4.ASICAモデルにおける広告の役割
ASICAのトリガーが課題探索であることはくどいほど述べた。
であるならば、企業としてもう一つの組織である社会に対してどのような取り組みが必要なのか、広告に絞って考えてみたい。
広告でモノを売る、企業を売る時代は終わったことはすでに何度かの拙稿で述べた。
そしてそれに替わっていわゆる企業広告は社会の隠れた課題を掘り起こし、国民にそれを気づかせる大役が待っている。
情報が過度に氾濫した今、企業の本当の姿を知ろうとすればいくらでも可能になった。
こんな中で声高に「私どもは世界でも優れた技術を持っていて、なんとかかんとか、すばらしい企業なんです」といった自画自賛広告はもう恥ずかしくてやる気にもならないし、たとえ広告したところでそんな美辞麗句は誰も信用しない。そんな時代だ。
つまりいわゆる「アピール広告」はもう過去のものとなりこれからは社会に埋もれた課題発掘のための「メッセージ広告」が主流とならなければならない。
「メッセージ広告」といいながらよく見てみると未だにアピールから抜け切れていない広告が少なくないが、そもそもメッセージというのは「見えない部分をわからせる」ところに真骨頂がある。
つまりアピールはオーディエンスに考える余裕を与えず広告主のいいたいことをそのまま刷り込むことを目的としているのに対して、メッセージはオーディエンスに考える余裕を持たせなければならない。
そしてオーディエンスから発せられた二次メッセージが広告主のメッセージに作用するという双方向性を有する。ここから社会に横たわった課題が徐々に際立ってくるのである。
ではどのようにしてメッセージ広告を企画すればよいか。企業には経営理念のもっと奥底に経営に対しての思想や哲学の核がある。その核を包み込むようにして経営理念が生まれ、経営理念によって企業風土が形作られる。そして企業風土がアピールの源泉(企業の癖)となるのだ。
哲学は昔も今も替わらないが企業理念は時代に応じて変える場合がある。流行に即するためだ。CIが流行った時代には多くの企業で創業の哲学は蔑ろにされ美辞麗句の企業理念がアピールされた。
人間でいえば哲学は心や人格であり企業理念は化粧である。そして多くの人前で振る舞うことがアピールと理解できる。で、そんな厚化粧のまやかしはもう誰も信じない、となった。企業の「心」を真摯に社会に対して示すこと。これがメッセージなのだ。
したがってメッセージ広告を企画するに当たって最も重要なのは、いったん世の中の流行や異説は忘れて企業自ら社会に対して独自の意見を述べることだろう。
そのためにはまず自社の心が何なのかを知ることから始めなければならない。十人十色というように企業にもそれぞれの特色がある。その結果メディアを通じたメッセージ広告によって、社会にはさまざまな意見が飛び交うようになる。
今のようにどの企業も似たような広告、という不思議な現象もなくなる。もちろんオーディエンスから同意されないメッセージや敬遠されるメーセージもあるだろうがそんなことは気にする必要はない。決して社会に媚びることなく企業独自の意見を発すること。これがメッセージ広告の根幹になる。
広告に携わっておられる読者ならすでによくご存じだと思うが、放送禁止や掲載禁止になったCMや広告が少なからずある。
もとより広告制作クリエイターは日頃から広告倫理規定を熟知しながら対応している。それにもかかわらず、くだらない言葉狩りや過剰な良い子主義のあおりで致し方なく日の目を見なかったのだろうが、中にはどうしてこんなすばらしい広告が、と思う作品もある。
その多くは紛争や戦争をモチーフにしたものである。たとえば子供が銃を抱えた映像があるだけで、子供に銃を持たせることを容認している、だから広告としては許せない、という短絡思考が生まれるらしい。
子供が戦士として否応なく駆り出されている国が現実に存在しているにもかかわらず、だ。
白い犬が喋っても、犬が喋るわけがないそんな広告はおかしい、と目くじらたてるわけでもなく単純に受け入れる一方で、現実にある負の光景を見せることに躊躇する。
最大の環境破壊や社会崩壊の要因である紛争が大きな課題であるならば、それをテーマにした広告は平和ボケした我が国でこそ価値があると思うのだが。
メディア側の広告倫理規定をはじめ、企業側の神経質なくらいの事なかれ主義や臭物蓋体質は、これからの広告のありかたに重要な課題を提示しているように思う。メディアや広告主こそまずASICAの課題探索から始まって、将来の広告を見直さなければならないのかも知れない。