地球環境と対話する動物のセンサーについて考えれば考えるほど、ま、だいたい人間のセンサーは動物たちとくらべると、恥ずかしいくらいいい加減であることが分かってきた。そういえば、去年の冬は、いつになく寒かった。デパートなんかでも、冬物の洋服がどんどん売れて、日本のGDPに貢献したらしい。でも、こんなことやってるのは人間だけで、動物たちは寒かろうが暑かろうが自前の洋服をきちんと取り替えて、一年をうまく過ごしている。
洋服という人工物を作る知識と技術を身につけたから、自然との対話を忘れたとも言えるし、自然との対話と引き替えに、この技術を身につけたとも言える。どっちにしても、人間は自然とともに生きる動物に、なくてはならない自然の微妙な変化を感じとるセンサーを捨てて、合理的な代替物と共に生きる道を、選んだわけだ。
日常生活に一番身近な天気にしても、むかしなら、長老のおじいさんが、空を見上げて、ン?、明日は雨だ・・・といったら、たいがい雨だった。最近は人工衛星やコンピュータを駆使して、天気予報してるけど、残念ながらカエルの予報の方が当たってるような気がする。
おじいさんの天気予報とコンピュータの天気予報では、そのもとになる情報の量は格段に違う。というより質が違うのかな。おじいさんのは空を見て、雲を見て、風の流れを見て、ま、ほかに鳥やカエルやそこらにいる動物の動きを察知して、ン?明日は雨だ、となるんだけど、その頭の中は、おじいさんが生きてきた毎日の出来事がぎっしり詰まっていて、その情報と照らし合わせて天気予報しているのだろう。勘、といってしまえばそれまでだけど、じつはその勘こそがセンサーと同義語なのであります。そしてこの勘というものは、白か黒か、プラスかマイナスか、1+1=2といった、理屈にかなった見方とはまったく無縁の代物で、白みがかった黒であるとか、1+1=2.5かもしれないというような、ま、いい加減といえばいい加減な世界なのですね。
いいかえれば、コンピュータに何もかもお任せの今の時代に生きている人たちは、勘がにぶいともいえるわけですが、ほとんどの現代人からは、それがどうした、と開き直りのお言葉を頂戴するでしょう。
コンピュータが私たちの暮らしにあふれて、たしかに便利になった。とりわけ1995年頃から普及しだしたインターネットで、どんな情報でも自宅でせんべいかじりながら手に取ることができる。でもその一方で、どうも情報を処理する私たち人間の能力に、かげりが見え始めているらしい。
ここに面白いデータがある。総務省からだされた、「情報流通センサス」報告書を見てみると、インターネットが普及する前の1980年頃は、電話やテレビや新聞や、ま、ありとあらゆる情報の、一年間に発信された量が13.4京ワードだという。京というのは何も京都の略称ではなくて、いち、じゅう、ひゃく、せん・・・と進んでいって、兆の次の位のことで、ケイとよばれて10の16乗という膨大な数字になる。一方で、そのときに私たち人間が消費した情報量は、1.21京ワードだったので、10個にひとつくらいは選ばれて、自分の役に立つように使っていたといえる。このときはまだまだ人間の情報処理能力には余裕があった。でも、インターネットが普及しはじめた1996年頃では、情報量は43.5京ワードで、消費情報量は2.83京ワード。ま、20個にひとつとなりました。そして2003年にはなんと4,710京ワードの情報のうち、消費できたのは20.3京ワードということで、230個にひとつとなってしまった。人間の能力もたいしたもので、この間の情報処理能力は20倍に増えているけど、もうそろそろ限界に近いのだとか。
いいかえれば、1980年頃は、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、と10個いわれて、はいはいわかりました、それではご飯を、となって、ま、何とか余裕が持てた。それが今では、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、学校行きなさい、本を読みなさい、テレビを見るな、遊ぶな、こっちへ来い、と230個もいろんなこと言われて、もうシッチャカメッチャカのなかでなんとかひとつ選んでいる状態なんだ。
こんなに情報があふれた暮らしの中で、それこそ自然との対話なんぞ、しているヒマもないし、その間に私たちの勘はにぶり、センサーが衰退していくのであります。
実際、まわりを見渡してみれば、ここ十数年の間に私たちは、これでもか、といわんばかりの情報に囲まれ、知識も昔とは比べものにならないくらいに増えた。でも、たとえば、地下鉄の座席で周りの目もはばからず、ワシの足はこんなに長いんだ、といわんばかりに大きくふんぞり返っているオジサンや、世界は家庭の延長という感じで、わがもの顔で携帯電話に熱中する人など、けっしてモラルというか、人間の質みたいなものが良くなったとは思えない。
他人の微妙な心を感知できるセンサー、人を気遣うセンサー、こういったコミュニティーで生きていくのにだいじなセンサーの機能が、最近故障だらけというのも、地球環境の破壊と無縁であるとは思えないのであります。
以前、このコーナーで、一ヶ月くらい何も話さない、言葉を使わない状態を試してみたら、きっと私たちのセンサー能力がよみがえる、といったけど、同じように、一ヶ月くらい、ちまたの情報を遮断して、仙人気取りになってみるのも、いいのかもしれない、と思う。