河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

WEBサイトでの映像表現について

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ②
 

《質問》

最近WEBサイトで映像や動画を利用するケースが多くなってきているように思います。しかし映像は通常のホームページにくらべてコストもかかり、その費用対効果に疑問があります。今後WEB上でどんどん映像が多くなっていくのでしょうか。WEBサイトでの映像表現の効果とその取り組み方についてご教示ください』(建設機械メーカー)

 

《回答》

今後WEBサイトは間違いなく映像主体のメディアに変革していくと思います。極論を言えばWEBサイト自体がテレビ局のような役割を演じるようになってくると考えています。

しかしこの前途洋々の映像がまだまだWEBサイトで本格的に普及していないのには大きな理由があります。最大の理由は、ご指摘のようにWEBでの映像の効果が明確でないことです。さまざまな効果測定手法があるにせよ、問題は効果云々以前にコンテンツの質の問題があまり議論されないことです。

よく耳にするのはビデオや映像は長くても数分程度、WEB上では1分前後でなければ見られない、と言うことです。人間の集中力が維持できるのがせいぜい10分から15分だと言われているのがその根拠になっているようですが、私はこの説にはまったく同意できません。

よく考えればこの理屈には大きな落とし穴があることが分かります。つまり、集中力が10数分しか持たないからそれ以内にしなければならないとか、WEBでは1分以上は見てもらえないなどと言うのは、そもそも見るに値しないコンテンツであることを自ら認めているのです。だから何とか見てもらうために尺(所要時間)を短くすべきだと。

映像メディアに対する捉え方は本来まったく逆に考えるべきです。見たくもない映像を見せるのではなく、どうしても見たくなるコンテンツを作り上げること。そうすれば30分であろうが1時間であろうが見てくれるはずなのです。興味がある映画ではだれもが2時間という長時間でも苦になりません。したがってまず質の高い映像作品をめざすことが重要になります。

一方情報量の面から見ても、映像は静止画とテキストにくらべて格段に優位性があります。単にビット算出してファイルのデータ量が大きいというのではなく、映像には意識的にも無意識的にも知覚させる要素が数多く詰め込まれています。たとえば原稿用紙1枚の文章を読むのにおよそ1分かかりますが、映像とナレーションでその内容を表現すれば長くても30秒足らずで事足ります。複雑な内容であればあるほどこのギャップは大きくなります。つまり文章では読みながら読者はイメージを描く労力が必要ですが、映像ではすでにイメージは提供されナレーションがそれを補強しているからです。こうして考えてみると、難解なBtoB製品でこそ映像の果たす役割は大きいと言えます。

このようにWEBサイトで映像が普及しない理由、そして効果が見られない理由は自ら長時間の映像は見てもらえないと勘違いし、安易な短尺(1分程度)の映像でお茶を濁しているからに他なりません。この安易性に拍車をかけているのが、広告やカタログ編集でのDTPと同様に、PC上で誰でも簡単に映像編集が可能になったことです。さらに機材も従来にくらべると格段に高性能化され価格も安くなりました。そして最近では一眼レフカメラで動画も撮影できてしまいます。

このような安価な機材と簡便な編集ソフトによって誰もが映像制作に取り組むことができ、結果的に質の悪い映像作品を生み出しているとも言えます。

では質の高い映像とはどのようなものでしょうか。ここでPV(プロモーションビデオ)の話しをしてみたいと思います。尺の短い映像の代表格がPVと言われるプロモーション用のビデオですが、そもそもこれは音楽産業での曲のプロモーションとして発展してきました。言うまでもなくこのビデオの視聴者は音楽を聴くのが主目的であり、音楽から想起されるイメージをより増幅するために映像化するものです。つまりイメージの軸がすでに音楽として存在している状況で映像を作り上げるわけですから、かなり抽象的な映像でもイメージとリンクすることが可能になります。

じつはこの短尺のPVを企業PRや製品PRの参考として捉えられている節が多く見受けられます。訳の分からないイメージビデオがその最たるものですが、映像プロダクションなどでも音楽PVを参考にして一見高級そうな映像を作るところがあります。しかし、音楽のそれとは異なりイメージの軸がそもそもありませんから、いくら格好いい映像を作ってもほとんど見る人には理解されないのです。これが映像はイメージ先行で効果が把握できないと言うことに繋がってくるのです。

これを避けるためにはまず綿密なシナリオが不可欠になります。とかく映像は映像プロダクションに任せて撮影から入りがちですが、まずシナリオをきっちりと書き上げることが重要です。その次にシナリオを映像化するための絵コンテを作り、最後に撮影、編集というプロセスを踏むことになります。シナリオの段階で、どのようなカットをどんなアングルで撮影するのか、その時間はどのくらいかなど明確に決めておく必要があります。とりわけBtoB分野では難解な製品や部品が多く出てきますので、その見せ方は充分工夫することが重要です。

もう一つ重要なポイントは最近の映像作品にはスーパーが多用されていることです。ナレーションで話している内容をわざわざスーパーで流したり、ナレーションとは関係のない文言をスーパーインポーズするなどが多く見られます。何とか説得したいという気持ちは分かるのですが、これはまったく逆効果になります。映画の場合は先の音楽と同様にイメージの軸が出来上がりつつある中での字幕なので、読むと言うより見ることである程度理解できます。しかし初めて目にする製品や企業紹介では、イメージの構成を頭でやりながら画面下に出てくるスーパーを読むと言う行為は苦痛にもなりますし、読んでいる間に大事な画面が変わってしまったりすると最悪です。だからシナリオをきっちりと仕込み、スーパーではなくナレーションで理解させ映像でイメージを増幅させることが必要なのです。(ユニバーサルデザインの観点からナレーションをスーパーで流すことはあります)

今後WEBサイトでの映像は間違いなく進化しますが、その前提は単に安易な動画作品ではなくきちんとしたシナリオに基づいて、カメラアングルやズーミングなど効果的な映像作法と練り込まれたナレーションに基づく本格的な作品が不可欠になります。そうすれば情報量の観点からもコミュニケーション効率は格段にアップし、結果的に費用対効果が現れてきます。

展示会での集客について

BtoBコミュニケーション Q&Aシリーズ①
 

《質問》

先般ある展示会に出展したのですが、思ったような集客が得られませんでした。弊社の営業サイドからは展示会の装飾をもっと目立つようにしないからだ、と非難されています。確かにコストをかけて目立つ装飾にすればそれなりに集客は見込めると思うのですが、コストパフォーマンスの観点で疑問があります。コストをかけずに集客する方法があればご教示いただきたいのですが。(計器メーカー)


《回答》

まず御社の営業サイドが要望している「装飾をもっとハデにして集客する」考え方は明らかに間違っています。バブル時期は当たり前のように派手な装飾やコンパニオンを使ったイベントが展示ブースで行われ、それなりの集客がありました。しかしそうして得られた来場者はどのような人たちでしょう? 

とりわけコンパニオンが行うイベントは現在でも散見でき、そこでは多くの来場者に溢れています。でもその来場者が御社の真の顧客になる可能性は極めて低いと思います。コンパニオン見たさや何か派手な催しをやっているから自然に人が集まっているだけで、イベントが終われば人は去っていきます。こんな手法で集客しても何の意味もありません。

展示会の効果測定手法には二通りあります。ひとつは来場者数です。それはいわば展示会をメディアとしてみた場合の社名認知にあたるものです。もう一つはズバリ受注件数(額)です。本来の展示会効果はこの受注件数が重要ですが、展示会を広報メディアの側面から見ることも否定できませんから、展示会効果測定はこの二つの指標のかけ算になります。

もう少し詳しくお話ししますと来場者効果は単位コストあたりの来場者数で計算できます。一方受注効果は来場者一人当たりの受注額で得られます。先の算式では来場者は分母になりコストが分子になります。後の算式では来場者が分母になり受注額が分子になります。これらを掛け合わせると分母と分子にある来場者は消去され、結果的に分母にコスト、分子に受注額という単純な算式になります。言うなればこの算式は単一コストあたりの受注額ということができ、これはまさに通常営業の営業効率そのものと言えるわけです。

このことから展示会は広報宣伝のメディアではなく、営業の「場」と理解できます。

ブースを目立つようにするとかコンパニオンを使って派手な演出を行うことは、広報メディアとしての価値はあるでしょうが、直接的に展示会効果をもたらすものではありません。「一生懸命装飾に力を入れて演出も凝ったのに、ほとんど引き合いがなかった」という言葉を時折耳にします。これは展示会を広報メディアとして捉え、もう一つの効果をめざす手法が疎かになっていた証拠です。

では真の意味での展示会効果を上げるのはどのようにすればいいでしょうか。前述のように展示会は営業の「場」です。したがって展示会に集客するのは顧客または潜在顧客でなければなりません。ここで威力を発揮するのが広告やWEBサイトから得られた引き合い(見込み客)リストです。広告はともかくWEBサイトから資料請求するのは住所氏名を記入したりと結構手間がかかります。あえてこの手間を費やしてまで資料請求するのはかなり確度の高い潜在顧客と理解できます。このような人たちに対して、展示会という営業の場で実際に商品を見せて稼働させ、それなりのデータや導入効果を理解していただくのが展示会の最も重要な役割なのです。

御社に限らずさまざまな企業は広告やWEBなど他のメディアで広報活動を行っています。そこで得られた個人情報は貴重な潜在顧客と見なす事ができますが、どういう訳か広告などで引き合いがあってもカタログを送ってそれでおしまい、と言うケースが目につきます。BtoB分野の場合、本来広告はカタログ請求を得るために行うものであり、カタログは商品を販売するためのメディアです。しかしBtoCならいざ知らずBtoBではカタログで商品が売れることは極めて希です。そこには必ず営業担当が同席し、カタログを営業ツールとして扱い、営業担当のプレゼンスキルによって受注の成否が決定されます。したがって広告やWEBから引き合いがあったとしてもカタログ送付だけで受注に結びつくことは滅多にありません。

かといって引き合いごとにいちいち営業担当が引き合い先に出かけ営業活動を行うのは大変非効率的です。おそらく一日かけても23件回るのが関の山でしょう。これが効率的に行えるのがじつは展示会なのです。展示会では上述の営業担当によるカタログをツールとしたプレゼンに加えて、実機を前にしてより効果的な販売活動が期待できますし、何よりも一日で少なくとも十数件以上の商談をこなすことが可能になります。

つまりここから導き出されるのは、展示会の集客は「見込み客」に限定することです。おそらくどの企業でも広告などの引き合いで得られた見込み客リストは数千件から数万件あるはずです。このリストから当該展示会に即した(業種・地区など)見込み客を選定し、まず案内状を送付することです。そして重要なのがその選定された見込み客一人一人の担当営業を明確化することです。担当営業は個人名で案内状を送った後、展示会の開催前一週間くらいに電話(メールもいいですが電話の方が効果あり)で再度勧誘することです。こうすれば間違いなく集客は増えます。おそらく今までの手法にくらべて2050%位の集客アップが見込めるはずですし、何よりも重要なのはそのいずれもが顧客になる可能性のある人たちだということです。

それからもう一つ大切なことがあります。見込み客ではなくすでに顧客に登録されている人たちの周辺の部門にも隠れた見込み客が存在すると言うことです。たとえばある企業の工務部の人が顧客だとすれば、その企業の設計部や開発部などの人はまだ見込み客と見なすことができます。顧客リストにその何倍もの見込み客が隠れているのです。したがって従来顧客から可能性のある見込み客を紹介してもらうことも忘れてはなりなせん。

このように展示会の集客で最も重要なのは目立つ装飾やイベントなどではなく、すでに御社が抱えておられる見込み客を展示会という営業の場に引っ張り出すことなのです。かといって貧相な装飾でよいといっているわけではありません。ブースディスプレイはいかに商品を見やすくするか、商談に際しての心地よさを提供するかといういわばホスピタリティーの大きな役割を演じます。展示会における装飾は人集めが目的ではなく、営業の場をどのように上手く演出し受注に貢献できるか、が重要なのです。

詳しくは「BtoB Communications誌」の20106月号に掲載した拙文「ASICAモデルから見た展示会の可能性」をご覧いただければ、と思います

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(7/7)

9.CSRの前にGSRを!

 

CSR広告で社会に課題を提示し、自社の技術でソリューションをメッセージする。それこそ持続可能な社会の形成のために、将来広告の役割は予想以上に大きくなると思い描きながらも、何かしら喉の奥に小骨が刺さったような屈託を拭いきれない。

企業が社会的責任を果たすためにCSR活動に邁進するのは、前述の違和感がありながらもある程度理解できる。しかし最も大きな組織である国家の社会的責任に目を向ければ、首を傾げざるを得ない。国民への明確な説明責任が未だに果たされていない消費増税や原発問題を持ち出すまでもなく、前政権に見られた当初のマニフェストをことごとく反故にする国家。さらには緊縮財政や社会保障の大きな課題を生じさせる要因となった年金運用の失敗。国民が納めた粒粒辛苦の気が遠くなるほど膨大な額の年金を溶かしてしまった責任は、いったいどうなったというのだ。昨今のCSRブームの裏側に、国に社会的責任を果たす能力がないから企業が肩代わりせよ、とでもいうわけでもあるまい。

国は政府の社会的責任(GSR—-Government Social Responsibility)や政党の社会的責任(PSR—-Party Social Responsibility)こそが今全社会から求められていることに早く気づくべきだろう。

大きな組織に属する小さな組織や個は、大きな組織の価値観や風土に無意識的に支配されてしまうことは拙著「ASICAれ!」で記した。CSRをもっともらしく唱えながら、一方で国民の大多数が認めない政策を此れ見よがしに支持する財界を見れば、何か隠されたうまみでもあるのか、と勘ぐってしまうと同時にやはり冒頭に述べた胡散臭さが蘇ってくる。

またISO26000ガイダンスも、各国の主体性を失った統一によって当然のようにさまざまな問題を露呈し、今や全世界に厄介事を投げつけているEUが主導して策定したとなれば、その取り組みに少々二の足を踏んでしまうのも正直なところだ。あんただけには言われたくない、と。

GSRの果たされていない国家や世界にCSRが根付くはずはない。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(6/7)

8.クリエイティブにおける社会的責任

8-1.わかりやすい広告の落とし穴

CSR広告といいながらどうしても顧客誘引を目的としたくなるのが企業の性ではあるが、美辞麗句で飾り立てた広告にほとんど効果がないことは既に本書でも拙著「ASICAれ!」でも述べた。企業の説明責任のための広告なのだから、なぜその企業が社会に存在しているのか、社会に対してどんな役割を演ずることができるのか、をメッセージしなければならない。

さらにはASICAモデルで何度も紹介したように、最高のメッセージ広告は、今社会に存在する見えない課題を炙りだすことだ。そして自社独自の技術によるソリューションを提示する。この様式がこれからの広告の基本的なスタイルになると確信しているし、これこそがCSR広告ともいえる。

ところで広告のクリエイティブについてであるが、ここ数年徐々に質が低下してきているように感じて仕方がない。何がどうというのではなく、要するに感動しないのだ。メッセージ性が少なく変哲もないアピールだけが目につく。言い換えれば大変わかりやすい広告が増えてきている。だから感動しない。

最近よく耳にすることだが、広告はわかりやすくなければならないという風潮が大勢を占めている。企業の広告担当者が頭を悩まし練りに練った広告を役員会に上程した際、こんな表現ではわかりにくい、もっと平易な表現にしろ、と一喝されたことが一度ならずあるだろう。

今、学生の読解力が一昔前に比べてワンランク低下しているという。つまり現在の大学生は高校3年生並の読解力しかないということか。全てがそうとも思えないが、学生に限らず一般人も社会人もなんとなく心当たりはある。だから広告は誰にでも理解できるように平易な表現が望まれるのだろうが、ちょっと待って欲しい。

先に広告はその時代の文化を表す、といった。もとより文化には優劣はないが、できれば高品質な民度を維持したい、と思うのは広告人の端くれとして当然だろう。低レベルの層を基準に考えるのではなく、ある程度の知識と読解力を持つ層にふさわしい広告表現が文化形成にも国民の意識向上にも不可欠だと思う。

筆者の記憶に残っているテレビCMに富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」がある。さらに「ROPE & JUN」のCMにも感動した。確かその頃筆者は大学生であったと思うが、いずれもCMの意図はさっぱり理解できないながらも、なんとなく世の中が大きく変化しつつあることを感じ取ることができた。もっと遡れば小学生の頃なのか中学生の頃なのか定かでないが、旭化成の「ベンベルグ」の広告が妙に今でも心に焼きついている。当然広告の意味も商品も全く理解できない。しかしベンベルグ、ベンベルグという呪文めいたものが頭を駆け巡り、時代が大きく変わる予感を子供ながらに楽しんだ。

わかりやすい広告は確かにその場で理解されやすい。しかし一方で忘れやすいのも事実だ。

広告の意味をわずかな時間でも自ら探ろうと努力したものは、いつまでたっても記憶に残るものである。

「CSRに最適なメディアは広告であり、広告は最高のCSR活動である」という考え方(5/7)

7.最高のCSRメディアは広告。そして身近なCSR活動は広告

 

さてそこで企業の社会的責任についてもう少し慎重に見てみたい。

国連グローバル・コンパクト以前の問題として、企業には説明責任が存在する。すべてのCSRはこの説明責任が根幹となって展開されるべきだといわれている。企業が行う様々な経済活動は利害関係者に対する説明責任を果たしてはじめて社会から認められる。さらにいえば企業の存在そのものについて、その理由と社会に与える影響、つまり企業の存在意義を説明しなければならない。企業の説明責任というと、とかく不祥事を起こした際の謝罪も含めた経緯の説明と受け取られがちであるが、それはエンロン、ワールドコムなど企業の不祥事がCSR確立のきっかけになったことに起因している。

不祥事とは関係なく、企業が存在する以上、社会に対して自らの存在理由を説明し社会から同意を得ることが企業の永続的な発展につながってくるのである。

CSR報告書で説明責任を果たすことは十分可能だ。しかし常々感じていることなんだが、いったいCSR報告書は誰が読むのだろう?という疑問が頭から離れない。企業に対してCSR報告書を要求する人たちやWEBサイトのCSRページを閲覧する人たちがそのターゲットとなるのだが、あまりにも限定されてはいまいか。

同じ年次報告書でも、極端に限定された投資家をターゲットとするアニュアルレポートとは、本質的に異なる特性を持つと捉えるべきだろう。

社会に対する説明責任といいながら、限定された人々だけを対象にしていたのでは辻褄が合わない。社会全体をターゲットにするならCSR報告書のようなプルメディアではなくマスメディアを軸としたプッシュメディアが最適だと思う。ここでひとつ断っておきたいが、インターネット広告は一件プッシュメディアのように思われるが、パソコンという装置を介して訪問者の能動的な行為によって情報を得ることから、これはプルメディアと理解できる。

すなわち、企業の社会的責任の骨格をなす説明責任に最も適したメディアは、昨今のデジタル化の波で肩身の狭い立場にある「広告(新聞・雑誌・テレビ)」なのだ。今更広告の重要性を説いたところで時代遅れの感が否めないかもしれないが、じつは広告の機能にはCSRの要素が多く含まれていることにあまり気づかれていない。

これは広告そのものが、永らく商品宣伝やブランディングなど顧客吸引力を求めるために利用されてきたため、あまりにも商業主義的な匂いがするからだろう。

しかし一方で広告はその時代の文化を形成するとまでいわれている。広告を見ればその時々の文化がわかる、というのである。つまり広告には極端ないい方をすれば健全な社会と良好な文化を育成する機能があるともいえる。あまりにも行き過ぎた喧伝はプロパガンダとして危険な要素があるかもしれないが、独裁国家ならともかく、現在のわが国ではあくまでも広告主は企業であり、企業自らが社会を良くする手立てができるのだ。これこそが本当の、そして身近なCSRではないだろうか。

しかしながら昨今の不況で各社とも広告宣伝費は削減され、とてもとても営業に直結しない広告なんぞ手が出ないといった意見が予測できる。しかしよく考えてみれば、前述した雇用確保の放棄というCSRに反した行為が広告の世界でも起こっているとはいえないだろうか。

社会に対する説明責任のためのコストを削減する一方で、CSRを声高に叫ぶ矛盾。

それはともかく、不況は永遠に続くものではなくいずれ景気回復期がやってくる。広告は経費ではなく投資である。なので即効性は期待できず、その効果が現れるのは2~3年後だろう。このことから景気回復し安定成長に移行した際に効果をもたらすのは、意外にも不況時の広告展開であることもまた確かである。無い袖は振れないといわれるかもしれないが、今企業には膨大な内部留保が蓄積されているという。不況であるがゆえに金の使い道がないのだ。いうまでもなく金が回らなければ経済は活性化しない。景気回復のためにも各社挙げてCSR広告に精を出すことが、じつはもっとも現実的なCSR活動ともいえる。

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河内英司(かわちえいじ)
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京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
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