4.社会的責任と社会貢献を混同してはいないか
そこで各社が行っているCRS活動に目を向けると、当然のことながらコンプライアンスは重要テーマとなっているが、多くの活動内容は企業活動の延長線上、つまり広義でのマーケティング活動や生産活動に類するものが主であり、加えていわゆる「社会貢献」事業をCSRとみなしている企業の多いことが伺える。
ここで企業の社会的責任と社会貢献について考えてみたい。
責任と義務は明確な区別はないが、いわば義務を果たさなかった見返りに責任が発生するとも考えられる。したがって責任の前に義務が存在すると考えて差し支えない。
そして企業の社会的義務とは、と見てみると、まず納税義務。法人として社会に存在するからには一般人同様に納税義務は発生するし、言い換えれば納税責任があるということだ。
次に企業である以上そこから生み出される商品やサービスの品質が一定の基準を保っていること。企業として継続的な発展を目指すならば、まず商品やサービスの品質は最重要テーマだろう。さらに取引先との適切な関係。これも企業活動の継続性確保には不可欠な課題である。しかしここまでは通常の企業活動ではごく当たり前のことであり、ことさらに高品質な商品を提供しているとか、税金を払っていますなどをCSR活動として取り上げるものでもない。
これらの義務が果たせなかった場合、企業の存続そのものが危うくなるものであり、企業として避けて通れない義務であり責任なのだ。
一方社会貢献活動はどうだろう。どこそこへの寄付とか地域社会に貢献するとか教育機関に関与するとか木を植えるとか。これらは極論をいえば特別やらなければならないものでもない。
つまり、企業の社会的責任と社会貢献の区別をするには、企業の永続性のためにどうしてもやらなければならないものなのかどうか、を考えてみるとわかりやすい。とはいうものの社会貢献を一切行わないというのも企業として世間の目が有り、一応取り繕っておきたい気持ちはわかる。
5.CSR大合唱と現実との矛盾
しかしここで重大な社会的責任が果たせていない企業が少なくないことも事実だ。
国連グローバル・コンパクトにある、「労働基準」の拡張解釈と継続的な社会のために最も重要な課題は「雇用創出」である。つまり企業という公器である以上、雇用は地域社会にとっても国全体の経済にとっても最も重大な企業の社会的責任である。この責任を果たさずにやらなくてもよい社会貢献に精を出すことは、いわば自らの責任に頬被りし世間体を繕っているとしか思えない。
今、わが国ではこの雇用の問題が大きくのしかかっている。企業業績の問題があるにせよ、業績回復時の優先的復職の担保がないまま、いとも簡単に人員整理や給与カットを日常的に繰り返す企業に、声高にCSRを述べる資格があるのだろうか。
じつは冒頭にCSRとはほとんど関係のないIRを持ち出したのには意味がある。
IRがヒステリックに取り上げられた時期、各企業は大きな分水嶺に差し掛かっていた。それまでの企業は何よりも顧客や取引先を大切にし、従業員を人財として尊んだ。企業それぞれに見合った福利厚生体制を持ち、終身雇用や年功序列といった世界的にも優れた企業システムがあった。そこへ米国式の企業統治のあり方がIRと名を変えてやってきたのだ。会社は株主のものという会社法に則ったもっともらしい論議によって、株主への説明責任とあわせて高額な配当を要求されるようになった。投資家にしてみれば、高額な配当を行う企業ほど社会的責任を果たしているとみなすということだ。この結果企業は配当の原資を確保するために、徹底して余計なコストの削減を余儀なくされ、業績が芳しくなければ固定費である人のコストにまで手をかけるという従来では禁忌となっていた手法が、日常茶飯の光景となったのである。
企業の社会的責任である雇用創出のために余計なコストをかけると、株主からそれでは配当が少なくなるから社会的責任を果たしていないとバッシングを受ける。いかにも米国流の解釈の仕方だろうが、いい方によれば米国流IRに現を抜かすことによって、企業は社会的責任を果たせなってしまうのだ。
株主は確かに企業のステークホルダーに違いない。しかしそれは極めて限定的であり、多くの場合短期的な投資による利益を目的としている。もし仮に長期的な企業の成長を共にできる投資家ならば、業績が悪くとも将来の糧を生み出す人財を捨ててまで配当を要求することはないはずである。仮に会社法云々のくだらない論議を認め、企業は株主のものとするなら、企業の社会的責任の裏側には投資家の社会的責任があるはずである。ということは、企業の社会的責任は投資家が優先的に負うことになるのだが、この点について投資家はどの程度の覚悟があるのだろうか。