河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

BtoBコミュニケーション戦略

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(7/7)

9.CSRの前にGSRを!

 

CSR広告で社会に課題を提示し、自社の技術でソリューションをメッセージする。それこそ持続可能な社会の形成のために、将来広告の役割は予想以上に大きくなると思い描きながらも、何かしら喉の奥に小骨が刺さったような屈託を拭いきれない。

企業が社会的責任を果たすためにCSR活動に邁進するのは、前述の違和感がありながらもある程度理解できる。しかし最も大きな組織である国家の社会的責任に目を向ければ、首を傾げざるを得ない。国民への明確な説明責任が未だに果たされていない消費増税や原発問題を持ち出すまでもなく、前政権に見られた当初のマニフェストをことごとく反故にする国家。さらには緊縮財政や社会保障の大きな課題を生じさせる要因となった年金運用の失敗。国民が納めた粒粒辛苦の気が遠くなるほど膨大な額の年金を溶かしてしまった責任は、いったいどうなったというのだ。昨今のCSRブームの裏側に、国に社会的責任を果たす能力がないから企業が肩代わりせよ、とでもいうわけでもあるまい。

国は政府の社会的責任(GSR—-Government Social Responsibility)や政党の社会的責任(PSR—-Party Social Responsibility)こそが今全社会から求められていることに早く気づくべきだろう。

大きな組織に属する小さな組織や個は、大きな組織の価値観や風土に無意識的に支配されてしまうことは拙著「ASICAれ!」で記した。CSRをもっともらしく唱えながら、一方で国民の大多数が認めない政策を此れ見よがしに支持する財界を見れば、何か隠されたうまみでもあるのか、と勘ぐってしまうと同時にやはり冒頭に述べた胡散臭さが蘇ってくる。

またISO26000ガイダンスも、各国の主体性を失った統一によって当然のようにさまざまな問題を露呈し、今や全世界に厄介事を投げつけているEUが主導して策定したとなれば、その取り組みに少々二の足を踏んでしまうのも正直なところだ。あんただけには言われたくない、と。

GSRの果たされていない国家や世界にCSRが根付くはずはない。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(6/7)

8.クリエイティブにおける社会的責任

8-1.わかりやすい広告の落とし穴

CSR広告といいながらどうしても顧客誘引を目的としたくなるのが企業の性ではあるが、美辞麗句で飾り立てた広告にほとんど効果がないことは既に本書でも拙著「ASICAれ!」でも述べた。企業の説明責任のための広告なのだから、なぜその企業が社会に存在しているのか、社会に対してどんな役割を演ずることができるのか、をメッセージしなければならない。

さらにはASICAモデルで何度も紹介したように、最高のメッセージ広告は、今社会に存在する見えない課題を炙りだすことだ。そして自社独自の技術によるソリューションを提示する。この様式がこれからの広告の基本的なスタイルになると確信しているし、これこそがCSR広告ともいえる。

ところで広告のクリエイティブについてであるが、ここ数年徐々に質が低下してきているように感じて仕方がない。何がどうというのではなく、要するに感動しないのだ。メッセージ性が少なく変哲もないアピールだけが目につく。言い換えれば大変わかりやすい広告が増えてきている。だから感動しない。

最近よく耳にすることだが、広告はわかりやすくなければならないという風潮が大勢を占めている。企業の広告担当者が頭を悩まし練りに練った広告を役員会に上程した際、こんな表現ではわかりにくい、もっと平易な表現にしろ、と一喝されたことが一度ならずあるだろう。

今、学生の読解力が一昔前に比べてワンランク低下しているという。つまり現在の大学生は高校3年生並の読解力しかないということか。全てがそうとも思えないが、学生に限らず一般人も社会人もなんとなく心当たりはある。だから広告は誰にでも理解できるように平易な表現が望まれるのだろうが、ちょっと待って欲しい。

先に広告はその時代の文化を表す、といった。もとより文化には優劣はないが、できれば高品質な民度を維持したい、と思うのは広告人の端くれとして当然だろう。低レベルの層を基準に考えるのではなく、ある程度の知識と読解力を持つ層にふさわしい広告表現が文化形成にも国民の意識向上にも不可欠だと思う。

筆者の記憶に残っているテレビCMに富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」がある。さらに「ROPE & JUN」のCMにも感動した。確かその頃筆者は大学生であったと思うが、いずれもCMの意図はさっぱり理解できないながらも、なんとなく世の中が大きく変化しつつあることを感じ取ることができた。もっと遡れば小学生の頃なのか中学生の頃なのか定かでないが、旭化成の「ベンベルグ」の広告が妙に今でも心に焼きついている。当然広告の意味も商品も全く理解できない。しかしベンベルグ、ベンベルグという呪文めいたものが頭を駆け巡り、時代が大きく変わる予感を子供ながらに楽しんだ。

わかりやすい広告は確かにその場で理解されやすい。しかし一方で忘れやすいのも事実だ。

広告の意味をわずかな時間でも自ら探ろうと努力したものは、いつまでたっても記憶に残るものである。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(5/7)

7.最高のCSRメディアは広告。そして身近なCSR活動は広告

 

さてそこで企業の社会的責任についてもう少し慎重に見てみたい。

国連グローバル・コンパクト以前の問題として、企業には説明責任が存在する。すべてのCSRはこの説明責任が根幹となって展開されるべきだといわれている。企業が行う様々な経済活動は利害関係者に対する説明責任を果たしてはじめて社会から認められる。さらにいえば企業の存在そのものについて、その理由と社会に与える影響、つまり企業の存在意義を説明しなければならない。企業の説明責任というと、とかく不祥事を起こした際の謝罪も含めた経緯の説明と受け取られがちであるが、それはエンロン、ワールドコムなど企業の不祥事がCSR確立のきっかけになったことに起因している。

不祥事とは関係なく、企業が存在する以上、社会に対して自らの存在理由を説明し社会から同意を得ることが企業の永続的な発展につながってくるのである。

CSR報告書で説明責任を果たすことは十分可能だ。しかし常々感じていることなんだが、いったいCSR報告書は誰が読むのだろう?という疑問が頭から離れない。企業に対してCSR報告書を要求する人たちやWEBサイトのCSRページを閲覧する人たちがそのターゲットとなるのだが、あまりにも限定されてはいまいか。

同じ年次報告書でも、極端に限定された投資家をターゲットとするアニュアルレポートとは、本質的に異なる特性を持つと捉えるべきだろう。

社会に対する説明責任といいながら、限定された人々だけを対象にしていたのでは辻褄が合わない。社会全体をターゲットにするならCSR報告書のようなプルメディアではなくマスメディアを軸としたプッシュメディアが最適だと思う。ここでひとつ断っておきたいが、インターネット広告は一件プッシュメディアのように思われるが、パソコンという装置を介して訪問者の能動的な行為によって情報を得ることから、これはプルメディアと理解できる。

すなわち、企業の社会的責任の骨格をなす説明責任に最も適したメディアは、昨今のデジタル化の波で肩身の狭い立場にある「広告(新聞・雑誌・テレビ)」なのだ。今更広告の重要性を説いたところで時代遅れの感が否めないかもしれないが、じつは広告の機能にはCSRの要素が多く含まれていることにあまり気づかれていない。

これは広告そのものが、永らく商品宣伝やブランディングなど顧客吸引力を求めるために利用されてきたため、あまりにも商業主義的な匂いがするからだろう。

しかし一方で広告はその時代の文化を形成するとまでいわれている。広告を見ればその時々の文化がわかる、というのである。つまり広告には極端ないい方をすれば健全な社会と良好な文化を育成する機能があるともいえる。あまりにも行き過ぎた喧伝はプロパガンダとして危険な要素があるかもしれないが、独裁国家ならともかく、現在のわが国ではあくまでも広告主は企業であり、企業自らが社会を良くする手立てができるのだ。これこそが本当の、そして身近なCSRではないだろうか。

しかしながら昨今の不況で各社とも広告宣伝費は削減され、とてもとても営業に直結しない広告なんぞ手が出ないといった意見が予測できる。しかしよく考えてみれば、前述した雇用確保の放棄というCSRに反した行為が広告の世界でも起こっているとはいえないだろうか。

社会に対する説明責任のためのコストを削減する一方で、CSRを声高に叫ぶ矛盾。

それはともかく、不況は永遠に続くものではなくいずれ景気回復期がやってくる。広告は経費ではなく投資である。なので即効性は期待できず、その効果が現れるのは2~3年後だろう。このことから景気回復し安定成長に移行した際に効果をもたらすのは、意外にも不況時の広告展開であることもまた確かである。無い袖は振れないといわれるかもしれないが、今企業には膨大な内部留保が蓄積されているという。不況であるがゆえに金の使い道がないのだ。いうまでもなく金が回らなければ経済は活性化しない。景気回復のためにも各社挙げてCSR広告に精を出すことが、じつはもっとも現実的なCSR活動ともいえる。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(4/7)

6.企業の社会的責任を果たすために上場廃止した企業がある

 

ここでCSRの担当者なら誰もが知る企業の社会的責任についての象徴的な話題を紹介したい。

米国にあるジーンズの老舗リーバイ・ストラウス社(通称リーバイス)は1971年に上場し、古くから企業の社会性について独自の理念を持っていた。

1982年からHIV/AIDSの啓発と予防に積極的に取り組み、1991年に策定した「グローバル・ソーシング&オペレイティング・ガイドライン」は世界各国の製造請負業者や原材料調達先に対して、賃金、労働時間、労働条件、倫理など各種の条件に合致しなければ取引しないといういわばサプライヤー向けの行動規範であり、これは現在でもハンドリングされている。いうなればCSRの元祖だ。

ところがこのリーバイ・ストラウス社。1992年に児童就労の実態が明らかになった。普通の企業ならここで社長か誰かが記者会見し、誠に申し訳ない、以後気をつけます、で済ませてしまうのだろうが、リーバイ・ストラウス社はそうではなかった。それならばとまず現地に学校を作り、児童をきちんと教育し、就労年齢に達した時点で雇用する策を提示した。雇用の創出という社会的責任と同時に貧困層への雇用機会の促進といった地域社会への責任を果たそうとしたこの策に対して、株主から猛烈な反対があった。

学校を作って教育するような金があるなら配当に回せ、というのである。今でもどこかで耳にするような言葉だが、ここで当社がとった行動はLBOを利用したMBO(マネジメント・バイアウト---経営者による買収)によって上場廃止し、私有企業となったのである。

株主の金よこせ運動よりも企業の社会的責任を優先した出来事だった。

資本主義がもはや金融資本主義と姿を変え、企業の株式ですらマネーゲームのカードとされるなか、決して少なくない上場維持コストを負担してまで上場を継続する必然性を疑わせるとともに、企業としての矜持が社会的責任を果たす上での骨格となることを見せ付けられた。

ちなみに日本法人であるリーバイ・ストラウスジャパンでは、WEBサイトにCSRページもなければCSR報告書も発行していない。不思議に思って当社の広報に尋ねてみたところ、「グローバル・ソーシング&オペレイティング・ガイドライン」で厳密にサプライチェーンも含めて管理し、古くから社会的に不公正な立場にある人々を支援するなど、もはや企業の社会的責任は当たり前であり、取り立ててCSR活動をアピールするつもりはないとのことだった。これこそが本来のCSRだろう。企業の存在そのものが社会的責任と同義なのだ。冒頭に述べたCSRを絶叫すればするほど胡散臭くなる、とはこういうことだ。

さらに最近SRI(社会的責任投資)が騒がれだしている。CSRに熱心な企業に積極的に投資しようという触れ込みであるが、多くの場合ファンドを組成して投資を行うことになる。もとより企業の社会的責任は、直接的な利益を得るための営業活動とは一線を画している。

SRIがリターンを求めない政策投資なら理解できるが、金儲けの権化のようなファンドが純投資としてこれに関わることへ強い違和感を持つのは筆者だけではあるまい。IR同様にCSRがマネーゲームの手段になり下がるのでは、という危惧さえある。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(3/7)

4.社会的責任と社会貢献を混同してはいないか

 

そこで各社が行っているCRS活動に目を向けると、当然のことながらコンプライアンスは重要テーマとなっているが、多くの活動内容は企業活動の延長線上、つまり広義でのマーケティング活動や生産活動に類するものが主であり、加えていわゆる「社会貢献」事業をCSRとみなしている企業の多いことが伺える。

ここで企業の社会的責任と社会貢献について考えてみたい。

責任と義務は明確な区別はないが、いわば義務を果たさなかった見返りに責任が発生するとも考えられる。したがって責任の前に義務が存在すると考えて差し支えない。

そして企業の社会的義務とは、と見てみると、まず納税義務。法人として社会に存在するからには一般人同様に納税義務は発生するし、言い換えれば納税責任があるということだ。

次に企業である以上そこから生み出される商品やサービスの品質が一定の基準を保っていること。企業として継続的な発展を目指すならば、まず商品やサービスの品質は最重要テーマだろう。さらに取引先との適切な関係。これも企業活動の継続性確保には不可欠な課題である。しかしここまでは通常の企業活動ではごく当たり前のことであり、ことさらに高品質な商品を提供しているとか、税金を払っていますなどをCSR活動として取り上げるものでもない。

これらの義務が果たせなかった場合、企業の存続そのものが危うくなるものであり、企業として避けて通れない義務であり責任なのだ。

一方社会貢献活動はどうだろう。どこそこへの寄付とか地域社会に貢献するとか教育機関に関与するとか木を植えるとか。これらは極論をいえば特別やらなければならないものでもない。

つまり、企業の社会的責任と社会貢献の区別をするには、企業の永続性のためにどうしてもやらなければならないものなのかどうか、を考えてみるとわかりやすい。とはいうものの社会貢献を一切行わないというのも企業として世間の目が有り、一応取り繕っておきたい気持ちはわかる。

 

5.CSR大合唱と現実との矛盾

 

しかしここで重大な社会的責任が果たせていない企業が少なくないことも事実だ。

国連グローバル・コンパクトにある、「労働基準」の拡張解釈と継続的な社会のために最も重要な課題は「雇用創出」である。つまり企業という公器である以上、雇用は地域社会にとっても国全体の経済にとっても最も重大な企業の社会的責任である。この責任を果たさずにやらなくてもよい社会貢献に精を出すことは、いわば自らの責任に頬被りし世間体を繕っているとしか思えない。

今、わが国ではこの雇用の問題が大きくのしかかっている。企業業績の問題があるにせよ、業績回復時の優先的復職の担保がないまま、いとも簡単に人員整理や給与カットを日常的に繰り返す企業に、声高にCSRを述べる資格があるのだろうか。

じつは冒頭にCSRとはほとんど関係のないIRを持ち出したのには意味がある。

IRがヒステリックに取り上げられた時期、各企業は大きな分水嶺に差し掛かっていた。それまでの企業は何よりも顧客や取引先を大切にし、従業員を人財として尊んだ。企業それぞれに見合った福利厚生体制を持ち、終身雇用や年功序列といった世界的にも優れた企業システムがあった。そこへ米国式の企業統治のあり方がIRと名を変えてやってきたのだ。会社は株主のものという会社法に則ったもっともらしい論議によって、株主への説明責任とあわせて高額な配当を要求されるようになった。投資家にしてみれば、高額な配当を行う企業ほど社会的責任を果たしているとみなすということだ。この結果企業は配当の原資を確保するために、徹底して余計なコストの削減を余儀なくされ、業績が芳しくなければ固定費である人のコストにまで手をかけるという従来では禁忌となっていた手法が、日常茶飯の光景となったのである。

企業の社会的責任である雇用創出のために余計なコストをかけると、株主からそれでは配当が少なくなるから社会的責任を果たしていないとバッシングを受ける。いかにも米国流の解釈の仕方だろうが、いい方によれば米国流IRに現を抜かすことによって、企業は社会的責任を果たせなってしまうのだ。

株主は確かに企業のステークホルダーに違いない。しかしそれは極めて限定的であり、多くの場合短期的な投資による利益を目的としている。もし仮に長期的な企業の成長を共にできる投資家ならば、業績が悪くとも将来の糧を生み出す人財を捨ててまで配当を要求することはないはずである。仮に会社法云々のくだらない論議を認め、企業は株主のものとするなら、企業の社会的責任の裏側には投資家の社会的責任があるはずである。ということは、企業の社会的責任は投資家が優先的に負うことになるのだが、この点について投資家はどの程度の覚悟があるのだろうか。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(2/7)

3.グローバル・コンパクトから見たCSR

 

さて企業の社会的責任は、国連グローバル・コンパクトで提唱されている次の項目が根拠となっている。

人権

②労働基準

③環境

④腐敗防止

いずれも極めてシリアスな課題であるが、まず①については単一民族といわれているわが国では馴染みが少ない。一方出自などによる差別が未だに存在していることも事実であり、将来否応なく中国や韓国、東南アジアなどからの移民受け入れが促進されるとなれば、大きな悩みを生み出すだろう。

②は結社の自由、強制労働の排除、児童労働の排除、雇用と職業の差別撤廃が求められているが、主に児童労働については発展途上国のみならず貧富の格差が拡大した諸国では古くから重大な問題を提起している。強制労働や雇用差別に対しては、わが国では法令で厳しく制限されており、CSR以前の問題として各社ともこの課題には熱心に取り組んでいるところだ。

しかし結社の自由についてはどうだろう。確かに現在でも多くの企業に労働組合は存在する。しかし一昔のそれとは明らかに異なった様相を呈している。以前の労働組合が資本に対する労働者側の立場を適切に保全する砦であったのに対し、現在では資本と労働の間にいささか生ぬるい関係が否定できない。極端な場合会社の方針に異議を唱える組合活動に熱心な社員に対して、組合の力も及ばず不利な会社生活を強いる企業が少なくないのも現実だろう。

③の環境についていえば「地球温暖化防止条約」に基づいた温暖化防止のための脱炭素が現在の最大のテーマであるが、そもそも温暖化と炭酸ガスとの因果関係がある種の政治的・経済的な目論見による作為であるといった論議が大勢を占めつつあり、より慎重な科学的根拠が求められるところである。

むしろ「環境汚染・環境破壊」をなすことなく企業活動を継続することへの必然性がここでは重要なテーマとなる。地球温暖化防止条約と同時期に制定された「生物多様性条約」の拡張解釈によって、このミッションはより具体性を帯びてくるだろう。「省エネルギーや省資源・リサイクル問題」はCSRというよりむしろ利潤追求のための営業・生産活動の延長線上にあると考える。

④の腐敗防止はいわゆる賄賂の強要などを戒めたものであるが、これも法令で十分対処できる課題である。一方で東南アジアなどでは未だに、というより今後も更にビジネスにおける賄賂の必要性が切っても切れない難しい現実がある。しかしもし仮に日本企業が海外で賄賂罪を犯した場合でも、国外犯の適応を受け不正競争防止法や背任罪で処罰されることになるだろうから、ここでもわが国の法体制で対応できる。

こうして見てみると、要するにほとんどの項目はコンプライアンスの徹底によってカバーできるものと考えられるし、コンプライアンスは企業活動の根幹でもあるため、何も取り立ててCSRを声高に叫ぶ必要もないように感じられる。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(1/7)

.過ぎ去ったIRブームに見るCSRとの共通項

 

最近CSRという言葉を耳にするたびに、ある種の胡散臭さが感じられてしようがない。

ちょうど2002年ころだったか、突如としてIRブームが巻き起こった。いうまでもなくIR活動は投資家に対して適切な情報開示を行う説明責任のことである。多くの上場企業はそれを当然のこととして古くから取り組んできた。にもかかわらず、IRというあたかも新しい概念に乗り遅れると大変なことになる。こんな論調が散見された。極端なケースではIRを行うと株価が上がる、あなたの企業価値は本来株価○○円だが現在はその半分しかない、その原因は適切なIRをしてないからだ、といった半ば恫喝ビジネスまがいのIRコンサルタントもいたという。そして各社は、こぞって新しいIR活動に熱を入れることとなった。

その結果どうなったか。20034月から2007年春にかけて株価は指数で2.5倍近くにまで上昇した。個別企業では10倍以上の株価上昇を果たした企業も数多く見られた。ここまで見ると確かにIRによって株価が上がるといえるかもしれない。しかしその後はどうだ。2007年の天井を境に現在はほぼ出発点にまで戻ってしまった。ということは2007年から企業はIR活動をやめたということなのか。そうではないだろう。2007年以降もむしろより熱心にIRは行っている。投資家に対する説明責任を果たすために。

じつは筆者は1995年くらいからIR責任者も兼務していた。様々な証券会社にヒアリングしIRとは何なのかを研究するとともに、本当にIRが株価形成に影響を与えるのかどうか定点観測を行った。

1996年から3年間にわたって毎日十数銘柄の株価の動きとIRとの関連について観測し続けた。その結果得られた結論は、IRと株価はマクロでは連動しないということと、株価形成に大きな影響を与えるのは世界的な需給および個別銘柄の需給のみであることがわかった。と同時にその需給にインパクトを与える仕掛けとして株式先物市場の存在があることも。

わが国に株式先物市場が上場したのは1987年である。バブル真っ只中のこの時期、株式先物を利用して米国のヘッジファンドは膨大な売りを仕掛けた。そして1991年のバブル崩壊。件のヘッジファンドが多額の利益を手中にしたのはいうまでもない。世界的な需給をいち早く知った連中が、この金儲けのからくりを再び利用したのが2003年から2007年の指数上昇だと考えられるし、それにうまく便乗して一儲けしたのがIRコンサルタントだったのだろう。

昨今のCSRに半狂乱になっている社会動向を見ていると、どうしてもこのIR至上主義の時期を思い出してしまう。

 

2.ノブレス・オブリージュを自然に身につけていた伝統的な日本企業

 

少なくともわが国の伝統的な企業は、その存在理由を明確にするための説明責任や社会的責任をCSRという難解な言葉を持ち出すまでもなく実践していたことは、拙著「ASICAれ!」でも述べた。現在でも生き続けているであろうこれらの企業の社訓や家訓に、それが見て取れる。いわば日本版の「ノブレス・オブリージュ(社会的地位の高い人が自覚すべき義務)」として、当たり前のように社会に対する組織の責任を明示し、実践していた。

反面、世界的にCSRが叫ばれだしたのはエンロンやワールドコムなどの米国企業がもたらした不祥事がきっかけになっている。不正会計など社会を欺くこれらの行為の再発を防ぐために、コンプライアンスを徹底し内部統制を厳粛に行うことはCSRでも何でもない。企業として至極当然のことだ。それを取り立ててあたかも企業経営における新しい概念としてCSRを持ち出すのは、米国企業ならともかくわが国の企業には不似合いな気がしてならない。

拙著「ASICAれ!」で日本企業の特性として株式持ち合い制度や労働組合の存在、さらには年功序列や終身雇用などの制度が組織維持に欠かせない有効な仕組みがあったにもかかわらず、グローバリズムの大義名分のもとにことごとく放棄せざるを得なかったことを述べた。ちなみに株式持ち合い制度の解体によって放出された株式の大部分が米国のヘッジファンドに流れ、その結果多大な利益を供与したのはいうまでもない。つまり、本来わが国の企業が普遍的に大切にしていた社会的責任の通念を、CSRという一見新しい仕組みに組み直すことによって、またどこかの誰かが金儲けを企んでいるのでは、という気がしてならないのだ。

新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(5/5)

5.違和感がある最近のリクルート広告

 

広告では企業の根底に存在している思想や哲学から導き出されたメッセージを社会に向けて発信すべきだと述べたが、ことリクルート広告に関しては、まったく逆というか本末転倒の取り組みが未だに多く見られる。

リクルート広告はBtoB広告協会では完全なBtoB広告と位置づけている。
学生である人をモノにたとえるのはいささか気が引けるが、要は組織である大学や高校に所属する組織人としての学生を企業という組織が購入する、そのための広告ということだ。

ここで興味深いのはリクルート広告がBtoB購買プロセスとはまったく逆の様式を呈していることだ。つまり、本来なら売り手であるはずの学校が買い手の企業に対して広告するのがもっともなはずだが、現実には買い手側が広告している。

しかもほとんどの企業のそれが、自社がどれだけ素晴らしいかを、ヒステリックなフレーズを並べ立ててアピールしているのである。本来ならそんな美辞麗句はもう信じる人などいないはずだが、なんせ売り手にとってみれば多少いかがわしさが感じられても、自分を企業に買ってもらいたい一心で、とりあえずは信じるふりをするのだろうか。
 

ASICAモデルからリクルート広告を見るならば、まず課題探索。
これは売り手が買い手の抱えている課題を発掘するという意味からすると、学生側が企業について綿密な研究が欠かせない。ネットを利用したり企業訪問したりでバイトどころではない。ここでは企業側の飾り立てたメッセージなど何の役にも立たないはずだ。

そしてASICAのソリューション段階。学生自身がどの企業に対して得意とするソリューションを発揮できるのかを自覚する段階だが、このプロセスである程度自分の特性にあった企業に絞られるはずだ。今のようにとにかく何十社も面接を受けるなどは、言い換えればソリューションを持たない自分を好きなようにしてくれ、といわんばかりだ。
 

企業側にも問題がある。いかに自社の課題解決に役立つ人材を購入するかという観点から見れば、そもそも多くのリクルート広告に見られる自社アピールではなく、課題提供を行うべきだろう。
もっといえば、「我が社ではこのような課題がある。それを解決できない人材はいらない」とまで言い切ることも必要だ。採用試験に際しての面接官の役割も然りだろう。

日本BtoB広告賞の審査でいつも不思議に思うのは、応募される作品のほぼすべてに学生への媚びが見られることだ。なぜそこまして買い手が売り手に低姿勢になるのかよく理解できない。

こうした広告で惑わされ自ら確固たるソリューションの自覚もないまま入社したところで、永遠に自分の特性は発揮できないだろうし、その結果離職率も多くなる。
ただ企業としては色のついていない人材を思い通りに組織人化できるたやすさは、ある。
昨今の企業に突出した個性的な人材が見られないのは、案外このようなリクルートプロセスに問題があるのかも知れない。

前述の企業広告にしろリクルート広告にしろ、まず企業に眠る思想や哲学を社会にメッセージし、課題探索を社会に関与させることを忘れてはならないと思う。これはたとえリクルート市場が売り手優先になったとしても、矜持としなければならない企業文化の砦でもある。

新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(4/5)

4.ASICAモデルにおける広告の役割

 

ASICAのトリガーが課題探索であることはくどいほど述べた。
であるならば、企業としてもう一つの組織である社会に対してどのような取り組みが必要なのか、広告に絞って考えてみたい。

広告でモノを売る、企業を売る時代は終わったことはすでに何度かの拙稿で述べた。
そしてそれに替わっていわゆる企業広告は社会の隠れた課題を掘り起こし、国民にそれを気づかせる大役が待っている。
情報が過度に氾濫した今、企業の本当の姿を知ろうとすればいくらでも可能になった。
こんな中で声高に「私どもは世界でも優れた技術を持っていて、なんとかかんとか、すばらしい企業なんです」といった自画自賛広告はもう恥ずかしくてやる気にもならないし、たとえ広告したところでそんな美辞麗句は誰も信用しない。そんな時代だ。

つまりいわゆる「アピール広告」はもう過去のものとなりこれからは社会に埋もれた課題発掘のための「メッセージ広告」が主流とならなければならない。
「メッセージ広告」といいながらよく見てみると未だにアピールから抜け切れていない広告が少なくないが、そもそもメッセージというのは「見えない部分をわからせる」ところに真骨頂がある。

つまりアピールはオーディエンスに考える余裕を与えず広告主のいいたいことをそのまま刷り込むことを目的としているのに対して、メッセージはオーディエンスに考える余裕を持たせなければならない。
そしてオーディエンスから発せられた二次メッセージが広告主のメッセージに作用するという双方向性を有する。ここから社会に横たわった課題が徐々に際立ってくるのである。

ではどのようにしてメッセージ広告を企画すればよいか。企業には経営理念のもっと奥底に経営に対しての思想や哲学の核がある。その核を包み込むようにして経営理念が生まれ、経営理念によって企業風土が形作られる。そして企業風土がアピールの源泉(企業の癖)となるのだ。

哲学は昔も今も替わらないが企業理念は時代に応じて変える場合がある。流行に即するためだ。CIが流行った時代には多くの企業で創業の哲学は蔑ろにされ美辞麗句の企業理念がアピールされた。
人間でいえば哲学は心や人格であり企業理念は化粧である。そして多くの人前で振る舞うことがアピールと理解できる。で、そんな厚化粧のまやかしはもう誰も信じない、となった。企業の「心」を真摯に社会に対して示すこと。これがメッセージなのだ。

アピール広告とメッセージ広告

したがってメッセージ広告を企画するに当たって最も重要なのは、いったん世の中の流行や異説は忘れて企業自ら社会に対して独自の意見を述べることだろう。
そのためにはまず自社の心が何なのかを知ることから始めなければならない。十人十色というように企業にもそれぞれの特色がある。その結果メディアを通じたメッセージ広告によって、社会にはさまざまな意見が飛び交うようになる。

今のようにどの企業も似たような広告、という不思議な現象もなくなる。もちろんオーディエンスから同意されないメッセージや敬遠されるメーセージもあるだろうがそんなことは気にする必要はない。決して社会に媚びることなく企業独自の意見を発すること。これがメッセージ広告の根幹になる。
 

広告に携わっておられる読者ならすでによくご存じだと思うが、放送禁止や掲載禁止になったCMや広告が少なからずある。
もとより広告制作クリエイターは日頃から広告倫理規定を熟知しながら対応している。それにもかかわらず、くだらない言葉狩りや過剰な良い子主義のあおりで致し方なく日の目を見なかったのだろうが、中にはどうしてこんなすばらしい広告が、と思う作品もある。

その多くは紛争や戦争をモチーフにしたものである。たとえば子供が銃を抱えた映像があるだけで、子供に銃を持たせることを容認している、だから広告としては許せない、という短絡思考が生まれるらしい。
子供が戦士として否応なく駆り出されている国が現実に存在しているにもかかわらず、だ。

白い犬が喋っても、犬が喋るわけがないそんな広告はおかしい、と目くじらたてるわけでもなく単純に受け入れる一方で、現実にある負の光景を見せることに躊躇する。
最大の環境破壊や社会崩壊の要因である紛争が大きな課題であるならば、それをテーマにした広告は平和ボケした我が国でこそ価値があると思うのだが。
メディア側の広告倫理規定をはじめ、企業側の神経質なくらいの事なかれ主義や臭物蓋体質は、これからの広告のありかたに重要な課題を提示しているように思う。メディアや広告主こそまずASICAの課題探索から始まって、将来の広告を見直さなければならないのかも知れない。

 

新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(3/5)

3.閑話休題。フェイスブックの隠れた潜在力(2/2)。

 

そこで二つ目の機能。文字入力など面倒なことは一切する必要なし。
独居老人問題の最大の課題は、今現在の健康状態や精神状態がどうなのか、である。それを別の手法で満たせばよいのであり、そのための機能開発が重要になる。

たとえば、トイレのドアを開けたら自動的にフェイスブック上にマーキングされるとか、玄関のドアを開けたら「外出」欄にマーキングされるなどいくらでも方法はある。
したがってフェイスブックのスタイルシートは主に二種類必要となる。従来のタイムラインに加えて「行動監視チャート」が新たに加わるのだ。


今までも似たような仕組みは確かにあった。ポットの電源を入れるだかお湯の量が減るだかしたらあらかじめ設定した人のところに連絡が行って、安否が確認できるという類がそれだが、あくまでも連絡先は身内や親戚に限られる。
身内に面倒を見てもらってはいるがあまりにも狭い範囲での監視体制では少々心許ない。重要なのは地域社会で面倒を見たように、いつも誰かが看てくれているという安心感だ。

それがフェイスブックでは可能になるかも知れないのだ。ただし前述のドアと連動した安否シグナルの送信と表示など、まったく新しい技術やアプリの開発は必要となるが、それもまた新たなビジネスチャンスと受け止めることもできるだろう。

そこでここまで書くとまた否定的な意見も推察できる。個人を「監視」とはどういうことだ。これは国民監視、さらには監視社会につながるのでは、とか、個人情報がどうがこうだでプライバシーの問題など。しかし今現在の重要課題を解決するのに、しかも人命に関わるような大きな課題解決のためには法律もへったくれもないだろう。法律にあわなければ法を変えればいい。


さらにデジタルデバイドの観点から見れば、今後音声入力や特定のボタンを押すことで安否シグナルが送信できる簡便さが必要になってくる。
専用リモコンの赤ボタンを押せば「ちょっとやばい。助けてくれ!」のシグナルになるとか、青のボタンなら「今日も元気だ。安心してくれ」というふうに。

老人向けFB画面

ディスプレイもパソコンでは敷居が高すぎる。普通のテレビをインターフェイスにした方がいいし、通常番組とフェイスブックの二画面同時表示がもっとも好ましいだろう。
つまりフェイスブック専用のテレビ、ということだ。こうすれば、老人のお友達仲間全体で誰が今どんな状況にあるのかをお互いに把握しあえる。

これはまさに地域社会そのものではないか。また監視の話になるが、もっと言えば行政がこれに荷担して複数のフェイスブックサイトを監視し、適切なアドバイスを記入してもいいし、赤ボタンが押された場合にのみ行政にアラートが出る仕組みにしてもいい。
フェイスブックを単に新しいメディアとするのでなく、社会インフラの一つとして捉えることだ。
 

で、こんなフェイスブックを立ち上げたところで何のビジネスにもつながらないじゃん、といったお決まりの経済合理主義が頭をもたげてきそうだが、どうしてどうしてここは将来最大の組織である老人社会そのものであるから、考えようによっては効率の良い老人マーケットと考えられる。
したがってスポンサー欄には現在のような訳のわからない広告ではなく、介護やホームヘルパー、出前、老人向けカルチャースクールなどいくらでもスポンサーは見つかる。
 

話はずれるが筆者は1997年に「マーネット」という概念を提唱した。数年前まで筆者のセミナーを受講された方にはそのさわりを紹介していたと思うが、要はリアルなマーケットが将来ネット上に形成される時代が来る、ということだ。
 

老人向けフェイスブックが軌道に乗れば、独居老人の悲劇もある程度回避されるだろうし、意外にも早々とマーネットが現実のものとなるのか知れない。
 

閑話休題と言いながら長々と書き綴ったが、BtoBコミュニケーションは組織対組織コミュニケーションであることから見ると、単にビジネスに直結したテーマだけでなくこのような最大の組織である社会が抱える課題解決も気にとめていきたいという思いからあえて紙幅を割かせていただいた。

新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(2/5)

3.閑話休題。フェイスブックの隠れた潜在力(1/2)。
 

ここでBtoBマーケティングとはまったくかけ離れるが、社会にとって重要な課題なのであえて提言しておきたい。
 

ASICAモデルのトリガーが「アサイメント(課題探索)」であるとした。
今、社会にとっての最大の課題は何かを考えたとき、どうしても見逃せないのが高齢化社会における課題であろう。とりわけ独居老人問題の悲劇的な報道を目にすることが最近少なくない。それとは裏腹に、むしろ社会における致し方ない暗部として認識され、遅々としてその解決策は進展していない。

数十年前は家族だけでなく地域社会が当たり前のように老人の介護に取り組んでいた。しかし現在はもう地域社会などあってないようなもの。いわば独居老人問題は地域社会の崩壊を意味すると理解できる。
この重大な課題を抛っておくわけにはいかないが、かといって以前のように地域で面倒を見るというのもここまで人と人のつながりが希薄になった今、もはや現実的ではない。ここでフェイスブック登場。

すでに今までBtoCと思われていた社会でも組織化が進みつつあると記した。
フリーターや若年層の独特な組織形態はともかく、現在もっとも大きな組織は定年を迎えた団塊の世代である。
企業という組織から離脱した後も無意識のうちに団塊世代は共通した価値観を持つ組織の一員として君臨する。マーケティングの一面から見れば、購買余力の点からも魅力ある組織ではあり、今後シルバー世代に対するマーケティングアプローチが盛んになるだろうが、一方で前述の独居老人予備軍でもある。

とかく金儲けに直結しない施策は後回しにされがちであるが、社会の大きな課題がここにあるとすれば、その解決に向けた対策は見過ごせないところだ。

 独居老人や介護老人のケアを以前は地域全体で行うことがありふれた日常であった。その地域社会の概念が希薄になりこれらの問題が白日の下にさらされてきたわけだが、それならばもう一度地域社会を復活させては、という思いが生まれてくる。

リアルな世界での地域社会復活が現実的でないとするなら、いっそのことフェイスブックでそれを構築すればいい。

今まさしくフェイスブックではお友達社会という新たな組織があちらこちらに出現している。これをそのまま老人社会に置き換えればすむ話だ。

つまり、気心の知れた老人同士のコミュニケーションの場としてフェイスブックは有効性を持つ。この場合、フェイスブック上では二つの機能が考えられる。
一つは現在主流となっているタイムラインに対応したコミュニケーションの場である。いわばこれは老人ホームの談話室的な機能だろう。「今起きた」とか「元気です」とか「どこどこへ行ってきました」などを自由に書き込めばそれだけで対象の状況が把握できるし、老人同士のつながりも生まれてくるだろう。このつながりが独居老人の悲劇を回避させる有効な機能を持つ。

しかしここまで読まれた読者の中には、多少なりとも違和感をもたれている方が少なくないと思う。キーボードもろくに扱えない老人にそんなことは無理だろうとか、外に出るのも億劫な人がわざわざパソコンに向かって四六時中文字入力するのかいな、など。
いわゆるデジタルデバイドの問題がここで大きく立ちはだかることになるのだが、それはそれで新たな商品開発やサービスのきっかけになることも忘れてはならない。

 


新BtoB社会におけるコミュニケーションとASICAモデル(1/5)

1.CGMが促進する社会の組織化
 

 ツイッターやフェイスブックが花盛りだが、このようないわゆる個人が自由に情報発信するCGMが社会における新たな組織化に強力に作用している。

個人ブログも含めておそらく読者の皆さんも某かのサイトを定期的に閲覧、書き込みをされているだろう。そして人それぞれが特定のサイトをブックマークしている。
あくまでも仮説であるが、仮に「A」「B」「C」のブログやツイッターに関与している人と「D」「E」「F」のそれに関与している人とでは微妙に価値観や生活観が異なっていると思われる。
人は自分に似たようなパラダイムを持つ人や意見に無意識のうちに吸引される。そして知らず知らず仮想の組織化がなされる。つまりCGMが社会における新たな組織化を促していると言うことだ。しかも関与しているそれぞれの人は互いに相手の素性を知らないままである。
ブログなど実名で公開されておればある程度ブログ主の素性はわかるが、それに参加する閲覧者同士は全くの赤の他人であるにもかかわらず、妙な連帯感がわいてくる。
 

CGMによる組織化には二通りある。一つは匿名であるツイッターや実名匿名さまざまなブログに群がる形態。もう一つは実名やプロフィールをさらしてそれこそお友達として承認された人だけが参加できるフェイスブックだ。
我が国ではまだフェイスブックはツイッターに比べて人口比で見る利用者は半分程度と言われているが、おそらく近いうちにその数字は拮抗してくるだろう。ツイッターやブログによる組織化が無意識のパラダイム共有であるのに対して、フェイスブックは能動的で堅固な組織化が可能になると思われる。
いずれにしても、ネット社会における仮想組織(フェイスブックは現組織ともいえるが)は今後ますます助長されていくだろうし、マーケティングの側面から見てもこの新たな組織化は重要な課題をもたらすはずである。

 

2.フェイスブックの可能性

 

実名や所属、趣味など個人のプロフィールを明確にした上で組織を形成するフェイスブックは、まだ未確認ではあるがBtoBマーケティングに大きな効果をもたらすと考えられる。
現状を見てみるとまだまだツイッターとの差違が明確ではないが、字数制限もなく実名であるが故に個人のメッセージを強力に発信できるメディアは、考えようによってはBtoB企業での顧客訪問や顧客を巻き込んだコラボレーションの可能性すら見えてくる。

筆者はASICAモデルの最終段階である「購買」でのメディア展開で、顧客の囲い込みにプライベートサイトの構築やビジネスSNSの有用性を説いたが、もしかするとフェイスブックでこれらをひとまとめに対応できるかも知れない。
たとえばある営業担当が自分の抱える顧客をお友達として承認しフェイスブック上で通常営業を行うことや新製品発表が可能になる。とりわけ新製品に関してはその感想やアプリケーションなど逐一複数の顧客とやりとりすることも可能だ。

ここで興味深いのは、ある顧客から提示された課題が別の顧客によって解決されたり、また新たな課題提供のきっかけになる見込みが考えられることだ。これが進化すれば顧客とのコラボによる新製品企画のトリガーになるかも知れない。
つまりASICAモデルの課題探索段階はもとより、その後の検証や同意段階もある程度は有効性が生まれてくると思われる。しかし、営業担当によるあまりにも辛辣な売りの姿勢はかえって顧客に辟易されるだろうし、顧客側もどこまで本音を言っていいものやらまだしばらくは助走期間が必要だろう。フェイスブックという新たなBtoB営業ツールを使いこなすためのリテラシーが、ベンダー側でも顧客側でも求められるのだ。フェイスブック自体もまだまだいわゆるBtoC社会でのコミュニティメディアとして位置づけられているが、将来、BtoBビジネスに特化した仕組みやアプリが開発されれば大化けする可能性のあるメディアと考える。
 

さらに同じような観点で、インターナルコミュニケーションのツールとしても見逃せない。部署ごとにアカウントを設定して当該部署の所属員をお友達とすればいい。こうすれば部員の行動把握はもちろん場合によっては日報のアーカイブとすることも可能だろう。もう一歩進んで勤怠管理アプリなどがあれば、もうフェイスブックひとつで部員の管理は万全になるかも知れないし、タイムラインでのコミュニケーションを通じて、部内におけるASICAモデルの課題探索からソリューション提案、検証、同意までがカバーできる可能性はある。

新BtoB社会の到来とマーケティングの行く末

昨年チュニジアのジャスミン革命に端を発した北アフリカの民主化運動は、BtoB社会のこれからのありかたを見る良い機会だった。ソーシャルメディアが急速に普及しながらも、それが企業あるいは国民一人一人にどのような影響を与えるのか、明確な結論を得ない中でおこったこの事件は、Twitterなどが持つメディア力をまざまざと見せつけた。

まったく面識のない人々同士がTwitterを触媒としてあたかも一つの頭脳を持ったような行動パターンを誘発する。この現象は独裁国家のみならず一応民主的だと思われている我が国も含めて、先進諸国でも最大の組織である国家の運営において大きな課題を投げかけた。ここまで行かなくてもすでに我が国ではBtoC社会が崩壊し、新たなBtoB社会が到来しつつあることを機会あるごとに述べてきた。

「個」の組織化(BtoB化)を行う触媒となるのは何もTwitterだけではない。あらゆるメディアが交錯している現在、しかもCGMといわれる誰もが情報発信できる仕組みの中では、個人個人が無意識下で特定の思想や見識に誘導される可能性は十分ある。原発事故後のマスコミ対応とは裏腹にCGMによってさまざまな情報が公にさらされ、その真偽が問われているが、今となってはどうもCGMに分がありそうだ。

マスメディア全盛の時代は、良い意味でも悪い意味でも世論誘導は比較的簡単だった。一時期話題になった劇場型政治などその典型だろう。しかしCGMが今後ますます普及することを考慮すると、もはやマスメディアによる世論誘導はまったく不可能になる。それがマスメディアの信頼性低下につながり、替わって人々は独自に構築した自分だけのネットワークにある情報だけを頼りにする。こうしてさまざまなネットワークにつながれた見ず知らずの人たちが、無意識下で組織化されてしまうのだ。もうすでに若年層では携帯ネットワークなど極めて強固な組織が出来上がっている。

こうなればBtoC分野では今までのような「個」の価値観を重視したコミュニケーション活動はほとんど効力がないと考えて良い。最近広告が効かないとかものが売れないという声を耳にするが、すでに社会全体がBtoB化し、個の意識が希薄になりつつあることを考えれば当然とも言える。

メディアの多様化に伴い縦横無尽に生成される虚構の組織化、つまりBtoB化がすでに始まっている。ここでは純粋な個の意識はさして重要ではなく、組織化された個がどのような意識を持つのか、が今後広告やマーケティング分野での大きな課題になる。何とも頼りないあの人が、どうして国をひっくり返す闘志を持ったのか、など群衆心理の研究は、BtoBコミュニケーションの魅力あるテーマだ。
こうなるとBtoBマーケティング分野では今までのように経営学一辺倒ではなく、社会心理学や組織心理学、さらには個と組織を絡めた精神分析学などの学際的な取り組みが求められてくるだろう。

宣伝力変革の時代 (5/5)

⑤インターナル・マーケティング。

高気圧型で広告の変革を。

組織間のホスピタリティを実感できる身近な方法がある。「インターナル・マーケティング」は社内の様々な部署を顧客と見なして対応する活動だが、ここにホスピタリティの概念を持ち込むのだ。「相手に喜んでもらう」ことを前提に全ての業務に取り組むが、重要なポイントは喜んでもらう相手部署は必ず自部署よりも外側、つまり顧客や社会に近い部署であることだ。

最も外側に位置するのは言うまでもなく営業やサービス・広報部門である。その内側にある開発・製造や販促部門は、営業に喜んでもらうために力を尽くす。さらに内側の総務・人事や経理部門は、開発・製造や販促部門に対してホスピタリティを提供すると言う具合になる。

では会社の中枢にいる総務・人事や経理部門はどこからホスピタリティを受けるのか。経営トップからである。トップを頂点にして企業の外側の部門に対してホスピタリティが広がって行く様から、このスタイルは「高気圧型ホスピタリティ」と呼べる。

一方でこれが逆になっている企業を目にする機会が少なくない。社内交渉に手間がかかるとか、顧客をさしおいてまず上司や社長のご機嫌を伺う企業風土は、ホスピタリティの流れが外側から中心の上部に向かう「低気圧型ホスピタリティ」である。組織同士の関係を良好に維持して行くためには、常にホスピタリティの先端が社会に接している高気圧型がよい。

しかし広告の現場で興味深い事実がある。多くの企業は広告計画に際し、役員会などに上程しご意見を伺うことがあるが、これこそが低気圧型なのである。自社の役員よりも顧客や社会からの評価の方が重要なのにもかかわらず、低気圧型を維持せざるを得ない難しさが企業論理としてある。

低気圧型の組織はいずれ社会から孤立する様に、こうして作られた広告は顧客などお構いなしに、社内だけが盛り上がっているという奇妙な現象を生むこととなる。広告担当は、まず顧客や社会に視点を置き、徹底的に課題探索をした上で自信を持ってソリューションをメッセージすべきであり、内向きのご意見伺いは無意味だろう。

ネットを始め多様なメディアが乱立する今、宣伝力の変革が求められとかくメディア論や広告手法に矛先が向かいがちだが、その前に広告主はトップを頂点に顧客や社会に向かって、ホスピタリティを送る高気圧型の企業風土に変革すれば自ずと広告も変わる。その糸口がインターナル・マーケティングにある。

インターナルマーケティング
 
 

宣伝力変革の時代 (4/5)

④ホスピタリティ・マーケティング。
喜ぶ広告、喜ばれる広告。
 

B2Bは企業や組織同士の係わりを示すが、この関係を良好に保つキーワードがある。「ホスピタリティ」だ。ここでのそれはサービス業で言われている「もてなし」とは異なり、単純に「相手に喜んでもらう」と理解したい。ASICAモデルでの課題探索もソリューションの提案も、最後の段階である購買後のフォローも、難しい理屈は抜きにして顧客に喜んでもらうことを念頭におくとわかりやすい。

ASICAモデルでホスピタリティが最大に生かされるプロセスは「解決の提示」だが、そのメディアとして展示会が有効であることはすでに述べた。しかし、最近の展示会では決してホスピタリティを要に取り組んでいるとは思えない光景に出くわす。似たようなタイプの営業担当による画一的で形式的なプレゼンテーションは、展示会に限らず通常の営業でも辟易とすることがある。相手の特性や隠れた課題を真剣に見極めて、最適なソリューションを顧客ごとに提示する気配りが不可欠なはずだ。

今、各企業とも社員研修には熱心だが、それによって画一的な人材を大量生産し、結果として顧客の心に響かない形式化されたメッセージを乱発するのでは本末転倒だろう。昔の様な「泣き落とし戦術」「ダボハゼ戦術」「スッポン戦術」など多様な営業スタイルとまでいかなくても、スマートさより個性を重視するプレゼンテーションスキルが求められる。
これは広告でも同じことで、他社に横並びのメッセージではなく、顧客に喜んでもらえる独自のソリューションを提示するために、前稿で述べたプッシュ型とプル型の特性を生かしたクロスメディア戦略が重要になってくる。

ホスピタリティは通常営業はもちろんだが、広告分野では展示会やカタログメディアで際立った効果を見せる。例えば、ASICAの検証・同意段階で顧客ごとに異なったカタログや、最高決裁者であるマネジャー・経営者向けのカタログなども、今ではオンデマンド印刷によって低コストで作れる時代になった。

もともと家庭を最小単位としてコミュニティを形成し、それに深く浸透した商店を軸に、御用聞きなど独自のビジネスモデルでB2B社会として進化した我が国は、ユニークなホスピタリティ概念を持っている強みがある。マーケティングでも広告の分野でも、もっとホスピタリティを注入できれば、感動的で説得力のある広告に生まれ変わるだろう。自分や社内が喜ぶのではなく、顧客や社会が喜ぶ広告創りを目指したいものだ。

ホスピタリティ
 

宣伝力変革の時代 (3/5)

ASICAモデルの提唱。購買プロセスと広告。

広告人の間でAIDMAは消費者の購買心理モデルとしてよく知られている。しかしアテンション(注目)を第一段階とするこのモデルは、過度に情報が錯綜した時代にはそぐわない。いかに目立とう興味を引こうとしても、溢れる情報の中でオーディエンスはアテンションする暇もない。むしろ多様な課題を抱えた今の時代では、素直に課題に気付かせるメッセージが広告に要求される。ノイズとしての情報には無関心だが、潜在的な課題に対するソリューションには敏感だ。これはB2BB2Cも変わらない。

このような課題優先の時代を迎えて、広告戦略の手だてとなる新たなモデル「ASICA」を提唱したい。AIDMAのアテンションに代えてアサインメント(課題)をトリガーとするこのモデルは、次の段階がソリューション(解決)となる。広告において課題提示とその解決策の提案が重要なことはすでに述べた。三つ目の段階はインスペクション(検証)だ。商品の購買においてこの検証段階は無視出来ない。

とりわけB2Bでは購買候補商品が自社にとって有効かどうかの判定に複数の部門や人が関わっており、それぞれの立場を持った人に商品の課題解決能力をアピールしなければならない。ちなみにB2Cでこの段階をスキップするのがいわゆる衝動買いである。今、検証段階でもっとも有効なメディアはWEBサイトだ。他社製品との機能や性能比較などの情報を能動的に取得してもらうには、いわゆるプル型のメディアが不可欠となる。検証段階をより優位に保つためには、当該商品のアプリケーションも含めてできる限り詳細な情報を自社サイトにアップしておくことが肝要だ。

次の段階は最もB2Bらしいプロセスであるコンセント(同意)だ。企業内での商品やサービスの購買に当たって、多数の同意を得ることは稟議を通す儀式でもある。同僚はもちろん上席者や購買部門、経理部門、場合によれば社長の同意も必要になる。同意段階で有効なメディアは新聞広告などのプッシュ型メディアである。多様な階層をターゲットに当該商品より企業ブランドを浸透させ、同意形成を有利するためのブランド広告は有効だ。

そして同意を得て最終的にアクション(購買)に結びつくことになる。このようにB2Bの現場ではASICAの各段階で多様な人や組織との関わりがありターゲットは異なる。 ネット広告信奉も良いが、プル型とプッシュ型を組み合わせ、ASICAモデルに対応したメディア戦略が、本来のクロスメディアだろう。

ASICA





宣伝力変革の時代 (2/5)

②課題社会の広告。「売る」から「売れる」へ。


前稿で展示会の機能が顧客の課題解決の場にあるとした。
ここでいう課題とは従来広告分野などでよく唱えられてきたニーズやウォンツとは異なった概念である。ニーズやウォンツはいわば欲望がもたらした「今、そこにある必要性」とでも理解できるが、課題(アサインメント)は「これから直面するであろう問題」といえる。場合によれば顧客ですら気付いていない将来の問題である。

ここ十数年で飛躍的に進歩したIT技術やそれに伴う情報量の急激な増加によって、もはやニーズやウォンツは十分に満たされ、替わって今までは表に出なかった潜在的な課題が問われるようになった。食欲などの原始的な欲が飽食の時代を経て満たされてくると、今度はダイエットやメタボ防止、健康食が注目されるように、文明社会では欲やニーズの充足が新たな課題を生むことになる。

最近広告が効かなくなったといわれるが、広告そのものに問題があるのではなく「今そこにあるニーズ」をキャッチコピーにしたところで、広告が陽の目を見る頃にはオーディエンスの意識の中ではすでにそのニーズは陳腐化し、新たな課題を抱えているから届かないのだろう。それほど時代は速いテンポで移り変わっている。顧客企業が抱える課題発掘と解決策の提案は、BtoB分野ではごく当たり前のビジネススタイルであった。

しかし急速な技術革新の最中にあって徐々にその手法も崩れかけ、BtoC分野では心変わりの激しい一般消費者の目先のニーズを追いかけるあまり、個人や社会の奥深くにある課題を見つけるノウハウが育っていないのかも知れない。課題の探求には多くの周辺知識が要求される。顧客企業との綿密なコミュニケーションはもちろんだが、むしろ顧客のコンサルタンシーとしてのナレッジマネジメントが不可欠になってくる。

ドラッカーは究極のマーケティングは「売れる仕組みを作ることである」といった。「売れる広告」と「売る広告」とは異なる。広告の分野で周知のAIDMAモデルにおけるアテンションやインタレストを重視して、ひたすら自己PRする広告は「売る広告」である。「売れる広告」とはBtoBBtoCに限らず顧客が将来遭遇すると予測される課題を提示し、その解決策(ソリューション)を提案する広告といえる。
高度経済成長期に端を発した欲望社会が終焉し、技術革新と情報過多による様々な問題に取り囲まれた課題社会を迎えて、広告もそろそろイノベーションが必要なのだろう。

ニーズとウオンツ




宣伝力変革の時代(1/5)

①展示会が変わった。潜在顧客の発掘の場に。

10月ともなれば展示会シーズンたけなわで、マーケティング担当にとって最も多忙な季節だ。しかし昨年来展示会への出展を縮小する企業が多くなった。昨今の経済危機がその主な要因であるが、最も大きな理由は展示会への客足が遠のいたことにある。

「客が来ないから出さない」一見大義名分と思われるこの背景には、ネットの普及による展示会メディアの機能的な変化が隠れている。従来展示会は新製品発表など広報の場としての機能が優先されていた。しかしWEBサイトの活用で広報機能を持った展示会は衰退し、新たに別の機能を持ち始めた。顧客が抱える「課題」を解決する手段として実機を前にしたソリューションが提示できるメディアは展示会以外にない。展示会メディアは情報発信という広報機能からソリューション提供という顧客に対するいわばホスピタリティ機能へと変貌したのである。

もう一つ展示会に見逃せない特性がある。メールやWEBなど顔の見えないコミュニケーション形態が主流である現在、展示会だけはフェースツーフェースコミュニケーションが実現できる希有なメディアである。これに気付かない多くの企業は、客が来ないから出さないというが、自ら出展して客を呼ぶ姿勢が過剰なネットメディアの依存によって欠落してしまったのだろうか。

企業はそれぞれ膨大な見込み客(潜在顧客)リストを持っている。この見込み客に一人一人地道に声をかけ、展示会への集客を促しそこで有能な説明員(技術者)によるソリューションを提示する。これがホスピタリティマーケティングの第一歩と言える。いつまでも主催者の集客力に甘えるのではなく、自らの力で集客しなければならない。客が来ないと言って展示会に出さない企業でも、相変わらず通常の客先訪問には熱を入れているのだから。

米国の展示会リサーチ会社のデータでは、展示会営業は通常営業とくらべて2倍以上のセールス効率があるという。質の高い見込み客を招くことが前提であるならこの数字は当然だろう。WEB全盛の今、フェースツーフェースメディアとして展示会は今後もっとも注目できるメディアでもある。にもかかわらず展示会を衰退させているのはネットメディアの進化でも主催者の怠慢でもなく、出展企業の見当違いなマーケティング戦略によるものかも知れない。客が来ないから出展しないのではなく、客を呼ぶために参加することが、マーケットそのものを活性化することになる。

 

展示会



ASICAモデルからみた展示会の可能性(8/8)

12.ASICAモデルとこれからの展示会


BtoBコミュニケーションの過程であまりメディアの関与がない「I:inspection検証」や「C:consent同意/承認」のプロセスにおいても、展示会は有効だ。顧客企業の担当窓口との間で一通りの商談を済ませば一段落ではあるが、じつは顧客企業側ではその後の検証作業(製品の導入効果)や同意形成(決裁者による承認)プロセスが残っている。ここで十分なフォローがないと、一発逆転で他決してしまうことすらある。もし商談途中の案件があるなら、顧客企業の担当窓口だけでなく、上位の決裁者などを展示会に招くことも商談成立に効果がある。


ASICAモデルの最後の「A:action(購買/行動)」レベルでは、展示会は顧客の囲い込みに大きな役割を果たす。商談が成立した以降も次の商談に繋がるように、常に展示会に招いて課題探索を行う仕組みづくりが重要である。顧客は次の見込み客であることと、従来顧客の囲い込みよりも新規顧客の開拓の方にはるかにコストが掛かることを考えれば、むしろ展示会は従来顧客(将来の見込み客)のために用意されたホスピタリティの場と言えるのである。
 

BtoBの購買プロセスとASICA

今後さらなるネットの進化によって、BtoB分野においてもSNSやツイッターなどのソーシャルメディアが台頭してくるだろう。とかくこれらの目新しい手法に目が行きがちであるが、その根底に潜む要因にも目を向ける必要がある。インターネットが普及し、WEBサイトやブログで誰もが情報受発信することが可能になった後、SNSやツイッターが出現したことは、メディアがどんなに進化しても、最終的には人々が「対話」を求めていることを意味する。さらにSNSなどで、匿名ではなく実名でのディスカッションの重要性が議論されていることを考えれば、いずれリアルなFace to Faceコミュニケーションのありかたが再認識されてくるだろう。

そんな中にあって「接触メディア」として特異な性格を持つ展示会は、 Face to Faceマーケティングにおける将来もっとも注目されるべきメディアだと考える。
このように書けば昔返りのように思われるかも知れないが、文明は螺旋階段のように進化し、その過程で幾度となく原点回帰を繰り返すものである。

ASICAモデルからみた展示会の可能性(7/8)

11. 展示会効果の捉え方と効果測定例


さて、ここで展示会の効果測定についても考えてみたい。展示会の最終的な目的は「受注拡大(受注確保)」にあるだろうが、それ以外にも展示会は様々な機能を保有している。集客ありきの考え方も、展示会を広告媒体として見るなら否定はできない。要は、展示会を「広告媒体」として捉えるか「営業の場」として捉えるかによって、その効果に対する概念は変わってくる。


展示会には多くの来場者があり、当然そこではブランドの露出が行われ、認知度向上の効果がある。また、ブース内で顧客や見込み客とのコミュニケーションやソリューションの提示を通じて、顧客満足度の向上や需要創造の機会もある。展示会効果測定において、明確に数字として捉えることができるのは、「投資コスト」「来場者数(自社ブース・会場全体)」「商談額(受注額)」となる。これらの数字を用いて展示会効果測定の基準を作ることになるが、この数字以外の見えない効果、つまりブランドイメージやすぐには受注には結びつかないが、好意的な受注予備軍をどのように取り扱うかが課題として残る。

展示会効果測定の一例(1)
展示会効果測定の一例(2)

ここで端的な展示会効果測定の一例を示す。
まず展示会効果を「PR効果」と「セールス効果」の二つに分けて捉える。


a.PR効果=PR効果は来場者数を投資コストで除したものであり、単位コストでどれだけ多くの来場者が得られたかを示す。

PR効果=来場者数÷投資コスト → 認知効率

b.セールス効果=セールス効果は受注額(引き合い額・商談額)を来場者数で除したものであり、来場者ひとりあたりどれだけの受注が得られたかを示す。

セールス効果=受注額(引き合い額・商談額)÷来場者数 → 受注効率

このように展示会には二つの効果があると考えられ、最終的な展示会効果はこの二つの効果を掛け合わせることによって得られると理解することができる。つまり、

展示会効果=(来場者数÷投資コスト)×(受注額÷来場者数)

展示会効果=PR効果×セールス効果

となるが、ここではそれぞれの効果測定で分子と分母になる「来場者数」が相殺され、結果的には「受注額(引き合い額・商談額)」を「投資コスト」で除した数字となる。

展示会効果=受注額÷投資コスト

こうしてみれば展示会効果は単純に投資コストと受注額によって算出できるようであるが、実は相殺された「来場者数」の「量」ではなく「質」に大きな意味があることを忘れてはならない。この「質」の表現は数字では困難であるが、来場者の「質」の向上によってPR効果面でのブランド認知の「質」が向上する。また当然来場者の質が向上すれば結果的に受注額も増加し、セールス効果も向上する。

前述したように、展示会のROIを向上する条件として説明員の質の問題を取り上げたが、同時に来場者の質もまたROIに大きく影響する。この来場者の質を高めることが、6項で述べた集客の課題に合致する。またここでの来場者を、「展示会場全体の来場者」と設定した場合と「自社ブース来場者」と設定した場合とではやや意味合いは異なってくる。さらに、「受注額」を「引き合い額」や「リード件数(カタログ請求件数)」と置き換えることもできるが、各企業それぞれに営業形態や企業運営形態に沿った形で独自の効果算出式を構築すればよいと考える。

重要なのは展示会効果算出式で得られた数字は絶対的なものではなく、各展示会や年ごとの変化率の把握(トレンドの把握)として位置づけた方が良い。なお、受注成立にはセールスコールの質(引き合い処理の仕方)が大きく影響するため、多面的な営業活動の一環としてこの数式を捉えることも重要である。

また、数字では表れない様々な要素、例えば顧客創造やリレーションシップなども、最終的には後々の受注額に寄与するものと考えられ、またとりわけBtoB分野では受注成立までに長期間要することもあるため、この効果測定算式は継続的に使用しその結果のトレンドを数年に渡って把握していくことが重要と考える。

展示会効果測定の基本的な考え方

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河内英司(かわちえいじ)
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京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
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