由に会話できる便利な装置が氾濫しているときこそ、これが大事。
どうも私たち人類は、大昔、言葉を発明したときから、心を読み取るという、超のつく貴重な宝物を置き去りにしてきたようですね。今、テレパシーがどうのこうの真顔で論じると、ちょっと違った世界の人のように思われてしまう。山のてっぺんで深夜、輪になって手をつないで、さあ、宇宙人さんいらっしゃい、と言った類のそれみたいに。でも、先に書いた猫や犬の予知能力を見ると、確かに人間にもその能力は備わっていたはずだと思う。事実、虫の知らせや、第六感などがそれに近いものかも知れないけど、人間の場合は、赤ん坊にその痕跡が見られると言われている。言葉をはじめ、いろんな知識を身につけるのと引き替えに、こう言った大切な能力がだんだん退化してくるのだろう。
で、現実には不可能かも知れないが、例えば、1ヶ月間はいっさい喋らない、と言った体験をしてみるのも面白いかも知れない。言葉を使わないから、こちらから話しかけることはできない。相手の言葉をきくこともできない。ただひたすら相手の気持ちを探ろうとする。たぶん、1ヶ月後には人や自然の心を読み取ると言った力が、少しは頭をもたげてくるようにも思える。
環境問題に対しても、今、言葉が先行して、地球温暖化や自然との共生など難しい話をしないと、偉そうに思われないのだが、もっと大切なのは、一度言葉をやめて、どこまで自然と会話できるか自分自身で体験することだと思うのであります。
人間も自然の一部だとしたら、人間社会だけで通用する言語ではなくて、動物や植物が当たり前のように行っているコミュニケーションのカタチを研究することも、大きな課題なのです。と、猫の集会は教えてくれたのでありました。

地域ネコ地震予知ネットワークを考える。

猫が電磁波を感じて、地震の前に騒ぎ出す。これを利用した、というか、お世話になるとでも言える、地震予知ネットワークシステムなるもの、を考えてみた。我ながら、たいしたもんだ、と少々科学者気取りになっていたが、じつはすでにある大学で取り組んでいるらしい。
やれ花壇を掘り起こしたとか、フンがきたないとか、鳴き声がうるさいといって、人間社会に対する背任行為でもしているかのように見られているノラ猫。猫は、家畜の中でも、もっとも野生の習性を残している動物なのだから、まあ、大目に見てあげましょうよ。一方で、動物愛護の精神から、もっと地域に生息するノラ猫を手厚く保護していこうという動きもあるようだけど、よく考えてみると、それは地域社会の平和を保つために、猫たちをどのようにして管理するのか、といったあくまでも人間側の都合が先に立っているようで。ここでも、我が人類は地球上で最高の叡智を持つ存在なんだ、と言うおごりみたいなものが気にかかる。
ま、そんな人間のおごりも、一喝するような地震予知ネットワークなんです、これは。
日本全国に、いったいどのくらいの数のノラ猫が生息しているのか正確にはわからないけど、町中を散歩していても、一匹狼風の少し気取ったヤツとか、ちょっとガラの悪そうな怖いおにいさん風、よっこらしょといった肝っ玉かあさん風など。ひとつの町内に最低でも数十頭。そしてひとつの区には何千頭、と勘定していくと、もう頭がこんがらがって、えいっ、ニッポン全国何百万頭だ、と少々乱暴な予測をたててみたりする。
あの、「はい、今夜の関東地方は、南部では太平洋沿岸を進む低気圧の影響で曇りがちで、一時雨が降るかも知れません。」などというお天気おじさんで有名なアメダスも、全国で1300箇所と言うから、それをはるかに超える。このノラ猫たちに地震の予知センサーとして活躍してもらおうというのが、本ネットワークのねらいなのであります。
ところで、ノラ猫、とくに野良猫といった呼び方は、ちょっとぞんざいでヤクザっぽくて、世の荒くれ者みたいだから、地域ネコという風に、何となく社会との共生っぽいイメージを持つ呼び名に変わってきているらしい。ま、それはよいことですね。
その地域ネコすべてに、GPSつきの発信器をとりつけましょう。GPSというのは、そう、カーナビで随分お世話になり万人を地図音痴にするあれです。自分がいまどこにいるか、が即座に分かるこの最新技術を、猫の首輪と一体にできればよろしい。発信器を含めても、何これ、重いなあ、と猫に思わせないくらい軽量化と小型化がまず必要ですね。そのGPSネックレスを着けた猫たちからの位置情報を、地域ごとにネットワークで把握するシステムなのである。リアルタイムで送られてくる猫の位置情報が、ある限界、専門用語でしきい値というらしいのですが、ま、この限界を超えると猫が異常行動をしているのがわかるということです。そして地域ごとに地震予知警報を出す。
はじめのうちは、なんだ、またガセ情報か、こんな信頼できないシステムなんかやめてしまえ、などといったよくて当たり前式の非難の嵐でしょうけど、そりゃ、猫だって、気まぐれに暴れますよ。毎年2、3回恒例の種の保存行事に多忙ですし、たまには隣のテリトリーから来る不心得者のためにケンカすることもある。でも、長い年月かけて、異常行動の原因が地震の前触れ電磁波によるものかほかの要因なのか、データを積み重ねていけば、立派な予知システムに磨きをかけることができるのだ。人間や社会に大きな被害を与える大地震は、数十年か数百年に1回といわれています。ということは、このシステムの完成に数十年かけても、どこからも非難されることはない。
これが完成すれば、もう野良猫はノラ猫でも地域ネコでもない。人類の安全や財産を守る貴重な存在としてその立場を変えてくる。人はこうして活躍してくれる猫たちに敬意を表するでしょうし、猫も思うがままに遊び回れる。これがほんとうの共生なのだ、と考えるのであります。
今回の予知システムは、とりあえず、猫だけれど、ナマズや犬なども可能性はある。でも、ナマズは生息地が限られているし、野良犬はちょっと怖い。ま、そんなことで、ここはひとつ猫の超能力のお世話になりましょう。
こうして考えてみると、冒頭の「動物愛護精神」。ちょっと逆かも、と思ってしまう。この地震ネットワークに限らず、猫や犬の超能力で人が助かった、と言ったお話しは山ほどある。ときどき、人は地球上の動物や植物に生かされているのでは、助けられて生きているのでは、と考えることがある。最近のペットブームをよく見てみると、どうも動物愛護ではなくて、人間愛護のためにペットたちががんばってる、と思えなくもないですね。
大上段に構えて、動物愛護を唱えるのではなく、私たちをサポートしていただくために、生き物たちに敬愛の念をもって接しましょう。こんな視点に変えることが、これこそがほんとうの自然との共生といえるし、また自然や環境とのかかわりも変わってくるかも知れない、と最近感じるのであります。

スマトラ沖地震から学ぶもの。

ちょうど5年前の今頃。いつものように時を過ごし、さあ、来年はどんな年になるのかなあ、とちょっとあわただしくなった心の整理をはじめようかと思った矢先、スマトラの沖合で大きな地震がおこった。そして、後を追うように発生した大津波は、新年を新たな気持ちで迎えようとしていた、多くの人々や町並みや自然を、一気に飲み込んでしまった。
今なお、行方が知れずに見つからない気の毒な人たちが多くいる中で、なぜか、象や野ウサギなど動物たちはほとんど犠牲になっていないらしい。まったく信じられないことだけど、中には長い鼻で人を抱え上げ、そのまま一緒に丘へ向かって逃げ上がった象もいたとは。いざとなったら、動物たちは、我が身をかえりみず、人間を助けるんですねえ。どんな心境なんだろう、と思う。
なぜ多くの人たちが犠牲になったのに、動物たちが無事だったのか。これには、将来の人間社会、いや、地球全体の自然も含めた、むつかしくいえば生態系というか、要するに、これから人間が考えていかなければならない大切なことを、示しているといえるのです。
昔からよくいわれていることですが、ほとんどの動物には、何というか、センサーみたいな機能が備わっていて、自然でおこるいろんな現象がキャッチできるんだそうです。そう、定番はナマズですね。地震がおきる前に、ナマズが騒ぐというのは、むかし、おじいちゃんから聞いたような。動物たちは、たぶん、あたりまえのように、このセンサーを活用して、自然とお話ししているのでしょうけど、人間の側から格好よくいえば、「生きるために備えられた生命維持システムのひとつ」、なのでしょうか。たとえば、スマトラ沖地震の象は、津波によって生まれる超低周波を感じとったのでは、といわれています。ふつう低周波というのは20ヘルツ程度の音というか、空気の波なのですが、ドドドっと、半分聞こえるような聞こえないような、気持ちの悪い音です。工場のボイラなどから発生して、低周波問題として住民訴訟にもなっているあれです。津波の場合は、これに超がつく。10ヘルツの音波で人間にはまったく聞こえないし、これを察知して、いち早く逃げるなんて、とうてい人間にはできません。
あっ、そうだ。そういえば、阪神大震災のときも、猫や犬が地震のおきる少し前に、いつもと違った動きをしていた、と聞いたことがある。実際、身近なところでも、わが家のニャンチャンが、あの新潟県中越地震の10分前に、妙に怖じ気づいたそぶりをして、部屋の片隅でうずくまって、心配したことがあったな。あれ、電磁波感じていたんだね、きっと。まあ、こんな話、あちこちでいっぱいあるんだろうな。
猫が、地震の前触れとなる岩盤の破壊によっておきる電磁波(ようするに電波)を、感じることができるのだ。この電磁波の波長がどのくらいで、とか、むつかしいことは専門家でないのでよくわからないけれど、ちょうどいま、インターネットで検索してみたら、3月20日に発生した福岡県西方沖地震の数日前に、電磁波(FM波)が急増している、と警告されている。すごいね、地震がおきるらしいということは、ある程度事前にわかるんだね、もう。でも、残念なことに、どこでおきるか、いつおきるか、がまだ判定できないらしい、
地震は、言いかえれば地球の息吹であり、永遠に地球が存在する限りは、逃れられない自然現象なのです。地球が生きている証拠といえるかも知れません。地球には、多くの自然が満たされ、人もまたその一員でもある。地球環境問題を考えるとき、この自然とのかかわりを抜きにしては絶対に成り立たないでしょうし、自然とのかかわりを考えるとき、動物たちの行動が、大きなヒントを私たちに与えてくれるような気がするのであります。「地球に優しく」とか「自然との共生」など、あちこちの広告やテレビコマーシャルやらで大合唱ですけど、どこまで自然とのかかわりを真剣に考えているのかな。
これからしばらく、この場をかりて、動物や植物の生まれながらにしてもっている、自然とのコミュニケーションの装置とでも言えるセンサーを通して、環境問題とともに、私たちはどこに行くのか、を考えていきたいと思っています。


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河内英司(かわちえいじ)
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京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
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