東京の杉並区に妙法寺という日蓮宗のお寺がある。古くから厄除けにご利益があると言うことで、昔は相当賑わっていたらしい。近年はご多聞にもれず付近の商店街も寂れ、お寺に訪れる人もそんなに多くはない。どういう訳かお寺に猫はつきものなんだが、妙法寺にも猫が、いる。お寺に住み着いたものもいれば、近所から足繁く通ってくる猫もいる。多いときには十数頭、少なくても数頭の猫がお寺を訪れる人々を和ませている。雨の日も風の日も寸暇を惜しんで熱心にエサやりをする人々のおかげだろう。同じ猫でもエサやりをする人それぞれが自分勝手に名前をつけるため、一人で幾つもの名前を持つ猫がほとんどだ。それほど猫は人に愛される存在なのだろう。

 

「断種」を招くTNR(捕獲・不妊処置・リリース)

こんな風情を持つ妙法寺にも最近異様な事態が生じ始めている。
野良猫による近所トラブルは後を絶たないが、その解決策として十数年前からはじめられた「地域猫」活動が普及しつつある。これはまず大前提として野良猫を害獣として捉え、近隣の住民に害を及ぼさないようにボランティアなどの有志で猫を管理していこうとするものである。この活動にはいくつかのプロトコルがあるが、筆者がもっとも危惧しているのは「TNR」と称される捕獲・不妊処置・リリースの一連の行為である。野良猫対策や地域ネコ活動ではもう当たり前のように語られるこのTNRが、妙法寺でも行われるようになってきたのだ。


猫に対しては犬など他の動物と同様に人それぞれに好き嫌いがある。だから人と猫が同じ地域に共存するために様々な対策を取ることについて何ら異論はない。しかしTNRの問題は、「断種」を促すことだ。言うまでもなく人類を含めた生物の最大の使命は「種の存続」である。どんな危険な害獣であっても種の絶滅を防止するために完全な断種は行わず、ある程度の個体は温存するのが通例だ。しかしTNRに至っては地域ネコ活動家の間に、種の存続という概念がまったく見当たらない。誰が考えても簡単に理解できると思うが、野良猫にTNRを施せば猫の寿命である数年から十数年経てば、野良猫はこの世から絶滅してしまう。


動物医療従事者などの間でTNRを行っても野良猫の数は減らない、という見解を述べる人もいるが、それはおそらくいくら野良猫を減らしても次から次へと捨て猫が増えるから、という論理なのだろう。しかしこの論理が破綻しているのはまず捨て猫があることを前提にしていることにある。動物愛護および管理に関する法律で、厳に捨て猫は禁止されている。にもかかわらず捨て猫が減らないから、という前提条件を持ち出すことは、暗に捨て猫を許容していることと同じと言える。つまり、TNRを論じる際、家猫を捨てる行為とは別の次元で議論すべきなのだ。問題を整理すると、TNRは「断種」という人類を含めた生物全体の存在にかかわることであり、捨て猫は単に飼い主個人のモラルの問題といえる。法体系から捉えれば、「断種」は最上位概念である憲法に含まれるべき基本的な事柄であるのに対し、「捨て猫」は刑法に値する程度だろう。


相手が猫だからこのような考え方は疎かになりがちであるが、人間に置き換えればよく分かる。いささか品のない例ではあるが、年収100万円にも満たない家族がいたとしよう。そこに子供が生まれる。とても養っていけないからと生まれたばかりの子供を捨てる。あるいはもう先がないからと老人を捨てる。これは明らかにネグレクトであり児童虐待や高齢者虐待で刑法によって罰せられることになる。一方、年収100万円にも満たない家庭で産まれる子供はかわいそう。生まれたところで生きていけない。だからこの夫婦には子供が生まれないように処置しよう。しかも本人の同意無しに、だ。これが断種であって、傷害罪という刑法はもちろんだが、憲法で謳われている基本的人権や幸福追求権を侵害したとして罰せられることになる。
断種は古くはナチスによっても行われた忌まわしい行為であるが、残念なことに現在でもなお優生志向を持つ人たちによって肯定される場合もあると聞く。

 

「地域猫」活動に隠された課題と集団ヒステリー

ほんの数日前、妙法寺でTNRを行った活動家の話しによれば、避妊処置を行った雌猫のお腹の中に、二匹の仔猫が入っていたという。この仔猫は当然殺されたらしい。その理由を尋ねると、「当たり前でしょ!。当然殺すわよ。生まれたらどうするのよ。どうせ生まれてもカラスに殺されたり交通事故にあったりで、かわいそうでしょ」と。上述の例から言えば、貧困家庭の女性は妊娠するべきでなく、たまたま妊娠したなら避妊処置と同時にお腹の中の子供も堕胎させる、という論理になる。何という詭弁だろう。


TNR
活動が危ういのは、インターネットで検索しても人に尋ねても不思議なくらいそれを否定する人が少ないことである。どうせ猫だから、という気持ちがあるにせよ、ここにTNRを無意識に肯定させる仕掛けがあることにあまり気付かれていない。


まず一つは「地域猫」「住民との共生」「みんなで一代限りの野良猫を見守ろう」「それによって地域の連携を強くしよう」といった耳障りの良い言葉の羅列。この言葉によって活動に反対する人は地域の共生にも反対することになる、という無意識の刷り込みが地域猫活動への反論を押さえることになっている。


次は、野良猫は近所迷惑という大前提を解決する最高の施策がTNRであるという触れこみだ。なかなか自分一人では解決できない野良猫問題を自分の腹が痛まない程度で解決できるなら、動物の生きる権利などややこしい議論は避けたいという意識。


さらに、TNRによって一代限りになった猫を地域のみんなで大切にしていこうと呼びかけるシュプレヒコール効果。よく考えれば一代限りの種となってしまった猫を作りだした本人が、それを大切に、といわれても大きな違和感を抱かないのはやはり自分の家族ではないたかが猫だからなのだろう。


そして、とにかく猫を害獣として刷り込み、その害から近隣を守るマッチポンプ思考である。
その他、TNR活動の小難しいプロトコルを説明されると、十分に議論された最高の施策だという錯覚に陥ってしまうこと、などがある。

 

野良猫は「害獣」の刷り込みによる地域猫活動の正当性確保

ところで野良猫が増える最大の原因は家猫を捨てるから、といわれるが、もともと数十年前には家猫などほとんどなくほぼ全てが野良猫だった。さらにこの野良猫は元を正せばネズミや害虫を駆除するために家畜化された益獣であり、その役割から見ても家の中で飼う意味は全くなく、外で生きるからこそ猫の益獣としての本領が発揮できた。ペットブームの到来と共に飼い飽きた人たちや何らかの理由で飼い猫を捨てることが、結果的に野良猫が増えることに関してはまったく異論はない。確かに猫を捨てるのは法的にも問題で、心ある人間なら倫理感にも苛まれる。しかし捨てられた猫の中で、野生化して生きる力を持っている猫は、堂々と益獣としての野良猫に変身できるのである。
まずTNRプロトコルの中で、猫を害獣として見なしているところに最大の心得違いがある。

 

人類の持つ最大の美点「寛容性」の欠如が社会を貧困にする

とはいうもののやはり猫は嫌いだ。あいつは害獣だ。なぜなら鳴き声がうるさいし、庭に糞をするし、子供だって砂場で遊べないじゃないか、という声もある。昨今の殺伐とした都会生活を満喫しているひとたちには理解できないかもしれないが、まず鳴き声。たしかに繁殖期になれば雄同志のケンカなどでうるさいだろう。でもそれも年柄年中ではなく決まった季節に時折聞かれる程度だ。いわば季節の風物詩。都会ではほとんど耳にしないが、まだ寝足りない早朝、「コケコッコー」と天然の目覚ましが鳴ったからといって、ニワトリがうるさいから飼うのなら一代限りにTNRしよう、となるのだろうか。


夏の蝉にしても鳥の声にしても、少なくとも日本人はこれを季節の風物詩として楽しんできた。動物に限らず様々な生物との自然な関係を、当たり前のように許容してきた寛容さが、我が国独自の文化を形成したとも言える。


猫の糞の問題は当事者には深刻だろう。大切な花壇をことごとく荒らされては腹の虫も納まらない。筆者も子供の頃、楽しみに育てていたキンセンカの箱庭の中で猫におしっこをされ、鼻がもげるほどの匂いを経験したが、それはそれでこれも自然なんだという感覚しかなかったことを覚えているし、わざわざ小さな箱庭めがけてきっちりとおしっこをしていった猫を愛おしくも思った。

 

野良猫は本当に増えているのか---野良猫の生態を無視した数の論理

野良猫の数の問題であるが、どうもTNR活動家の見解には不自然な点がある。筆者は散歩が好きだから、杉並区や隣の中野区を当てもなく歩き回ることが度々だが、少なくとも昔にくらべて野良猫が増えたとは思えない。


宮城県に田代島という小さな島がある。猫の島として有名で、島の中心には猫神社もある。古くは養蚕のために蚕を喰うネズミを駆除するために島に連れてきたらしいが、住民の数と猫の数がほぼ同じという珍しい猫島だ。ほぼ全数がいわゆる野良猫で、もっぱら漁師が獲ってきた魚のおこぼれが主な餌であるが、自主的にエサやりをしている島民もいるらしい。この田代島の猫だが、当然TNRは施していない。小さな島だからわざわざ本土から船に乗って猫を捨てに来る人もないだろう。このような閉鎖された区域では猫の生態がよく分かる。


昔からこの方島の猫は多少の増減はあったにしてもほとんど数は変わらないのだという。TNRもせずに餌は潤沢にあるとなれば、ねずみ算式とは言わないまでもどんどん数は増えていきそうなものだが、じつはそうではない。これが野生動物の生態である。人間が管理するよりもはるかに綿密に彼らは生態系を管理している。もしこの小さな島で爆発的に猫の数が増えればどうなるか。それは猫が一番よく知っている。食糧不足になりケンカが絶えずやがて種の存続が危うくなる。そのために猫は自然に頭数制限をしているのかどうか不明だが、とにかく、増えない。これが人類には理解できない自然の摂理というものなのだろう。


では都会に暮らす猫はどうだろう。上述のように近年野良猫が極端に増えたと思えないのは、都会のような解放区域であったとしても、それぞれの猫のコロニーにおいて田代島と同じような頭数制限を自ら行っていると考えられる。猫はテリトリーを重視する動物である。たとえ解放区域であってもテリトリーは閉鎖区域と見なすことができ、そのテリトリーに適切な数を多少の増減があるにしてもある程度維持していると思われる。たとえそこの捨て猫が現れても、この動物の生態系が崩れることはない。要は強いものが生き残り弱いものが消えていく。それが種の存続なのだから。


この考えからすると、TNR活動家が声高に言う「放っておけばどんどん野良猫が増える」というのは単純なネズミ算による計算間違いだろう。もしくは動物の生態に対する無知から来る物なのかも知れない。


現実に妙法寺に限って言えばここ十年来、捨て猫があったり仔猫が生まれたりで、多いときに十数匹、現在は数匹で年ごとの増減はあっても閾値は守られている。ただ本来なら今頃(9月)仔猫がたくさん現れる楽しみがあるのだが、TNRのおかげでお寺もひっそり静まりかえったままであるのが少し寂しい。

 

ギュスターヴ・ル・ボンの群衆心理と地域猫集団ヒステリー現象

あまりにもヒステリックに叫ばれるTNR活動家を見ていると、どうも理由が別のところにあるような見もするし、いわゆる集団ヒステリーとしてフランスの社会心理学者であるギュスターヴ・ル・ボンが唱えた群衆心理に合致するようにも思える。ル・ボンは群衆心理で無意識のうちに人々はその群衆のリーダーの思考や価値観が刷り込まれ、思ってもいなかったことをするようになる、といっている。

ビジネスの世界でも比較的有効な手法として「恐怖ビジネス」がある。消費者に持たざる恐怖を煽って無意識に商品を買わせるというのがそれだが、TNR活動はどうもそれに近い気がしてならない。放っておけばどんどん野良猫が増えて、感染症が流行って町が汚くなって、だから我々が何とかしなければという使命感が先に立っているのかどうか分からないが、野良猫家猫関係なく猫を守るという壮大なビジョンではなく、自分たちの活動を正当化するために猫を害獣に仕立て上げているのでは、と思ってしまう。

 

種の存続を担保する多産動物

野良猫の増加を危惧する根拠として、猫は人と違って数匹の子供を産むことにある。ここでよく考えたいのは、動物はサバイバル状態では出来るだけ多くの子供を産む、ということだ。魚などは産んだ卵のほとんどが捕食されるため気が遠くなるほどの数を生む。ウミガメもそうだし、人間以外の多くの動物は複数匹の子供を生む。こうして結果的に種の存続に必要な最小限度の数を確保しているのだ。ちなみに人間も戦争状態など危機に瀕した場合、生殖感覚が異様に高まるらしいが、それはともかくどれだけ種の存続を動物が大切にしているのかがよく分かる。どんな理由があるにせよ、種の存続を妨げる愚行は許されるべきではない。

 

野良猫の絶滅が社会に与える影響

TNR活動家は仮に野良猫の数がどんどん減った場合、社会でどのような問題が起きるのか認識しているのだろうか。猫は益獣として家畜化されたといったが、それがいなくなった場合、ネズミは増える。ゴキブリなどの害虫も増える。ネズミやゴキブリが増えればそれに纏わる様々な感染症が蔓延することになる。古くはヨーロッパで猫が悪魔の使いとして嫌われ、大々的に駆除した結果、猫に救われたネズミがもたらすペストが大流行したのはよく知られている。


これと同じような問題がTNRの結果として生じることを危惧しているのだが、一旦益獣として我々の生活に深く入り込んでいる猫の役割についても十分な議論が必要だろう。

もっとも、TNRで猫がいなくなり風が吹けば桶屋が儲かる式に感染症が増加すれば、医療業界や医薬品業界は最高のビジネスチャンスではあるが、こんなことまで勘ぐりたくなるようないかがわしい活動のようにも思えてくる。

 

野良猫は益獣として社会の有効なリソースになる

ところで飼い猫(家猫)と野良猫が、自然に対する感受性が大きく異なるのはわが家の猫を見ているとよく分かる。わが家の猫は3匹とも野良猫出身だ。飼い始めた当時は地震予知によく活躍してくれた。しかし時が経つに連れ、二食昼寝付きの安泰な暮らしを続けるうちに、地震がおきても我関せずすやすや眠っている。野生動物としての感覚機能が少々衰えてきているのだろう。つまりもうすでに彼らは人間生活の中に入り込み家族の一員となったのだ。だからこそ家猫には我々は保護者としての責任がある。


一方で野良猫はまだまだ本来の感覚機能は健在だ。この野生感覚がどうも人間には気に入られないようだが、ここはもう少し野生動物ならではの役割をもっと発揮させるような施策が考えられないのだろうか。

筆者が以前提案した「地域猫による地震予知システム」は今こそ真剣に具体化すべきだろう。事実関西サイエンスフォーラムではペットによる地震予知システムの研究が産学事業として進められていると聞く。もっとも家庭で飼育されているペットを対象とするのなら、その効果はあまり期待できないとは考えるが。


いまのまま「断種」を続けて野良猫がいなくなってしまってからでは、この貴重なリソースが生かせなくなる。

百歩譲って TNRを肯定するにしても、たとえば「一つのコロニーのうち断種は総数の2/3を超えてはならない」などというルールを作るべきである。件の活動家は「とにかく雄でも雌でも徹底的に不妊処置する」と息巻いている。地域猫活動以上の特別な思想や利権がそこに存在するかのようでもある。

野良猫が増えると困るから断種する、つまり未来の命を絶つ、などといった短絡的な捉え方はいかにも傲慢な人間らしさの表れとも言えるが、声高に社会と野生動物との共生などというきれい事に隠された愚策ではなく、もっと益獣として社会に役立てる知恵が普通の人間にはあると思う。

 

猫にとってはご利益がなくなった妙法寺

東京都内でも名刹と言われている妙法寺の山門に、ねずみ取りを何倍にもした無骨なトラップを遠慮なく仕掛け、極めて事務的に捕獲から不妊処置そして同じ場所に放つ。戻ってきた猫たちの表情は一様に恐怖心が見られ、まるで人格?が変わってしまった猫もいる。たった二日間ほどの間で、だ。

これらの行為を行っている活動家の表情を見ていると、どこかで見たような気がした。そう、オウム真理教や新興宗教の信者と酷似しているその表情は、やはりル・ボンの群衆心理に当てはまるのだろう。

いずれにしても、厄除けにご利益があると崇められている「堀之内のおそっさま」も、最近は猫に対してはあまりご利益はなさそうである。

●ちなみにその後妙法寺に確認したところ、捕獲機を使用した 捕獲活動には驚いた様子で、妙法寺としては許可はしていないとのこと。今後捕獲現場を見つけたら注意するということだった。野良猫と言えども殺生を禁ずるお寺としては当然だろうが、少し安心した。