河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

2013年01月

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(3/7)

4.社会的責任と社会貢献を混同してはいないか

 

そこで各社が行っているCRS活動に目を向けると、当然のことながらコンプライアンスは重要テーマとなっているが、多くの活動内容は企業活動の延長線上、つまり広義でのマーケティング活動や生産活動に類するものが主であり、加えていわゆる「社会貢献」事業をCSRとみなしている企業の多いことが伺える。

ここで企業の社会的責任と社会貢献について考えてみたい。

責任と義務は明確な区別はないが、いわば義務を果たさなかった見返りに責任が発生するとも考えられる。したがって責任の前に義務が存在すると考えて差し支えない。

そして企業の社会的義務とは、と見てみると、まず納税義務。法人として社会に存在するからには一般人同様に納税義務は発生するし、言い換えれば納税責任があるということだ。

次に企業である以上そこから生み出される商品やサービスの品質が一定の基準を保っていること。企業として継続的な発展を目指すならば、まず商品やサービスの品質は最重要テーマだろう。さらに取引先との適切な関係。これも企業活動の継続性確保には不可欠な課題である。しかしここまでは通常の企業活動ではごく当たり前のことであり、ことさらに高品質な商品を提供しているとか、税金を払っていますなどをCSR活動として取り上げるものでもない。

これらの義務が果たせなかった場合、企業の存続そのものが危うくなるものであり、企業として避けて通れない義務であり責任なのだ。

一方社会貢献活動はどうだろう。どこそこへの寄付とか地域社会に貢献するとか教育機関に関与するとか木を植えるとか。これらは極論をいえば特別やらなければならないものでもない。

つまり、企業の社会的責任と社会貢献の区別をするには、企業の永続性のためにどうしてもやらなければならないものなのかどうか、を考えてみるとわかりやすい。とはいうものの社会貢献を一切行わないというのも企業として世間の目が有り、一応取り繕っておきたい気持ちはわかる。

 

5.CSR大合唱と現実との矛盾

 

しかしここで重大な社会的責任が果たせていない企業が少なくないことも事実だ。

国連グローバル・コンパクトにある、「労働基準」の拡張解釈と継続的な社会のために最も重要な課題は「雇用創出」である。つまり企業という公器である以上、雇用は地域社会にとっても国全体の経済にとっても最も重大な企業の社会的責任である。この責任を果たさずにやらなくてもよい社会貢献に精を出すことは、いわば自らの責任に頬被りし世間体を繕っているとしか思えない。

今、わが国ではこの雇用の問題が大きくのしかかっている。企業業績の問題があるにせよ、業績回復時の優先的復職の担保がないまま、いとも簡単に人員整理や給与カットを日常的に繰り返す企業に、声高にCSRを述べる資格があるのだろうか。

じつは冒頭にCSRとはほとんど関係のないIRを持ち出したのには意味がある。

IRがヒステリックに取り上げられた時期、各企業は大きな分水嶺に差し掛かっていた。それまでの企業は何よりも顧客や取引先を大切にし、従業員を人財として尊んだ。企業それぞれに見合った福利厚生体制を持ち、終身雇用や年功序列といった世界的にも優れた企業システムがあった。そこへ米国式の企業統治のあり方がIRと名を変えてやってきたのだ。会社は株主のものという会社法に則ったもっともらしい論議によって、株主への説明責任とあわせて高額な配当を要求されるようになった。投資家にしてみれば、高額な配当を行う企業ほど社会的責任を果たしているとみなすということだ。この結果企業は配当の原資を確保するために、徹底して余計なコストの削減を余儀なくされ、業績が芳しくなければ固定費である人のコストにまで手をかけるという従来では禁忌となっていた手法が、日常茶飯の光景となったのである。

企業の社会的責任である雇用創出のために余計なコストをかけると、株主からそれでは配当が少なくなるから社会的責任を果たしていないとバッシングを受ける。いかにも米国流の解釈の仕方だろうが、いい方によれば米国流IRに現を抜かすことによって、企業は社会的責任を果たせなってしまうのだ。

株主は確かに企業のステークホルダーに違いない。しかしそれは極めて限定的であり、多くの場合短期的な投資による利益を目的としている。もし仮に長期的な企業の成長を共にできる投資家ならば、業績が悪くとも将来の糧を生み出す人財を捨ててまで配当を要求することはないはずである。仮に会社法云々のくだらない論議を認め、企業は株主のものとするなら、企業の社会的責任の裏側には投資家の社会的責任があるはずである。ということは、企業の社会的責任は投資家が優先的に負うことになるのだが、この点について投資家はどの程度の覚悟があるのだろうか。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(2/7)

3.グローバル・コンパクトから見たCSR

 

さて企業の社会的責任は、国連グローバル・コンパクトで提唱されている次の項目が根拠となっている。

人権

②労働基準

③環境

④腐敗防止

いずれも極めてシリアスな課題であるが、まず①については単一民族といわれているわが国では馴染みが少ない。一方出自などによる差別が未だに存在していることも事実であり、将来否応なく中国や韓国、東南アジアなどからの移民受け入れが促進されるとなれば、大きな悩みを生み出すだろう。

②は結社の自由、強制労働の排除、児童労働の排除、雇用と職業の差別撤廃が求められているが、主に児童労働については発展途上国のみならず貧富の格差が拡大した諸国では古くから重大な問題を提起している。強制労働や雇用差別に対しては、わが国では法令で厳しく制限されており、CSR以前の問題として各社ともこの課題には熱心に取り組んでいるところだ。

しかし結社の自由についてはどうだろう。確かに現在でも多くの企業に労働組合は存在する。しかし一昔のそれとは明らかに異なった様相を呈している。以前の労働組合が資本に対する労働者側の立場を適切に保全する砦であったのに対し、現在では資本と労働の間にいささか生ぬるい関係が否定できない。極端な場合会社の方針に異議を唱える組合活動に熱心な社員に対して、組合の力も及ばず不利な会社生活を強いる企業が少なくないのも現実だろう。

③の環境についていえば「地球温暖化防止条約」に基づいた温暖化防止のための脱炭素が現在の最大のテーマであるが、そもそも温暖化と炭酸ガスとの因果関係がある種の政治的・経済的な目論見による作為であるといった論議が大勢を占めつつあり、より慎重な科学的根拠が求められるところである。

むしろ「環境汚染・環境破壊」をなすことなく企業活動を継続することへの必然性がここでは重要なテーマとなる。地球温暖化防止条約と同時期に制定された「生物多様性条約」の拡張解釈によって、このミッションはより具体性を帯びてくるだろう。「省エネルギーや省資源・リサイクル問題」はCSRというよりむしろ利潤追求のための営業・生産活動の延長線上にあると考える。

④の腐敗防止はいわゆる賄賂の強要などを戒めたものであるが、これも法令で十分対処できる課題である。一方で東南アジアなどでは未だに、というより今後も更にビジネスにおける賄賂の必要性が切っても切れない難しい現実がある。しかしもし仮に日本企業が海外で賄賂罪を犯した場合でも、国外犯の適応を受け不正競争防止法や背任罪で処罰されることになるだろうから、ここでもわが国の法体制で対応できる。

こうして見てみると、要するにほとんどの項目はコンプライアンスの徹底によってカバーできるものと考えられるし、コンプライアンスは企業活動の根幹でもあるため、何も取り立ててCSRを声高に叫ぶ必要もないように感じられる。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(1/7)

.過ぎ去ったIRブームに見るCSRとの共通項

 

最近CSRという言葉を耳にするたびに、ある種の胡散臭さが感じられてしようがない。

ちょうど2002年ころだったか、突如としてIRブームが巻き起こった。いうまでもなくIR活動は投資家に対して適切な情報開示を行う説明責任のことである。多くの上場企業はそれを当然のこととして古くから取り組んできた。にもかかわらず、IRというあたかも新しい概念に乗り遅れると大変なことになる。こんな論調が散見された。極端なケースではIRを行うと株価が上がる、あなたの企業価値は本来株価○○円だが現在はその半分しかない、その原因は適切なIRをしてないからだ、といった半ば恫喝ビジネスまがいのIRコンサルタントもいたという。そして各社は、こぞって新しいIR活動に熱を入れることとなった。

その結果どうなったか。20034月から2007年春にかけて株価は指数で2.5倍近くにまで上昇した。個別企業では10倍以上の株価上昇を果たした企業も数多く見られた。ここまで見ると確かにIRによって株価が上がるといえるかもしれない。しかしその後はどうだ。2007年の天井を境に現在はほぼ出発点にまで戻ってしまった。ということは2007年から企業はIR活動をやめたということなのか。そうではないだろう。2007年以降もむしろより熱心にIRは行っている。投資家に対する説明責任を果たすために。

じつは筆者は1995年くらいからIR責任者も兼務していた。様々な証券会社にヒアリングしIRとは何なのかを研究するとともに、本当にIRが株価形成に影響を与えるのかどうか定点観測を行った。

1996年から3年間にわたって毎日十数銘柄の株価の動きとIRとの関連について観測し続けた。その結果得られた結論は、IRと株価はマクロでは連動しないということと、株価形成に大きな影響を与えるのは世界的な需給および個別銘柄の需給のみであることがわかった。と同時にその需給にインパクトを与える仕掛けとして株式先物市場の存在があることも。

わが国に株式先物市場が上場したのは1987年である。バブル真っ只中のこの時期、株式先物を利用して米国のヘッジファンドは膨大な売りを仕掛けた。そして1991年のバブル崩壊。件のヘッジファンドが多額の利益を手中にしたのはいうまでもない。世界的な需給をいち早く知った連中が、この金儲けのからくりを再び利用したのが2003年から2007年の指数上昇だと考えられるし、それにうまく便乗して一儲けしたのがIRコンサルタントだったのだろう。

昨今のCSRに半狂乱になっている社会動向を見ていると、どうしてもこのIR至上主義の時期を思い出してしまう。

 

2.ノブレス・オブリージュを自然に身につけていた伝統的な日本企業

 

少なくともわが国の伝統的な企業は、その存在理由を明確にするための説明責任や社会的責任をCSRという難解な言葉を持ち出すまでもなく実践していたことは、拙著「ASICAれ!」でも述べた。現在でも生き続けているであろうこれらの企業の社訓や家訓に、それが見て取れる。いわば日本版の「ノブレス・オブリージュ(社会的地位の高い人が自覚すべき義務)」として、当たり前のように社会に対する組織の責任を明示し、実践していた。

反面、世界的にCSRが叫ばれだしたのはエンロンやワールドコムなどの米国企業がもたらした不祥事がきっかけになっている。不正会計など社会を欺くこれらの行為の再発を防ぐために、コンプライアンスを徹底し内部統制を厳粛に行うことはCSRでも何でもない。企業として至極当然のことだ。それを取り立ててあたかも企業経営における新しい概念としてCSRを持ち出すのは、米国企業ならともかくわが国の企業には不似合いな気がしてならない。

拙著「ASICAれ!」で日本企業の特性として株式持ち合い制度や労働組合の存在、さらには年功序列や終身雇用などの制度が組織維持に欠かせない有効な仕組みがあったにもかかわらず、グローバリズムの大義名分のもとにことごとく放棄せざるを得なかったことを述べた。ちなみに株式持ち合い制度の解体によって放出された株式の大部分が米国のヘッジファンドに流れ、その結果多大な利益を供与したのはいうまでもない。つまり、本来わが国の企業が普遍的に大切にしていた社会的責任の通念を、CSRという一見新しい仕組みに組み直すことによって、またどこかの誰かが金儲けを企んでいるのでは、という気がしてならないのだ。

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河内英司(かわちえいじ)
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京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
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