河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

2009年12月

BtoC社会の崩壊と、心理的BtoB社会の形成

3.米国からもたらされたBtoC社会

ではなぜこの社会システムが崩壊したのか。1950年代半ばからテレビドラマを軸に怒濤のようにあふれ出したアメリカ文化が、組織に埋没していた「個」の概念を目覚めさせた。この頃から自由主義とか個人主義などが幅をきかせだした。そして我が国の社会全体が、雪崩のように個人尊重へと向かっていった。そして集合の最小単位であった家族は、その組織の維持よりもそれを構成する個人の価値観や夢を重視する傾向が強くなり、徐々に組織としての家族は崩壊した。一時期社会現象となった核家族化はその過渡期でもあった。 1960年代に入り様々なメディアが一気に氾濫し始め、「個の欲」をターゲットとしたプロモーションが花盛りとなった。BtoC広告の全盛期である。この状況はバブル崩壊とともに一時後退したかに見えたが、1995年頃に始まったインターネットと携帯電話によって、所謂One to Oneと言う新たなコミュニケーションスタイルの出現を見るにいたってその頂点を形成したかに思えた。しかし実はこの時期からマーケットでは奇妙な現象が現れだした。BtoC広告に対する反応が鈍くなってきたのである。これについて価値観やニーズの多様化とか若年層のメディア離れなど、様々な理由が取りざたされた。そして未だに明確な結論が得られないまま、昨今の不況と相まって現在の広告業界は悲壮感に包まれている。

 4.仮説---無意識の組織形成とBtoC

この不可解な現象に対して、一つの仮説を提示したい。それは我が国の社会は、もうすでに新たなBtoB社会へと進化し始めたのではないか、と言うものである。メディアの強烈な発展やとりわけ若年層の行動様式を見る限り、一見ますます「個」を重視したBtoC社会が進展しつつあるように思えるが、実はここに大きな罠が潜んでいる気がするのである。確かにメディアやネットワークは過去に例を見ないほど発展した。しかしこのことが「個」の希薄化とともに新たな組織を作り出す要因になっているのではないか。言い替えればあまりにも進化したメディアそのものに、何らかの特性を持った「個」同士を結びつける作用が生まれたのでは、と考えるのである。たとえば若年層の携帯メールの使用率を見れば、それぞれの「個」がある種特定のネットワークを築いていることに気付く。1950年代の毎朝顔を合わして挨拶を交わすネットワークではなく、ただ単に文字メールのみで繋がる見えないネットワーク(組織)である。そして頻繁なメールのやりとりが、この組織を維持していくのに欠かせない。これは数十年前に見られた家族を最小単位として近接した単位同士の集合による整然とした組織構成ではなく、組木細工のように社会の中であちこちに入り組んだ複雑な組織形態であり、しかもどちらかと言えば心理的な組織と言えるだろう。

ニオイ。

いつかの新聞に「検疫探知犬」の活躍が紹介されている。この検疫探知犬は、空港などで海外旅行から帰ってくる人たちの荷物に、輸入が禁止されている畜産物がないかどうかを嗅ぎ分けるらしい。最近は、鳥インフルエンザやBSEなどの問題もあって、不用意にこのようなお肉や加工品を勝手に海外から持ち込むことが厳しくなっている。海外旅行では、日本では口にしたことのない珍しい味覚の食べ物に遭遇することが、ある。ついつい、これはうまい!、日本で売ってないから買って帰ろう、ってなるけど、そう簡単に持ち帰れるわけではない。ちゃんと空港の検疫所で、このお肉加工品は変なウイルスや輸入禁止物は含まれていないですよ、と言った検査証明書を出さないといけない。ま、普通の人はこんな証明書をわざわざ現地のお肉屋さんでもらわなくちゃならない、ってこともあまり気にしていないから、そのまま空港に到着して、ワン!っていうことになってしまうのであります。 この検疫探知犬以外にも、災害救助犬や麻薬探知犬、そしておなじみの警察犬など、私たち人間はずいぶんと犬のお世話になっている。そして最近の研究では、人間のガンを発見する犬も出てきているとか。皮膚ガンなどのガン細胞から出てくる独特のニオイを検知するのだそうだ。1989年にイギリスで、ある夫人がいつもはおとなしい愛犬に激しく吠えられて、足もとを噛みつかれた。びっくりした夫人は急いで病院に駆けつけ治療をしたところ、ちょうど噛まれた部分に皮膚ガンが見つかった、とか。またアメリカのある夫人は、自分の飼い犬がしきりに胸に鼻をこすりつけてくるのを不思議に思い、なんとなくその部分を触れてみるとしこりがあるのに気づいて、病院に行くと乳ガンと診断された、など。 そもそも犬の嗅覚は人間の100万倍から1億倍の能力を持っている。嗅覚は鼻の中にある嗅粘膜のまた中にある嗅細胞というのが、ニオイの分子をキャッチすることで成り立つわけであって、言い替えれば嗅細胞の数によって嗅覚の能力は決まってしまう。人の嗅粘膜は、ちょっと大きめの記念切手くらいの大きさですが、犬のそれはなんと新聞紙くらいの巨大な面積を持っているのです。当然そこにある嗅細胞の数も人にくらべて400倍なんですが、嗅覚が人の1億倍近いと言うことは、この細胞ひとつひとつの感度がまた、人とくらべて格段に高いと言えるのですね。 そこで疑問になってくるのは、よくこのように人の何倍・・・と言う表現がありますが、ではここで言う人って、いったいどんな人なのか、と言うことであります。たぶん人も大昔は今よりもはるかに嗅覚が良かったと思われますし、文明の発展とともに嗅覚が退化してきたのは間違いないはずです。たぶんここでは現代の人という定義なんでしょうけど、現代と言ってもまた幅広い。今ではほとんどの食品に賞味期限が表示されていて、神経質な人なら賞味期限が一日でも過ぎていたら、もう親の敵ような感覚で捨ててしまう。たぶん、臭いをかいで、これ、まだいける、とか言うような行為はなくて、賞味期限表示をそのまま信じて暮らしている。私が小学生の頃は、こんな賞味期限などどこをみても書いてなかったし、すべては自分の嗅覚が頼りだった。それも、貧しい時代だったから、臭いをかいで、ン?ちょっと酸っぱい気がするがもともとのニオイも微かにするし、捨てるのももったいないし、微妙なラインだけどオーケー、みたいな感じで毎日暮らしてきた。このときの嗅覚は今とくらべてもはるかに優れていた、と思う。 都会に暮らしている人が、お盆やお正月に故郷に帰ったとき、もう駅に着いた時から昔懐かしい街のニオイに気づく。家に帰れば、あっ、これがわが家だ、というそれぞれの家庭が持っている独特なニオイに、安心したりもする。賞味期限もそうだけど、ニオイは私たちの日頃の暮らしを生き生きとさせるエンターテイメントを与えてきたのであります。 最近は、俗に言う良いニオイ、ま、これを香りと言うのでしょうか、それが重宝されて、生き生きとしたニオイが消滅しつつあります。湿気を含んだ土壁とカビが織りなす微妙なニオイや、美味しそうな野菜を彷彿とさせる肥だめのニオイなどは、今や悪とされてこの世から消えてしまいつつあります。言うまでもなく犬や猫などは、良いニオイや悪いニオイという判断基準ではなくて、自分が生きていく上で必要な情報の一部として感知している。彼らはニオイをかいだだけで、こいつは敵か味方か、食べて良いのか悪いのかがわかるという。ま、人間の場合はニオイよりも見た目で、こいつは好きか嫌いか、を判別することがよくありますが、実は視覚と嗅覚には密接な関係があるらしい。人間の視覚は総天然色で色んな色が見えるが、犬や猫は特定の色しか見えない。人間の祖先である猿の研究で分かったのですが、視覚細胞の色を見分ける遺伝子が、進化すればするほど嗅覚は退化していくのだそうだ。テレビでも街角でもこれでもかっ、と言うくらい色彩が氾濫している現代、貴重な嗅覚が退化していくのも仕方ないのかも知れません。

ホスピタリティに裏打ちされたBtoB社会

さてASICAの第二段階である「解決(solution)」の前に、極めて重要なポイントをお話ししたい。

1.我が国はもともとBtoB社会だった

前項でASICAモデルはBtoC分野でも適応が可能だと記したが、BtoBとBtoCの違いについて社会的な側面から見てみたい。BtoBは組織対組織、BtoCは組織対消費者個人と言う区分けがなされているが、そもそもなぜこのような違いが生まれたのであろうか。1950年代以前にまで遡れば、我が国はBtoB社会であったと考えられる。組織の最小単位は家族であり、家族の集合が町内会という組織に、あるいは校区で区切られた地域も言ってみれば一つの組織であった。そして街が形成され、最終的に国が形作られていた。そこでは「個」の価値観よりも家族を底辺にした組織の論理が歴然と存在していた。家柄とか家風・家訓が尊ばれもした。たとえば家族の最大の行事である婚姻は、個人同士ではなく家族対家族のイベントであった。それは組織の継続と維持、さらには持続可能な発展に不可欠な役割を果たしていた。家族の集合である町内や地域にしても、個人同士の付き合いというより家族同士の交わりの方が重視されていた。

2.BtoBビジネスの原点は「ホスピタリティ」

そしてそのコミュニティーに点在する様々な商店がビジネスの起点となっていた。八百屋に代表される商店は、各家庭の細部にわたる情報を握っていた。たとえばご主人の仕事や嗜好とか、子供は何歳くらいだとか、どんな親戚がいるのかなど日常的なコミュニケーションの過程でこれらの情報が自然に把握できていた。そしてこの情報を駆使して、その家庭にふさわしい商品を自ら提案したし、場合によっては献立まで指南することもあった。そう言えば八百屋は野菜料理のレシピを豊富に持っていたし、魚屋は魚料理が上手かった。御用聞きという独特のビジネスモデルでこのような商売が成り立っていたが、ここで言う御用聞きとは自店の商品を売り込むことだけでなく、時として客から依頼されたクリーニングの手配など、商売とはまったく関係ない作業もやってのけた。この根底にあるのがいかにしてお客様に喜んでいただけるか、と言うホスピタリティの精神である。地域社会の中でビジネスを継続して行くには、儲けよりもまず顧客に対するホスピタリティを重視することが必要だと自然に学んだのだろう。またある家庭で何か問題が発生した際には、それこそ隣近所が親身になってその解決に奔走するという今では考えられない風景が見られた。ここでも何とか相手に喜んでもらいたいというホスピタリティが自然な形で提供され、その結果が家族や地域と言った組織の適切な維持をもたらしたと考えられる。 ちなみにこの頃から企業は大きく発展を始めるが、その原動力としてまず従業員に対するホスピタリティが最優先された。年功序列や福利厚生などと言った世界に誇る我が国の企業システムが徐々にでき上がっていった。「会社は誰のものか」などと言った愚問は欠片も見られなかった時代である。 このように数十年前の我が国はれっきとしたBtoB社会であったし、その中でのビジネスの原点は「ホスピタリティ」であった。

ヒゲ。

もうほとんどの人が持っているデジカメの性能は、毎年毎年いや毎月毎月技術革新が進んで、今では数百万画素と言う解像度も普通のコンパクトカメラで手に入れることができる。画素というのは、写真の画面を構成する色のついた「点」のことで、これが多いほど精密な画面、つまり綺麗な写真になるということだ。 このデジカメと同じような機能を持った動物が、ネズミなんだ。ま、最近はとんと街中では目にすることはなくなったが、それでも地下鉄のホームなんかでぼーっと立ってると、線路脇をちょろちょろ動く、イタチくらいのバカでかいネズミが、妙に懐かしい感触を呼び起こしてくれたりもする。 このネズミの顔には、実は数百本もの「ヒゲ」があるのだ。正確には顔に生えている体毛とは違って、「洞毛」と呼ばれる特殊な毛ですが、鼻の脇だけじゃなくて、目の上や喉などにも生えている。ま、顔中ヒゲだらけの異様な風貌と言えるのだが、見た目にはそれなりの可愛さ、もある。そしてこのヒゲの根元は100本以上の神経がつながっている。1本のヒゲに対して100本の神経が、ヒゲに加えられた圧力の強さや方向を察知するのだそうだ。しかも、それぞれの神経はネズミの脳の中にあるバレルと呼ばれる神経細胞の集団にひとつひとつつながっている。つまり、1本のヒゲに対して、ひとつの神経細胞の集団が100の神経から寄せられた圧力や方向などの情報を処理する、と言うわけなんだ。で、その結果は、というと、残念ながらネズミの友達もいないため、詳しくは本人から聞いたわけではないけれど、人間の持っている科学の知識から推測すると、おそらくは3次元的なかたちで、ネズミは自分の突っ込んでいる顔の周りの状況を立体的に把握できているのでは、ということになる。 数百本のヒゲについて、それぞれ100個の神経細胞が活動するわけだから、ざっと無意味な計算をしてみると、数万画素の撮像素子(CCD)を脳の中に持っていることになる。デジカメの数百万画素には遠く及ばないかも知れないが、こちらはなんと3次元映像だから、私だったらこちらの方が、欲しい。 ま、こうなれば目をつぶっていても、顔を突っ込んだだけで頭の中のディスプレイには周りの立体映像が映し出され、自分がその中に入っても安全かどうかがわかる、と言う便利な代物なのであります。 最近、やたらとヒゲを生やす人たちが増えてきたようだが、人間のヒゲは、他人が認めるかどうかは別にして権威の象徴であったり、何となく頼りない顔面に締まりを与えるワンポイントであったり、もうそろそろ歳だからそれなりの風格も必要だしという暖簾代わりだったり、病気で入院中に剃らずにいたら、思いがけずひげ面が自分に似合っているのを実感する棚からぼた餅であったり、どうも剃るのが面倒で、なんとなくこんな感じになっちゃったというなまくらであったり、といろいろその事情はあるでしょうが、けっして生死に関わるような重要なものでもないと思うのです。それに対してネズミのヒゲは、自分が生きていく上で欠かすことのできない環境センサーやレーダーの役割を持っているのだ。ネズミはヒゲの先っぽが触れる程度の穴や隙間であれば、それをくぐり抜けられるらしいし、さらには、このヒゲが物音などの低周波音を感じる振動センサーの役割も持っているとも言われている。まさに自分が生きていく上での必要な情報を、数百本のヒゲから集中的にキャッチしているのだ。 人間のヒゲには、見栄え以外の効果はあまりないけれど、実は人間の体毛も、ネズミには遠く及ばないにしても、微かな圧力や環境の変化なんぞをキャッチすることができるのだそうだ。驚いたり感激したりすると、鳥肌が立つとか言うけれど、たとえば人の気配なんかも、この体毛の根元にある神経で検知できるのだとか。ま、本当かどうか知らないけれど、どんな人でも電気を帯びていて、その人がある場所からある場所へ移動しても、先にいた場所にはその人の電気が少し残っていて、その残留電気を皮膚表面の体毛が感じとると、おや?ここには誰かいたな・・・と、気づくというのであります。少々オカルトの世界ではありますが、心霊スポットとかにいくと、ぞくっとして寒気がするというのも、もしかして体毛センサーが何かを感じとっているのかも知れません。これも人間に残された、数少ないセンサーのひとつでしょうね。 それはそれとして、デジカメの機能も、最近はカメラだけではなくて、携帯電話やパソコンのディスプレイなどにもついて、身の回り中カメラだらけだけれど、どうも最近はこの優れた機能を、間違った用途に使っている輩が少なくない今日この頃ですが、ネズミ社会では、ちゃんとその機能を自分の短い人生のために必死に活用しているのであります。ネズミからヒゲをとったら、もう生きていけない。ミッキーマウスはむしろ人間なのかも知れない。

欲望社会から課題社会へ(ASICA理論の新たな展開)

すでに紹介したように「課題」「解決」「検証」「承認」「行動」のプロセスをもつASICAモデルは、AIDMAのような消費者の購買心理ではなく、購買動機をモデル化したものである。AIDMAでは言うまでもなく消費者個人の購買にいたる心理を解き明かしているが、現在の社会において、この心理は果たして商品やサービスの購買に際して有効に作用しているのだろうか。確かにAIDMAにおけるAttentionやInterestは広告企画で最も重要視すべき課題かも知れない。しかし現在のようなメディアの発展による情報過密状態で、もはや流通情報量が消費情報量を大きく上回る状況、つまり情報の消化不良を来している現状では、いくらAttentionやInterestを重視してもそれにヒットする確率は極めて少ない。さらに問題なのは、我々はこの情報氾濫の中で、すでにAttentionやInterestと言った心の動きそのものがマヒ状態であるとも言えることである。 1950年代から延々と続いた消費文化は、物財や情報を多く取り込んだ結果として、今度はこれらとともに暮らす新たな課題を生み出した。たとえば、食に対する欲望から飽食の時代へと移り変わり、現在では美味しいものを食べたいという欲望よりもいかに健康を保てる食材を求めるか、と言う課題に。また、ネットワークの普及によって、より多くの人たちとコミュニケーションしたいという欲望から、ひとたび築いた自己のネットワークをいかにして維持していくか、と言う切実な課題が生まれてきた。現代は欲望社会から課題社会に変化し、今、一人一人がそれぞれに何らかの課題を背負いながら暮らしているのだと考えられる。したがって広告やマーケティングにおいて今後重要なポイントは、今までのようないたずらに購買心理を煽り立てるのではなく、これらの課題をいかに効率よく発掘し、それを共有し、新たなソリューションを提示するかと言うことが購買動機に繋がってくると考えるべきである。ASICAモデルの第一段階である「課題(assignment)」はこのような観点から取り上げた。

閑話、子育て。

感動的な出来事があったので、今回は動物センサーから少しずれるけれど、ちょっとムダ話をしてみます。
近くのお寺で毎夜、猫たちにお食事デリバリーをして、もう11匹の大集団になってしまった。時折遅刻してくるものや、お休みの猫もいるけど、ま、賑やかなレストランテのひとときを楽しんでくれている。不思議なもので、毎日ちゃんと決まった時間にお食事がもらえるとなると、ちょっと前までガサガサしてなんとなく落ちつきのなかった子も、見違えるようにお利口さんの礼儀正しい猫になってしまうのである。11匹の組織を上手く守っていくために、自然とリーダー役や世話役、争いの仲裁役なんかが決まってくるのだ。でもその中でも、いぜんとして自分を絶対に曲げない頑固な輩も、いる。ゴエモンというその猫は、容貌も不気味でとても普通の猫とは思えない大きな顔に、目と鼻ががさつについている。辺り構わずケンカを売ってくるこのゴエモンが来ると、他の猫たちは、まるでツチノコのように一斉に這い蹲ってその行動を注視するのであります。だからゴエモンだけは、みんなと少し離れた場所でお食事をとってもらうことにしている。
今から3ヶ月くらい前、リナという雌猫が1匹の仔猫を連れてきた。リナはそれまでそんなにお腹も大きくなく、ほとんど毎日お寺に来ていたので、その仔猫がリナの子かどうかは分からないけど、見た目にはほほえましい親子だ。初日から数日間、リナは決して仔猫を10匹の集団に近づけようとはせず、お寺の山門あたりに一人残し、自分だけ食事に来ていた。あまりにもかわいそうだと思って仔猫の近くに食事をもっていくと、恐る恐る口を付けるが、遠くからじっと見つめているリナの視線がある。やがてそれから数日たつと、こんどはレストランテと山門の中間当たりに仔猫を移し、自分もそこで食事をするようになった。というより、自分の食事を分け与えているような優しい素振りが伺える。食事が終わると、リナは仔猫の毛繕いに精を出し、仔猫はお母さんに甘えたいのが半分、他の猫たちと遊びたいのが半分、といったどこかぎこちなさげな様子。この仔猫にシジミという名前を付けた。
それから数日たつと、相変わらず食事の場所は同じだが、食事のあとのシジミの毛繕いが終わると、リナはシジミから離れていくようになった。シジミはどういうわけか、あのゴエモンがたいそう気になるらしく、彼の元に歩み寄ろうとするのだけど、ゴエモンが「なんか用か?。このチビ。」って様子で睨みつけると、シジミは一瞬でたじろいでしまう。このときもリナは数メートル離れたところから、じっとシジミの行動を監視している。言うまでもなく、11匹の猫たちの中で、唯一ゴエモンだけが不良というか、背中に入れ墨のごとくにマークされている注意人物なのだ。他の猫にはあまり気にしないリナが、ゴエモンだけにはいつも注意を払っているようで、必ずどんなときでもシジミとゴエモンの間に、リナがいる。
じつはこのシジミ、11匹の中のチッチという雄猫にそっくりなのだ。チッチはレストランテをはじめたときからのチャーターメンバーで、もう3年近くのつきあいになる。ちょうどシジミくらいの大きさの時だったな。よく眺めてみると、シジミとリナの関係以外に、必ずチッチが絡んでいることが分かる。ゴエモン包囲網の時も、リナはゴエモンとシジミの中間地点に位置し、チッチはそれとは90度位の角度を持ったところで監視をしている。ゴエモンが「もうワシは腹一杯。帰る。」といったときも、シジミとリナ、チッチの位置関係は微妙に維持されながら変化していくのだ。ゴエモンが去った後は、3匹でほんとに仲むつまじく食後のひとときを、まったりと過ごしている。雄猫は自分のこどもの面倒は見ない、とよく言われるが、この光景からは決してそんな風には思えない。お父さんの役割をきちんと果たしている。
そんな状態がひと月近くたった時、食事が終わってほとんどの猫が三々五々帰った後、シジミが一人で樹で爪研ぎしたり落ち葉で遊んでいた。ああ、やっと親離れしたんだな、と頼もしく思って眺めていると、背中の向こうで何やら気配がする。ん?、と思って振り返ると、10メートルくらい離れた暗闇で、やっぱりリナが監視していた。そしてよくよく見渡してみるとチッチも別の方向から。おもわず、あっゴメンね、と呟いてしまった。
あるとき、もう何もかもがおもしろくて仕方ないシジミが、他の猫同士がにらみ合いをしているその真ん中を、さっと通り過ぎた。「ね、みなさんケンカなんかしちゃだめですよお。」という風で、あるいは、「そんなに睨めっこしないで、僕と遊ぼうよ。」といわんばかりに足早に通り過ぎた。するとリナはおもむろにシジミに近づいて、猫パンチ1発。「あの人たちはね、今むつかしいお話しをしているの。邪魔しちゃだめ。」と無邪気なこどもを窘めるように。
またあるときは、「はやくちょうだいよお。おなかすいた。」とニャオニャオお食事を催促していると、「黙って待ってなさい。そんな声出すと怖いおじさんに見つかっちゃうから。」といわんばかりに、このときもリナが強烈な猫パンチ。よく、母親にちゃんと育てられた野良猫は、上手に道路を渡るので車に轢かれることが少ないけど、早くから母親と離れたこどもはそれが分からないから交通事故に遭ってしまうといわれる。こうして大人の社会に上手くとけ込んでいく術を、身をもって教えているんだな。
この3ヶ月間、よちよち歩きのこどもが、どのようにして一人前になっていくのか、そしてそのときの母親や父親の役割がどんなに大事なものか、知らされた。たぶんお寺に来た頃が生後2〜3ヶ月だから、今ではもう人間に直すと10歳近くになっているはずだ。まるで早送りのビデオを眺めているように、子育てで一番大切な時期を目の当たりにすることができた。食事が終わった後は、いつもリナやチッチのそばから離れなかったシジミは、今では他の猫たちとそれぞれに楽しそうな時を過ごしている。リナやチッチはまるで何事もなかったかのように、決してシジミの世界を侵そうとはしない。別に保育園にも幼稚園にも行っていないし、母親学校にも行っていない。生まれながらにして持っている、母親としての本能と、父親としての本能が、また新しい大人を育て上げたのだ。そして見事とも言える親としての引き際。
親離れのできないこどもや子離れのできない親。新聞を見ればこどもの虐待やいじめ。地下鉄に乗ればお年寄りをさしおいて、我先に席を取ろうとする横着なこども。こどもをほったらかして、パチンコに現を抜かす親。
動物的とか本能的とかといえばちょっとワイルドで、理性とは対極にあるような言葉だけど、むしろ動物にはそれこそ倫理をも含んだ論理的な生き方や生かし方が、その本能に備わっているのだ、と教えられた。

知能と知識、そして情報。

地球環境と対話する動物のセンサーについて考えれば考えるほど、ま、だいたい人間のセンサーは動物たちとくらべると、恥ずかしいくらいいい加減であることが分かってきた。そういえば、去年の冬は、いつになく寒かった。デパートなんかでも、冬物の洋服がどんどん売れて、日本のGDPに貢献したらしい。でも、こんなことやってるのは人間だけで、動物たちは寒かろうが暑かろうが自前の洋服をきちんと取り替えて、一年をうまく過ごしている。
洋服という人工物を作る知識と技術を身につけたから、自然との対話を忘れたとも言えるし、自然との対話と引き替えに、この技術を身につけたとも言える。どっちにしても、人間は自然とともに生きる動物に、なくてはならない自然の微妙な変化を感じとるセンサーを捨てて、合理的な代替物と共に生きる道を、選んだわけだ。
日常生活に一番身近な天気にしても、むかしなら、長老のおじいさんが、空を見上げて、ン?、明日は雨だ・・・といったら、たいがい雨だった。最近は人工衛星やコンピュータを駆使して、天気予報してるけど、残念ながらカエルの予報の方が当たってるような気がする。
おじいさんの天気予報とコンピュータの天気予報では、そのもとになる情報の量は格段に違う。というより質が違うのかな。おじいさんのは空を見て、雲を見て、風の流れを見て、ま、ほかに鳥やカエルやそこらにいる動物の動きを察知して、ン?明日は雨だ、となるんだけど、その頭の中は、おじいさんが生きてきた毎日の出来事がぎっしり詰まっていて、その情報と照らし合わせて天気予報しているのだろう。勘、といってしまえばそれまでだけど、じつはその勘こそがセンサーと同義語なのであります。そしてこの勘というものは、白か黒か、プラスかマイナスか、1+1=2といった、理屈にかなった見方とはまったく無縁の代物で、白みがかった黒であるとか、1+1=2.5かもしれないというような、ま、いい加減といえばいい加減な世界なのですね。
いいかえれば、コンピュータに何もかもお任せの今の時代に生きている人たちは、勘がにぶいともいえるわけですが、ほとんどの現代人からは、それがどうした、と開き直りのお言葉を頂戴するでしょう。
コンピュータが私たちの暮らしにあふれて、たしかに便利になった。とりわけ1995年頃から普及しだしたインターネットで、どんな情報でも自宅でせんべいかじりながら手に取ることができる。でもその一方で、どうも情報を処理する私たち人間の能力に、かげりが見え始めているらしい。
ここに面白いデータがある。総務省からだされた、「情報流通センサス」報告書を見てみると、インターネットが普及する前の1980年頃は、電話やテレビや新聞や、ま、ありとあらゆる情報の、一年間に発信された量が13.4京ワードだという。京というのは何も京都の略称ではなくて、いち、じゅう、ひゃく、せん・・・と進んでいって、兆の次の位のことで、ケイとよばれて10の16乗という膨大な数字になる。一方で、そのときに私たち人間が消費した情報量は、1.21京ワードだったので、10個にひとつくらいは選ばれて、自分の役に立つように使っていたといえる。このときはまだまだ人間の情報処理能力には余裕があった。でも、インターネットが普及しはじめた1996年頃では、情報量は43.5京ワードで、消費情報量は2.83京ワード。ま、20個にひとつとなりました。そして2003年にはなんと4,710京ワードの情報のうち、消費できたのは20.3京ワードということで、230個にひとつとなってしまった。人間の能力もたいしたもので、この間の情報処理能力は20倍に増えているけど、もうそろそろ限界に近いのだとか。
いいかえれば、1980年頃は、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、と10個いわれて、はいはいわかりました、それではご飯を、となって、ま、何とか余裕が持てた。それが今では、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、学校行きなさい、本を読みなさい、テレビを見るな、遊ぶな、こっちへ来い、と230個もいろんなこと言われて、もうシッチャカメッチャカのなかでなんとかひとつ選んでいる状態なんだ。
こんなに情報があふれた暮らしの中で、それこそ自然との対話なんぞ、しているヒマもないし、その間に私たちの勘はにぶり、センサーが衰退していくのであります。
実際、まわりを見渡してみれば、ここ十数年の間に私たちは、これでもか、といわんばかりの情報に囲まれ、知識も昔とは比べものにならないくらいに増えた。でも、たとえば、地下鉄の座席で周りの目もはばからず、ワシの足はこんなに長いんだ、といわんばかりに大きくふんぞり返っているオジサンや、世界は家庭の延長という感じで、わがもの顔で携帯電話に熱中する人など、けっしてモラルというか、人間の質みたいなものが良くなったとは思えない。
他人の微妙な心を感知できるセンサー、人を気遣うセンサー、こういったコミュニティーで生きていくのにだいじなセンサーの機能が、最近故障だらけというのも、地球環境の破壊と無縁であるとは思えないのであります。
以前、このコーナーで、一ヶ月くらい何も話さない、言葉を使わない状態を試してみたら、きっと私たちのセンサー能力がよみがえる、といったけど、同じように、一ヶ月くらい、ちまたの情報を遮断して、仙人気取りになってみるのも、いいのかもしれない、と思う。

渡り鳥とナビ。

冬の到来とともに、渡り鳥たちも気ぜわしくなってきているようですね。毎年きまったところに、きまった頃にやってくる。その数が環境問題のせいか、年々少なくなっているとはいえ、やっぱりきまった頃にやってくる。渡り鳥が、どうして行き先を判別できるのか、30年くらい前から研究されているのだが、まだはっきりとした結論は出ていないようだ。そんな中で、何となく、これだ、というのが地磁気説であります。多くの鳥には生体磁石、つまり身体の中に磁石をもっているらしく、これがコンパス代わりになって、方向が分かるのだそうです。身体の中に耳石器という器官があって、その耳石が磁性をもっている。これが地磁気の変化によって感覚細胞を刺激するのだ、とか。身体の中に、あの、磁石があること自体、大変不思議なのでありますが、実は多くの生物にその磁性体があることが分かってきています。有名なのは魚。サケが毎年同じ場所で卵を産むために帰ってくるのも、この磁石のおかげということです。ま、サケについては他に生まれ育った場所の臭いを記憶している、という説もありますが。
生体磁石の発見は、1979年に米国の大学生が海底の底に生息するバクテリアを見つけたことがきっかけといわれています。このバクテリアに磁鉄鉱を脂肪酸で覆った生体磁石の存在が分かったのです。磁鉄鉱なんぞ、地球上のどこにでもあって、それが海底の泥に生息する生物の身体に含まれる、と考えれば、そんなに不思議ではないですし、それと接する魚にも存在するのも、また、当たり前といえば当たり前です。ま、いわゆる食物連鎖のひとつなんでしょうか。
ところで、私たち人間の身体にも磁石があることをご存じですか。ひとつは脳下垂体という脳のちょうど真ん中あたりにある器官で、いろんなホルモンを分泌する重要な役割をもったところですが、この脳下垂体の前の方に磁気器官があるのだそうです。そしてもう一つは、脳の中央部にあるといわれる松果体という器官です。この器官は下等動物では第三の目といわれ、おもに光の明暗を感知するらしいです。鳥の松果体には時計機能も備わっていて、体内時計の調整にも使われています。人間ではここでも地場を感知することができます。さらには、人間の両目の間にある篩骨という骨にも、ごくわずかな鉄分が含まれていて、これが方位磁石の役割をしているとも言われています。こうしてみると人間も、なんだか磁石の固まりのようで、やっぱり地球人なんだな、と思ってしまうのであります。
最近は、なんとかナビといって、遠くに行くにも地図なしで、300メートル先右方向へ、といった音声ガイドが、もう生活の必需品のようになってしまって、そこらじゅうに地図音痴が増えていますが、もともと人間は鳥と同じように地図なしでも歩き回れる能力があったのですね。
鳥をはじめとした多くの生き物に磁石が備わっていて、磁石の親玉でもある地球と交信していたのは、まぎれもない事実ですが、渡り鳥の帰巣本能として地磁気説に異議を唱える学者もいるそうです。
ある学者が、意地の悪いことに鳥の頭に強力な磁石をくっつけて、わざと磁場の感覚を狂わせた実験をしたのですが、それでも鳥はきちんと方向を感知することができた、というのです。だから地磁気説は間違いだと。ま、どちらでもいいんですけど、実は鳥の目の中には櫛状体(しつじょうたい)という不思議な器官があります。字面からすれば、ちょうど櫛のようになった細胞とでもいうのでしょうね。ここで、映像をよりはっきりと見えるように調節するそうです。そしてこの器官を使って、なんと、昼間でも星座を見ることができるのであります。むかしNHKのウルトラアイという番組で、煙突の底から空を見れば、星座が見えるか、という実験があった。結果は残念ながら見えなかったらしいが、これは昼間、星を見にくくしている太陽からの散乱光をできるだけ少なくすれば、もしかして星が見えるかも、という期待から行われた実験で、ようは、煙突で散乱光を遮ってしまえば昼間でも星が見えるのでは、という理屈であります。鳥の場合は、櫛状体の櫛の部分で散乱光を遮って、星座を頼りに方向を察知しているというのがこの説。私は個人的には、この説の方がロマンチックで魅力的に感じます。
どの説が本当なのか、残念ながら我々人間の科学力をもってしても、まだ明確な回答は残せないままですが、自然と向き合っている生物には、ちゃんと生活していく機能がはじめから備わっているのですね。
たまには、ナビのお世話にならずに、気の向くままに生体磁石にでも頼って、歩き回ってみるのもいいかもしれません。

ちょっと植物について。

前回の猫の集会で、ふと、気になったことがある。集会が終わると、それぞれ思い思いにどこかへ去っていくのやら、適当な場所でくつろぎはじめるのだが、数頭の猫はお寺の大きな樹の下で、いっぷくしはじめる。丸くなって、ちょうど樹の根のへこみに、ちょこんと納まるぐあいに心地よさそうに。でも中には、じっと樹の幹の一点を見つめ続け、なにやら樹と会話でもしているかのような猫もいる。ま、たぶん、樹の幹に小さな虫なんかが動いているのでしょうけれど、もしかして、例のテレパシーで樹とお話ししているのかも知れない。
そういえば、親しくしているある大学の先生によると、植物はコミュニケーションをするらしい。人間社会でいう声に出して喋るのではないが、たしかに、会話するのだそうだ。今でもよく言われることだが、リビングで栽培している観葉植物に、今日は寒いけどがんばってね、と優しい言葉をかけると、生き生き育つといわれている。ま、真偽のほどはともかく、植物が人間の言葉を理解するというより、心を読み取る能力があることは否定できませんね。いやいやそんなバカな話はありませんよ、と科学者の皆さんはおっしゃるかも知れませんが、植物に読心能力がないことを、科学的に証明できないこともたしかなのであります。
猫が言葉を使わずに、お互いにコミュニケーションできるとすれば、猫は樹と会話していても、何の不思議もありません。
植物がほんとに声を出すのかどうか、よく分からないけれど、その先生によると、植物の体内電流だか生体電位だかをはかれば、確かに周りの仲間と会話しているような変化があるのだそうです。昔、小学生の頃、京都の糺の森(ただすのもり)の近くに住んでいた。この森は平安時代以前からあった古い森だが、夜になると、うっそうと茂った森の中へ、肝試しよろしくよく出かけたことがある。怖さ半分、好奇心半分の中に、ほんの少し、こんな真っ暗闇でもボクは怖くないんだぞ、とかすかなプライドを抱えて、外灯も何もない暗黒の別世界へ進むのであります。で、このとき、昼間ではほとんど耳にしない不思議な音が、しんと静まりかえった森の中で聞こえてきたのを今でも覚えている。虫の鳴き声や木の葉のこすれる音とはまったく別の、全宇宙的と言えるような不思議な音。もしかして、その音が、樹と樹の会話だったのかもしれない。
植物は、光合成といって、炭酸ガスと水から、酸素と栄養分を作りだす、素晴らしい能力を持っています。ま、要するに、自然の状態では空気中の炭酸ガスを吸い込んで、酸素をはき出す、という、動物にとってはまことにありがたい存在なのであります。が、人類の進歩と産業の発展によって、この植物の吸収量をはるかに超えた炭酸ガスが放出され、植物の宝庫でもある熱帯地方の森や林が伐採されて、炭酸ガスの吸収量が少なくなった。これが地球温暖化という、やっかいな環境問題ですね。つい先日もアメリカで、超大型のハリケーンが大きな災害を与えたけれど、地球温暖化がもっと激しくなると、台風やハリケーンの規模も、今では想像できないくらい巨大になるらしい。植物と台風、こんなところでも関係があるのですね。日本には、昔から全国いたる所に「鎮守の森」というのがあった。鎮守の森は神様がおられる森だそうで、みな大切に崇めてきた。地方に行けば今でも目にすることはあるけれど、都会では、もうほとんど天然記念物状態の稀少価値ゾーンといえます。この鎮守の森、そこに生えている植物はほとんどが「広葉樹」なんだそうです。広葉樹というのは、ドングリやブナのように、文字どおり、葉っぱの広い樹のことで、松や杉などは葉っぱが針のようにとがっているから針葉樹。じつは、光合成を一番効率的にするのは、この広葉樹なんです。葉っぱの面積が広いから、光合成作業も効率的にできるのはあたりまえといえばあたりまえですが、都市化によって、広葉樹をたくさん蓄えた鎮守の森が年々少なくなっていくのが、温暖化にも大きな影響を与えているのですね。最近は、鎮守の森の効果が見直されて、その再生活動が盛んになっていますが、いっぽうで熱帯雨林を守ろうとか、寄付金で熱帯に植林しましょうなどといったイベントをよく目にします。ほんとはもっと身近なこの鎮守の森や近所の森を守っていくことが、大切なのでは、と思うのであります。そうそう、植林といえば、あまり気づかない大切なことが、最近分かってきたみたいです。自然に生育している樹と、人工的に植林した樹とくらべてみると、光合成の能力に大きな差があるらしい。つまり、人工林の樹は光合成をすることはするが、バリバリの野性味豊かな自然林の樹の方がはるかに力強く光合成するんだそうです。やはり、過保護というか人工的に自然を作ろうとしても、自然は自然にしかできないのであります。先の大学の先生もおっしゃってましたが、自然林と人工林をくらべてみると、自然林の樹々は、あちこちの樹とダイナミックにコミュニケーションするけれど、人工林の樹は、ほんのお隣さんとだけしかコミュニケーションしないって。なんだか、最近の教育問題を象徴するようでもあります。
と、ここまで書いて、「動物センサー」のテーマから、かなり脱線していることに気がついた。調子に乗りすぎて「植物コミュニケーション」になってしまった。しかし、ですね、動物どうし、植物どうし、そして植物と動物のコミュニケーションも、それぞれがもっているセンサー能力が大きくものをいうのです。相手やまわりの状況を感知して、適切な行動をとるためのセンサーです。
たとえば、人間の目の感度は555ナノメートルの波長あたりが一番高いとされています。これはちょうど黄緑付近の色になります。逆に赤やオレンジなどでは、極端に感度が悪くなります。感度が高いということは、細かな色の変化を見分けることができる、ということですね。たぶん人類は、大昔、樹々の微妙な色の変化を見て生活に役立てていたのではないでしょうか。今でも長野県の山奥や、草原に行ってみると、まわりはほとんど緑で、5月頃には新芽が出てきて、緑の固まりの中にぽつぽつと黄緑色の集団が見える。赤やオレンジはまずお目にかかれない。古代の人類にとって、食物になる新芽を探すには、この黄緑付近の感度を強くしておく必要があったのだ、と思うのであります。
このように、動物はそれぞれに自然と共生するためのセンサー機能を持っていたはずですが、文明の進歩とともに、そしてセンサーに代わる道具の発明によって、とくに人類は、まったくおそまつなセンサー機能しか持たなくなった、と考えています。

猫の集会に参加した。

1ヶ月ほど前の土曜日、猫の集会に参加した。夜12時を少しまわった近所のお寺。人影もまばらで、あ、こんな風景もあったんだと、いつもと違う週末を楽しんだ。
じつは1年くらい前から、このお寺の猫たちに、毎夜お食事を届けている。ま、猫ちゃん相手のデリバリーサービスといったところかな。そんなことで、こちらの猫たちとは、ある程度顔なじみだけど、集会とやらには初めて参加させていただいた。
お寺に到着すると、もうすでに6頭のメンバーがそろっていた。お、もう会議はじまってるの、と思いながらも適当に空いた場所にしゃがみ込む。で、ここで肝心なのは、けっして猫の近くに寄りすぎないこと。2メートルくらいの距離を保ちながら、静かにしゃがみ込む。昔何かの本で読んだけど、動物には心地よい距離というのがあるらしい。体感距離とかパーソナルエリアと言われているもので、心理的に認められた概念上の空間なのです。これは当然人間にも当てはまって、見知らぬ人があまり近くにいると、なんだか気味悪くて落ち着かない感触。あれが体感距離を侵略されている現象なんですね。子供の頃、まだ舗装されていない地面に木の枝で丸く円を描いて、ここはボクの陣地だから入らないでね、と言って遊んだあれに近いものがある。この体感距離は親しい人ほど短くなるらしく、恋人同士だと、もうほぼその距離は限りなくゼロに等しくなるのであります。
ま、それはともかく、体感距離を守って猫たちの間に均等配置につきましょう。そう言えば6頭の猫もそれぞれ、1メートルから2メートルの距離を置いて均等に座っている。しかも、面と向かっては座らないんだね。お互いにあっち向いたりこっち向いたり、実にうまく乱数表のごとく着座している。人間社会では、会議はおろか人とお話しするときは、フェイス ツー フェイスで相手の目を見て喋りなさい、と教育されてきた。先生に質問されて、えーと、それはねえ、と余所見しながら答えたら、ちゃんとこっちを向いて喋りなさい、って叱られたことがあったな。でも、猫の集会ではけっしてフェイス ツー フェイスの光景は見られないし、議長も誰かわからない。いったい誰が司会してどんなお話しをしてるんだろう、と探ってみても全く不明。皆ずっと黙ったまま、箱座りしているものやら退屈そうに毛繕いしているもの、もうこんな会議はつまらん、と言った風に居眠りをはじめる輩もいる。30分ほどしたら別の2頭が遅れて参加してきた。いやあ、野暮用で遅くなって申し訳ない、と言ったそぶりもなく、やはり体感距離をきちんと守って着座。これでいつものフルメンバー勢揃いなんだが、会議が進行しているのかどうかもよくわからん。2時間くらいすぎた頃、1頭また1頭、と近くの木下や灯籠の下など、好みの場所に移動しはじめた。それじゃ、また、と言わんばかりに、そそくさとどこかへ行ってしまうものもいる。どうも会議は滞りなく終了した模様です。
こちらは2時間のあいだ、無言でずっとしゃがみっぱなしだったが、何か心地よい。無言の会議。果たして、この集会で皆何を話していたんだろう。テリトリー問題の調停なのか、食事の順番の決めごとか、たわいもない世間話なのか。人間社会では、おい、誰か喋らんと会議にならんぞ、と議長からお叱りを頂戴するところだが、猫の集会では、えー私の見解は、まあ、こういったことでありまして、いやいや仰るとおりでごもっともなご意見で、と言った社交辞令が飛び交うこともなく、極めて効率的に進行されているのであります。
人間は、言葉によってすべてのコミュニケーションを行っている。言い替えれば言葉なしでは、もう、コミュニケーションはとれない動物だとも言える。でも、この猫たちは、おそらくは無言で話し合ったに違いない。私も集会のあいだ、一所懸命、「この猫たちは何を思っているのだろう」とか「あんたはどこから来たの」と無言で語りかけていることに気がついた。猫の心の奥底を、必死になって読み取ろうとしている。もしかして、この行為だけでもコミュニケーションが成り立つのでは、と思ってしまう。
確かに猫や犬など、動物にはある種のテレパシー能力が備わっている、と言われている。飼い主の心や気持ちが理解できる、と言う話は何回となく耳にしたことがある。飼い主が猫を動物病院に連れて行こうと思っただけで、雲隠れしてしまう猫がいたり、外出中の飼い主の事故や病気を予知する猫がいることも、海外事例で紹介されている。その原因はまだわからないにしても、どうも人の心を読む能力は、確かにあるらしい。たぶん、猫の集会でも、言葉を使わずに心と心で十分なコミュニケーションをしているのでしょう。
人間が行う言葉を用いたコミュニケーションが、絶対正確なものとは言えないことは、「まあ、それは可能といえないといえば嘘になりますが、可能性の中にも不可能な要因が潜んでいると言うことでして・・」と言ったザ・政治家らしいお言葉や、会社と赤チョウチンでの会話のギャップをみれば、至極当然のことであります。また、真意とは裏腹に、相手の心を傷つけたり、誤解されたりするのも、言葉という道具の仕業なのです。
企業でも最近は、コミュニケーションの活性化とか、情報の共有化などといった大スローガンが溢れまくっているが、どうも人間社会では、このコミュニケーションというものを勘違いしているのでは、と猫の集会は教えてくれるのです。まず、「あいつはコミュニケーションが優れている」と言われる人物は、話し上手でいろんな情報をあちこちに発信するタイプを指すでしょ。でもね、これが違うんですよ。ほんとうにコミュニケーションで大切なのは、情報を発信することよりも、読み取る能力なんです。誰がどんな情報をほしがっているのか、を見分ける力。相手の心を読む力が大切だと思っています。とくに、現代のようにネットワーク社会になって、ケイタイやらメールやらで自由に会話できる便利な装置が氾濫しているときこそ、これが大事。
どうも私たち人類は、大昔、言葉を発明したときから、心を読み取るという、超のつく貴重な宝物を置き去りにしてきたようですね。今、テレパシーがどうのこうの真顔で論じると、ちょっと違った世界の人のように思われてしまう。山のてっぺんで深夜、輪になって手をつないで、さあ、宇宙人さんいらっしゃい、と言った類のそれみたいに。でも、先に書いた猫や犬の予知能力を見ると、確かに人間にもその能力は備わっていたはずだと思う。事実、虫の知らせや、第六感などがそれに近いものかも知れないけど、人間の場合は、赤ん坊にその痕跡が見られると言われている。言葉をはじめ、いろんな知識を身につけるのと引き替えに、こう言った大切な能力がだんだん退化してくるのだろう。
で、現実には不可能かも知れないが、例えば、1ヶ月間はいっさい喋らない、と言った体験をしてみるのも面白いかも知れない。言葉を使わないから、こちらから話しかけることはできない。相手の言葉をきくこともできない。ただひたすら相手の気持ちを探ろうとする。たぶん、1ヶ月後には人や自然の心を読み取ると言った力が、少しは頭をもたげてくるようにも思える。
環境問題に対しても、今、言葉が先行して、地球温暖化や自然との共生など難しい話をしないと、偉そうに思われないのだが、もっと大切なのは、一度言葉をやめて、どこまで自然と会話できるか自分自身で体験することだと思うのであります。
人間も自然の一部だとしたら、人間社会だけで通用する言語ではなくて、動物や植物が当たり前のように行っているコミュニケーションのカタチを研究することも、大きな課題なのです。と、猫の集会は教えてくれたのでありました。

地域ネコ地震予知ネットワークを考える。

猫が電磁波を感じて、地震の前に騒ぎ出す。これを利用した、というか、お世話になるとでも言える、地震予知ネットワークシステムなるもの、を考えてみた。我ながら、たいしたもんだ、と少々科学者気取りになっていたが、じつはすでにある大学で取り組んでいるらしい。
やれ花壇を掘り起こしたとか、フンがきたないとか、鳴き声がうるさいといって、人間社会に対する背任行為でもしているかのように見られているノラ猫。猫は、家畜の中でも、もっとも野生の習性を残している動物なのだから、まあ、大目に見てあげましょうよ。一方で、動物愛護の精神から、もっと地域に生息するノラ猫を手厚く保護していこうという動きもあるようだけど、よく考えてみると、それは地域社会の平和を保つために、猫たちをどのようにして管理するのか、といったあくまでも人間側の都合が先に立っているようで。ここでも、我が人類は地球上で最高の叡智を持つ存在なんだ、と言うおごりみたいなものが気にかかる。
ま、そんな人間のおごりも、一喝するような地震予知ネットワークなんです、これは。
日本全国に、いったいどのくらいの数のノラ猫が生息しているのか正確にはわからないけど、町中を散歩していても、一匹狼風の少し気取ったヤツとか、ちょっとガラの悪そうな怖いおにいさん風、よっこらしょといった肝っ玉かあさん風など。ひとつの町内に最低でも数十頭。そしてひとつの区には何千頭、と勘定していくと、もう頭がこんがらがって、えいっ、ニッポン全国何百万頭だ、と少々乱暴な予測をたててみたりする。
あの、「はい、今夜の関東地方は、南部では太平洋沿岸を進む低気圧の影響で曇りがちで、一時雨が降るかも知れません。」などというお天気おじさんで有名なアメダスも、全国で1300箇所と言うから、それをはるかに超える。このノラ猫たちに地震の予知センサーとして活躍してもらおうというのが、本ネットワークのねらいなのであります。
ところで、ノラ猫、とくに野良猫といった呼び方は、ちょっとぞんざいでヤクザっぽくて、世の荒くれ者みたいだから、地域ネコという風に、何となく社会との共生っぽいイメージを持つ呼び名に変わってきているらしい。ま、それはよいことですね。
その地域ネコすべてに、GPSつきの発信器をとりつけましょう。GPSというのは、そう、カーナビで随分お世話になり万人を地図音痴にするあれです。自分がいまどこにいるか、が即座に分かるこの最新技術を、猫の首輪と一体にできればよろしい。発信器を含めても、何これ、重いなあ、と猫に思わせないくらい軽量化と小型化がまず必要ですね。そのGPSネックレスを着けた猫たちからの位置情報を、地域ごとにネットワークで把握するシステムなのである。リアルタイムで送られてくる猫の位置情報が、ある限界、専門用語でしきい値というらしいのですが、ま、この限界を超えると猫が異常行動をしているのがわかるということです。そして地域ごとに地震予知警報を出す。
はじめのうちは、なんだ、またガセ情報か、こんな信頼できないシステムなんかやめてしまえ、などといったよくて当たり前式の非難の嵐でしょうけど、そりゃ、猫だって、気まぐれに暴れますよ。毎年2、3回恒例の種の保存行事に多忙ですし、たまには隣のテリトリーから来る不心得者のためにケンカすることもある。でも、長い年月かけて、異常行動の原因が地震の前触れ電磁波によるものかほかの要因なのか、データを積み重ねていけば、立派な予知システムに磨きをかけることができるのだ。人間や社会に大きな被害を与える大地震は、数十年か数百年に1回といわれています。ということは、このシステムの完成に数十年かけても、どこからも非難されることはない。
これが完成すれば、もう野良猫はノラ猫でも地域ネコでもない。人類の安全や財産を守る貴重な存在としてその立場を変えてくる。人はこうして活躍してくれる猫たちに敬意を表するでしょうし、猫も思うがままに遊び回れる。これがほんとうの共生なのだ、と考えるのであります。
今回の予知システムは、とりあえず、猫だけれど、ナマズや犬なども可能性はある。でも、ナマズは生息地が限られているし、野良犬はちょっと怖い。ま、そんなことで、ここはひとつ猫の超能力のお世話になりましょう。
こうして考えてみると、冒頭の「動物愛護精神」。ちょっと逆かも、と思ってしまう。この地震ネットワークに限らず、猫や犬の超能力で人が助かった、と言ったお話しは山ほどある。ときどき、人は地球上の動物や植物に生かされているのでは、助けられて生きているのでは、と考えることがある。最近のペットブームをよく見てみると、どうも動物愛護ではなくて、人間愛護のためにペットたちががんばってる、と思えなくもないですね。
大上段に構えて、動物愛護を唱えるのではなく、私たちをサポートしていただくために、生き物たちに敬愛の念をもって接しましょう。こんな視点に変えることが、これこそがほんとうの自然との共生といえるし、また自然や環境とのかかわりも変わってくるかも知れない、と最近感じるのであります。

スマトラ沖地震から学ぶもの。

ちょうど5年前の今頃。いつものように時を過ごし、さあ、来年はどんな年になるのかなあ、とちょっとあわただしくなった心の整理をはじめようかと思った矢先、スマトラの沖合で大きな地震がおこった。そして、後を追うように発生した大津波は、新年を新たな気持ちで迎えようとしていた、多くの人々や町並みや自然を、一気に飲み込んでしまった。
今なお、行方が知れずに見つからない気の毒な人たちが多くいる中で、なぜか、象や野ウサギなど動物たちはほとんど犠牲になっていないらしい。まったく信じられないことだけど、中には長い鼻で人を抱え上げ、そのまま一緒に丘へ向かって逃げ上がった象もいたとは。いざとなったら、動物たちは、我が身をかえりみず、人間を助けるんですねえ。どんな心境なんだろう、と思う。
なぜ多くの人たちが犠牲になったのに、動物たちが無事だったのか。これには、将来の人間社会、いや、地球全体の自然も含めた、むつかしくいえば生態系というか、要するに、これから人間が考えていかなければならない大切なことを、示しているといえるのです。
昔からよくいわれていることですが、ほとんどの動物には、何というか、センサーみたいな機能が備わっていて、自然でおこるいろんな現象がキャッチできるんだそうです。そう、定番はナマズですね。地震がおきる前に、ナマズが騒ぐというのは、むかし、おじいちゃんから聞いたような。動物たちは、たぶん、あたりまえのように、このセンサーを活用して、自然とお話ししているのでしょうけど、人間の側から格好よくいえば、「生きるために備えられた生命維持システムのひとつ」、なのでしょうか。たとえば、スマトラ沖地震の象は、津波によって生まれる超低周波を感じとったのでは、といわれています。ふつう低周波というのは20ヘルツ程度の音というか、空気の波なのですが、ドドドっと、半分聞こえるような聞こえないような、気持ちの悪い音です。工場のボイラなどから発生して、低周波問題として住民訴訟にもなっているあれです。津波の場合は、これに超がつく。10ヘルツの音波で人間にはまったく聞こえないし、これを察知して、いち早く逃げるなんて、とうてい人間にはできません。
あっ、そうだ。そういえば、阪神大震災のときも、猫や犬が地震のおきる少し前に、いつもと違った動きをしていた、と聞いたことがある。実際、身近なところでも、わが家のニャンチャンが、あの新潟県中越地震の10分前に、妙に怖じ気づいたそぶりをして、部屋の片隅でうずくまって、心配したことがあったな。あれ、電磁波感じていたんだね、きっと。まあ、こんな話、あちこちでいっぱいあるんだろうな。
猫が、地震の前触れとなる岩盤の破壊によっておきる電磁波(ようするに電波)を、感じることができるのだ。この電磁波の波長がどのくらいで、とか、むつかしいことは専門家でないのでよくわからないけれど、ちょうどいま、インターネットで検索してみたら、3月20日に発生した福岡県西方沖地震の数日前に、電磁波(FM波)が急増している、と警告されている。すごいね、地震がおきるらしいということは、ある程度事前にわかるんだね、もう。でも、残念なことに、どこでおきるか、いつおきるか、がまだ判定できないらしい、
地震は、言いかえれば地球の息吹であり、永遠に地球が存在する限りは、逃れられない自然現象なのです。地球が生きている証拠といえるかも知れません。地球には、多くの自然が満たされ、人もまたその一員でもある。地球環境問題を考えるとき、この自然とのかかわりを抜きにしては絶対に成り立たないでしょうし、自然とのかかわりを考えるとき、動物たちの行動が、大きなヒントを私たちに与えてくれるような気がするのであります。「地球に優しく」とか「自然との共生」など、あちこちの広告やテレビコマーシャルやらで大合唱ですけど、どこまで自然とのかかわりを真剣に考えているのかな。
これからしばらく、この場をかりて、動物や植物の生まれながらにしてもっている、自然とのコミュニケーションの装置とでも言えるセンサーを通して、環境問題とともに、私たちはどこに行くのか、を考えていきたいと思っています。


ASICA(アシカ)モデルの提唱---企業購買プロセスから見た、BtoB広告のための新たな理論(1/4)

-AIDMAからASICA-

1.AIDMA理論の功績

広告宣伝業務に従事している誰もが聞き慣れたこの「AIDMAモデル」は、1920年代に米国のサミュエル・ローランド・ホールによって提唱された消費行動プロセスに関する仮説とされている。A(attention・注意)I(interest・興味)D(desire・欲求)M(memory・記憶)A(action・行動)の各段階を経て消費者は商品を購入するというこのモデルは、広告企画やマーケティングのバイブルとして、永年にわたって確固たる地位を保ってきたといえる。

2.マーケティングパラダイムの変化

しかし近年、AIDMAモデルが提唱する消費行動プロセスを疑問視する向きが見られる。いわゆる「広告が効かなくなった」という声を制作者側からも広告主側からも多く耳にするようになってきた。この理由についてはいくつか上げられるが、最も大きな要因のひとつは、まずマーケティングパラダイムの変化が考えられる。AIDMAが提唱された1920年代からおよそ1990年頃までのマーケティングパラダイムは「刺激反応型パラダイム」と言われている。ここではとにかく広告やプロモーションにおいて最も重要視されるのは、オーディエンスの興味をそそるような刺激的なキャッチコピーやビジュアルであった。つまりAIDMAで言うところのAttention」と「Interestをどのように展開させるのか、が広告制作での妙味でもあった。そして刺激的な広告に触発されたオーディエンスは、購買意欲に我慢できず我先に商品の購入へと走った。そんな時代だった。しかし、1990年頃からパラダイムは大きく変化する。我が国ではちょうどバブルの崩壊と時を同じくしているが、何よりも「もの」と「情報」の急速な氾濫は、我々の消費行動自体にも影響を与えることとなる。「もの」に充足し有用無用の「情報」に埋没した状況の中で、もはや消費者は奇をてらった広告やメッセージではまったく反応しなくなった。今何が必要か、自分にとって必要な価値とは、と慎重に考えるようになってきた。「価値交換型パラダイム」の誕生である。ここでは商品や情報などの「価値」が本当に自分にとって意味があるものであるか、を十分検討した上で購買意思決定を行う。にもかかわらず、現在でもAttentionInterestに軸足をおいた広告が多く目につく。今の時代ではもっと消費者にとっての「価値」を丁寧に述べる広告でないと、ものは売れない。

3.ネットの普及による購買プロセスの変化

もう一つの大きなポイントは周知のようにインターネットの普及によるコミュニケーション形態の変貌が上げられる。単にメディア論として新聞広告などの印刷メディアよりもネット広告の方に効果が出てきたというわけでなく、あらゆるメディアを相互に確認して、そこから「必要な価値」を見いだすという行為が消費者側で行われるようになった。ここでも「Attention」や「Interest」の段階はほとんど飛び越して「調査・比較・検討」といったプロセスをほぼ同時に行っていると見られる。ネット時代の消費プロセスモデルとしては電通が提唱している「AISASAttention/Interest/Search/Action/Share)」がある。ここではネット特有の商品検索や情報共有を購買プロセスの一段階として捉えているが、あくまでもネットに限定したものと理解している。

4.情報流通センサスに見るコミュニケーションの変化

ところで総務省が毎年発表している「情報流通センサス(情報白書)」を眺めてみると、そのデータから興味深い予測が成り立つ。この調査は一年間に流通する情報量(選択可能情報量)や一年間に消費する情報量(消費情報量)などが時系列で表してある。図に示すようにインターネットが普及しだした1995年では、年間情報量が38京(1016乗)ワードであり、それに対して一年間で消費した情報量は2.3京ワードである。つまり選択可能な情報から我々は1/16.5を何かのために消費したことになる。それがブロードバンドの普及によって、2005年には15.500京ワードと10年間で400倍以上の膨大な量の情報が流通し、消費したのは僅か30.6京ワードとなる。よって情報消費量は1/506となり、ほとんどの情報は残念ながら消費しきれていない状況となっている。今後ますますこの傾向は増加拡大すると予測できるが、要はすでに我々はその処理能力をはるかに超えた氾濫情報の真っ只中に立たされているということだ。この現状でいくら「Attention」や「Interest」を期待して一方的に広告を発信しても、メッセージがオーディエンスに到達する可能性は極めて少ないと言わざるをえない。このような極端な情報過多時代にあっては、もはや「Attention」や「Interest」を求めること自体にかなりの無理があると思われ、ひいてはこれが広告による引き合いや受注の確度を下げてしまっていると予測できる。

以上のことから、AIDMAモデルは1990年代以前はともかく、それ以降の広告企画においてはかなり無理のある法則と捉えることができる。

さてBtoB広告やマーケティングにおいては、従来からAIDMAのような独自の法則は存在しなかった。というよりむしろBtoB広告においても、歯切れが悪いと思いつつAIDMAモデルをそのまま流用せざるを得なかったのが実情だろう。

 

ASICA(アシカ)モデルの提唱---企業購買プロセスから見た、BtoB広告のための新たな理論(2/4)

5.BtoBとBtoCの違いはどこにあるか

ここで、BtoBとBtoCの違いを今一度考えてみたい。一般的にはBtoBは組織対組織取引、BtoCは組織対個人取引と見なされている。取引形態から見れば妥当な捉え方ではあるが、そもそも組織自体にコミュニケーションスキルが存在するのか、という疑問がわいてくる。組織といえども結局のところその組織に所属する個人から別の組織に所属するの個人へのコミュニケーション形態ということになる。つまるところ、BtoBであってもBtoCであっても結局は個人対個人(PtoP)コミュニケーションという様式が浮かび上がってくる。ただ重要なのは「B」は個人によって構成されているとしても、それは「組織人」としての個人であり決して市井人としての個人ではない。もっとも組織自体に個人と類似した心理や意識が存在することも考えられ、じつのところこの研究は筆者の最大の課題でもあるが、これについてはまた別の機会に述べてみたい。 このようにコミュニケーション形態から捉えた場合、BtoBは組織人対組織人、BtoCは組織人対市井人という見方が正直なところだろう。

6.購買プロセスモデルからみたBtoBとBtoCの違い

そしてこの「組織人」がもつ特殊性こそが、新たな広告モデルの構築に大きなヒントを与えてくれる。これをわかりやすく理解するために、BtoBとBtoCの違いを、もう一つの側面から考えてみよう。 上述のようなコミュニケーション形態の違いではなく、商品やサービスの購買資金からその違いを見てみると明確な結論が得られる。 ある商品を購入する場合、BtoCでは当然のことながらその購入資金は個人の金であり、その使途については当該個人の裁量に任される。AIDMA理論でいうところの「A」で注目し、「I」でその商品に興味を感じ、「D」で欲しいという気持ちが表れればいとも簡単に購入(A)できる。それが衝動買いかどうかは「D」の記憶段階でどれだけ購入検討がなされるかによって決定されるが、いずれにしても欲しい商品は自らの決断(決裁)で購入できる。これらの購入プロセスで最も大きな役割を果たすのが個人の「欲しいという気持ち」であり、それを補足する要素として資金力がある。昨今のカード決裁の増加を見れば、資金力はさておき「欲しいという気持ち」が断然優先され、そこには経済合理性はほとんど無視されるケースも多く見られる。だからこそ最近ではマーケティング分野において、個人の「気持ち」の側面からアプローチを試みる「神経経済学」や「ニューロマーケティング」が注目されているのである。 一方BtoBではどうだろう。商品の購入資金は個人ではなく「組織(会社)の金」である。当然組織の金は当該年度の予算という形で厳重に管理されている。いくら組織を構成する個人が「欲しい」と思っても、そう簡単に購入できるわけではない。というより、そもそも個人が購買決定を行うのではなく、組織としてその商品が必要かどうかに基づいてなされることになる。この段階では経費や固定資産などの予算はもとより、その商品を購入することによるメリットが様々な側面から検討されることになる。そして十分に経済合理性(効率)がもたらされると判断されて、ようやく購買決定となるわけである。ここで組織として検討・決定するということは、そのプロセス上で複数の個人が参画し、それぞれに関連する分野から商品購入の妥当性について決断を下すことになる。そのためにBtoCではまったく見られないBtoBの特性として「承認・決済」というプロセスが生じてくる。しかもこの「承認・決済」はほとんどの場合、商品を「欲しい」と思っている個人とは別の個人が行うことになる。ここにBtoCとBtoBを明確に差異化する要素がある。つまりBtoBにおける「組織人」はBtoCでの「個人」とはまったく異なり、商品の購入意欲(物欲)はほとんど表には出ず、常に組織を構成する他の個人の意見や予算、承認などを意識せざるをえないと言うことになる。これが「組織人」の特性である。いわばこのプロセスは「企業購買のプロセスモデル」と理解することができ、AIDMAの「消費者心理プロセス」とはまったく異なるものである。

ASICA(アシカ)モデルの提唱---企業購買プロセスから見た、BtoB広告のための新たな理論(3/4)

7.企業購買プロセスのモデル化

 「消費者心理プロセス」としてのAIDMAは、冒頭に記したように主にBtoC分野での広告企画において今まで多くのヒントを与え、広告の質的向上に貢献してきた。それに対してBtoB分野での「企業購買プロセス」は明確にモデル化されておらず、このことがBtoBコミュニケーションやプロモーションを行うにあたって様々な錯誤をもたらしてきたように思える。ここでBtoCとはまったく異なる「企業購買プロセス」を様式化し、BtoB広告の発展に寄与できることを念じて、あらたなモデルを提唱してみたい。 その前に「企業購買プロセス」の各段階について考えてみよう。

①企業購買プロセスにおける課題(assignment)段階

AIDMAでは消費者心理プロセスのトリガーとなるべき段階が「注意(attention)」にあることは前述の通りである。これに対して「企業購買プロセス」では各企業や組織が抱える様々な「課題(assignment)」がそれにあたる。ひと頃、商品開発や広告分野で「ニーズ」という言葉が流行した。市場のニーズとか企業のニーズなどといって、各企業が何を欲しているのかを見極めることが重要だと唱えられた。それ自体は決して間違いではないが、「ニーズ」と「課題」には微妙な開きがある。ニーズはどちらかというと今現在何を必要としているかが重要視されるが、課題とは現在のみならず将来どのような問題が生じるか、を予測することも含まれる。ここで重要なのは、ニーズは各企業とも今の時点でも把握している事柄であるが、課題は場合によれば企業が把握し切れていない将来起こるであろう事柄も含まれているということである。これを精査することがBtoBマーケティングでは非常に重要な要素となる。 個人を対象にした消費喚起は、何よりもまず商品が注目され消費者の注意をひくことが重要であるのに対し、企業購買においては各企業が抱えるであろう課題をあらかじめ熟知(予測)し、それに明確に答えるメッセージが必要となる。単なる「目立つ」「おもしろい」だけでは個人はともかく企業は振り向こうとしない。すべてが経済合理性の元で運営されている企業にとって、抽象的・心情的な仕掛けは通用しないのである。

②企業購買プロセスにおける解決(solution)段階

そしてこの課題に端的に応える、あるいは提案することが次の「解決(solution)」段階となる。「解決」は課題に対して多様な側面からその対応策を提案することであり、おそらくマーケティングにおいて最も重要な段階だといえる。そしてじつはこの解決に説得力を持たせるのが、先の段階である課題をどの程度把握しているか、にかかわってくる。つまり「課題」と「解決」は一体あるいは連携して捉えられると理解できる。この解決のメッセージが広告において明確に伝えることができれば、逆に企業側(顧客)に新たな課題を気づかせ、そこから顧客の信頼を得ることも可能になるかもしれない重要な段階なのである。くどいようであるが良い解決策を提案できるのは緻密な課題把握にあることを忘れてはならない。

③企業購買プロセスにおける検証(inspection)段階
その次の段階は「検証(inspection)」である。課題に対する解決策が提示された後、企業ではその策が本当に有効かどうかあらゆる側面から検証される。いうまでもなくここでは解決策導入に際するコスト効率を中心に多様なデータが求められてくる。この段階は一見顧客企業内部での作業のように思えるが、ここで広告主側は手を抜くわけにはいかない。顧客企業での検証作業に即座に対応できるテータの提供やアプリケーションの提示が必要となる。この段階で特に注意が必要なのは、顧客企業が検証を行う際ネットを利用する場合である。たとえば検証途中でライバル企業のデータがより充実し、なおかつ優位でることが判明すれば、顧客企業はその時点でライバル企業の商品の採用に動くきっかけとなるからである。人的交流中心の閉鎖された過去のBtoBスタイルとは違って、現在はネットによっていつでもライバル企業の情報が入手できる状況であることを念頭に置いておくべきだろう。 具体的にはこの段階になったと思われた時点で、たとえばデータ集やコスト効率計算書などの提示を行うことが考えられるが、ともかく常時WEBサイトで関連情報を公開しておくことが基本であろう。

④企業購買プロセスにおける承認(consent)段階

そして検証が終了した次の段階が、BtoBの特性である「承認(consent)」段階となる。ここでいう承認とは稟議書などによる書類上の承認に限らず、同僚や上司の「同意」も含まれる。読者のみなさんも心当たりがあると思うが、承認を得る際、機械的にハンコを押してもらう前に上司や周囲の人間に同意を得ておくことは欠かせないポイントとなる。この段階はまったく広告主側は関知できないように思えるが、じつはここでもやるべきことは、ある。 往々にして購買商品の申請者と承認者(決裁者)は異なり、決裁者はこの段階で初めて商品情報を目にすることも少なくない。しかも購買担当者とはまた違った視点で商品の優位性やコスト効率を検討することになる。したがって担当者向けの情報ではなく、マネジメント向けのドキュメントや当該商品の導入事例など、決裁者の判断材料となる情報をこれでもか、といわんばかりに提示することを忘れてはならない。さらに、担当者が決裁者に承認を得る際、もしかすると役員会や部会などでプレゼンテーションを行うことも考えられる。それに対応する形でパワーポイントのファイルなどをあらかじめ担当者に提示しておくことは、承認を有利に進めるだけでなく担当者から信頼を得るきっかけにもなると思われる。このように商品購買のほぼ最終段階であっても、決して手をゆるめることなく、最良の結果をめざすために様々なプロモーションを行うことが肝要だろう。
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★プロフィール
河内英司(かわちえいじ)
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京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
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