河内英司のBtoBコミュニケーション

広告/マーケティングの側面からと、無駄話。

閑話、子育て。

感動的な出来事があったので、今回は動物センサーから少しずれるけれど、ちょっとムダ話をしてみます。
近くのお寺で毎夜、猫たちにお食事デリバリーをして、もう11匹の大集団になってしまった。時折遅刻してくるものや、お休みの猫もいるけど、ま、賑やかなレストランテのひとときを楽しんでくれている。不思議なもので、毎日ちゃんと決まった時間にお食事がもらえるとなると、ちょっと前までガサガサしてなんとなく落ちつきのなかった子も、見違えるようにお利口さんの礼儀正しい猫になってしまうのである。11匹の組織を上手く守っていくために、自然とリーダー役や世話役、争いの仲裁役なんかが決まってくるのだ。でもその中でも、いぜんとして自分を絶対に曲げない頑固な輩も、いる。ゴエモンというその猫は、容貌も不気味でとても普通の猫とは思えない大きな顔に、目と鼻ががさつについている。辺り構わずケンカを売ってくるこのゴエモンが来ると、他の猫たちは、まるでツチノコのように一斉に這い蹲ってその行動を注視するのであります。だからゴエモンだけは、みんなと少し離れた場所でお食事をとってもらうことにしている。
今から3ヶ月くらい前、リナという雌猫が1匹の仔猫を連れてきた。リナはそれまでそんなにお腹も大きくなく、ほとんど毎日お寺に来ていたので、その仔猫がリナの子かどうかは分からないけど、見た目にはほほえましい親子だ。初日から数日間、リナは決して仔猫を10匹の集団に近づけようとはせず、お寺の山門あたりに一人残し、自分だけ食事に来ていた。あまりにもかわいそうだと思って仔猫の近くに食事をもっていくと、恐る恐る口を付けるが、遠くからじっと見つめているリナの視線がある。やがてそれから数日たつと、こんどはレストランテと山門の中間当たりに仔猫を移し、自分もそこで食事をするようになった。というより、自分の食事を分け与えているような優しい素振りが伺える。食事が終わると、リナは仔猫の毛繕いに精を出し、仔猫はお母さんに甘えたいのが半分、他の猫たちと遊びたいのが半分、といったどこかぎこちなさげな様子。この仔猫にシジミという名前を付けた。
それから数日たつと、相変わらず食事の場所は同じだが、食事のあとのシジミの毛繕いが終わると、リナはシジミから離れていくようになった。シジミはどういうわけか、あのゴエモンがたいそう気になるらしく、彼の元に歩み寄ろうとするのだけど、ゴエモンが「なんか用か?。このチビ。」って様子で睨みつけると、シジミは一瞬でたじろいでしまう。このときもリナは数メートル離れたところから、じっとシジミの行動を監視している。言うまでもなく、11匹の猫たちの中で、唯一ゴエモンだけが不良というか、背中に入れ墨のごとくにマークされている注意人物なのだ。他の猫にはあまり気にしないリナが、ゴエモンだけにはいつも注意を払っているようで、必ずどんなときでもシジミとゴエモンの間に、リナがいる。
じつはこのシジミ、11匹の中のチッチという雄猫にそっくりなのだ。チッチはレストランテをはじめたときからのチャーターメンバーで、もう3年近くのつきあいになる。ちょうどシジミくらいの大きさの時だったな。よく眺めてみると、シジミとリナの関係以外に、必ずチッチが絡んでいることが分かる。ゴエモン包囲網の時も、リナはゴエモンとシジミの中間地点に位置し、チッチはそれとは90度位の角度を持ったところで監視をしている。ゴエモンが「もうワシは腹一杯。帰る。」といったときも、シジミとリナ、チッチの位置関係は微妙に維持されながら変化していくのだ。ゴエモンが去った後は、3匹でほんとに仲むつまじく食後のひとときを、まったりと過ごしている。雄猫は自分のこどもの面倒は見ない、とよく言われるが、この光景からは決してそんな風には思えない。お父さんの役割をきちんと果たしている。
そんな状態がひと月近くたった時、食事が終わってほとんどの猫が三々五々帰った後、シジミが一人で樹で爪研ぎしたり落ち葉で遊んでいた。ああ、やっと親離れしたんだな、と頼もしく思って眺めていると、背中の向こうで何やら気配がする。ん?、と思って振り返ると、10メートルくらい離れた暗闇で、やっぱりリナが監視していた。そしてよくよく見渡してみるとチッチも別の方向から。おもわず、あっゴメンね、と呟いてしまった。
あるとき、もう何もかもがおもしろくて仕方ないシジミが、他の猫同士がにらみ合いをしているその真ん中を、さっと通り過ぎた。「ね、みなさんケンカなんかしちゃだめですよお。」という風で、あるいは、「そんなに睨めっこしないで、僕と遊ぼうよ。」といわんばかりに足早に通り過ぎた。するとリナはおもむろにシジミに近づいて、猫パンチ1発。「あの人たちはね、今むつかしいお話しをしているの。邪魔しちゃだめ。」と無邪気なこどもを窘めるように。
またあるときは、「はやくちょうだいよお。おなかすいた。」とニャオニャオお食事を催促していると、「黙って待ってなさい。そんな声出すと怖いおじさんに見つかっちゃうから。」といわんばかりに、このときもリナが強烈な猫パンチ。よく、母親にちゃんと育てられた野良猫は、上手に道路を渡るので車に轢かれることが少ないけど、早くから母親と離れたこどもはそれが分からないから交通事故に遭ってしまうといわれる。こうして大人の社会に上手くとけ込んでいく術を、身をもって教えているんだな。
この3ヶ月間、よちよち歩きのこどもが、どのようにして一人前になっていくのか、そしてそのときの母親や父親の役割がどんなに大事なものか、知らされた。たぶんお寺に来た頃が生後2〜3ヶ月だから、今ではもう人間に直すと10歳近くになっているはずだ。まるで早送りのビデオを眺めているように、子育てで一番大切な時期を目の当たりにすることができた。食事が終わった後は、いつもリナやチッチのそばから離れなかったシジミは、今では他の猫たちとそれぞれに楽しそうな時を過ごしている。リナやチッチはまるで何事もなかったかのように、決してシジミの世界を侵そうとはしない。別に保育園にも幼稚園にも行っていないし、母親学校にも行っていない。生まれながらにして持っている、母親としての本能と、父親としての本能が、また新しい大人を育て上げたのだ。そして見事とも言える親としての引き際。
親離れのできないこどもや子離れのできない親。新聞を見ればこどもの虐待やいじめ。地下鉄に乗ればお年寄りをさしおいて、我先に席を取ろうとする横着なこども。こどもをほったらかして、パチンコに現を抜かす親。
動物的とか本能的とかといえばちょっとワイルドで、理性とは対極にあるような言葉だけど、むしろ動物にはそれこそ倫理をも含んだ論理的な生き方や生かし方が、その本能に備わっているのだ、と教えられた。

知能と知識、そして情報。

地球環境と対話する動物のセンサーについて考えれば考えるほど、ま、だいたい人間のセンサーは動物たちとくらべると、恥ずかしいくらいいい加減であることが分かってきた。そういえば、去年の冬は、いつになく寒かった。デパートなんかでも、冬物の洋服がどんどん売れて、日本のGDPに貢献したらしい。でも、こんなことやってるのは人間だけで、動物たちは寒かろうが暑かろうが自前の洋服をきちんと取り替えて、一年をうまく過ごしている。
洋服という人工物を作る知識と技術を身につけたから、自然との対話を忘れたとも言えるし、自然との対話と引き替えに、この技術を身につけたとも言える。どっちにしても、人間は自然とともに生きる動物に、なくてはならない自然の微妙な変化を感じとるセンサーを捨てて、合理的な代替物と共に生きる道を、選んだわけだ。
日常生活に一番身近な天気にしても、むかしなら、長老のおじいさんが、空を見上げて、ン?、明日は雨だ・・・といったら、たいがい雨だった。最近は人工衛星やコンピュータを駆使して、天気予報してるけど、残念ながらカエルの予報の方が当たってるような気がする。
おじいさんの天気予報とコンピュータの天気予報では、そのもとになる情報の量は格段に違う。というより質が違うのかな。おじいさんのは空を見て、雲を見て、風の流れを見て、ま、ほかに鳥やカエルやそこらにいる動物の動きを察知して、ン?明日は雨だ、となるんだけど、その頭の中は、おじいさんが生きてきた毎日の出来事がぎっしり詰まっていて、その情報と照らし合わせて天気予報しているのだろう。勘、といってしまえばそれまでだけど、じつはその勘こそがセンサーと同義語なのであります。そしてこの勘というものは、白か黒か、プラスかマイナスか、1+1=2といった、理屈にかなった見方とはまったく無縁の代物で、白みがかった黒であるとか、1+1=2.5かもしれないというような、ま、いい加減といえばいい加減な世界なのですね。
いいかえれば、コンピュータに何もかもお任せの今の時代に生きている人たちは、勘がにぶいともいえるわけですが、ほとんどの現代人からは、それがどうした、と開き直りのお言葉を頂戴するでしょう。
コンピュータが私たちの暮らしにあふれて、たしかに便利になった。とりわけ1995年頃から普及しだしたインターネットで、どんな情報でも自宅でせんべいかじりながら手に取ることができる。でもその一方で、どうも情報を処理する私たち人間の能力に、かげりが見え始めているらしい。
ここに面白いデータがある。総務省からだされた、「情報流通センサス」報告書を見てみると、インターネットが普及する前の1980年頃は、電話やテレビや新聞や、ま、ありとあらゆる情報の、一年間に発信された量が13.4京ワードだという。京というのは何も京都の略称ではなくて、いち、じゅう、ひゃく、せん・・・と進んでいって、兆の次の位のことで、ケイとよばれて10の16乗という膨大な数字になる。一方で、そのときに私たち人間が消費した情報量は、1.21京ワードだったので、10個にひとつくらいは選ばれて、自分の役に立つように使っていたといえる。このときはまだまだ人間の情報処理能力には余裕があった。でも、インターネットが普及しはじめた1996年頃では、情報量は43.5京ワードで、消費情報量は2.83京ワード。ま、20個にひとつとなりました。そして2003年にはなんと4,710京ワードの情報のうち、消費できたのは20.3京ワードということで、230個にひとつとなってしまった。人間の能力もたいしたもので、この間の情報処理能力は20倍に増えているけど、もうそろそろ限界に近いのだとか。
いいかえれば、1980年頃は、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、と10個いわれて、はいはいわかりました、それではご飯を、となって、ま、何とか余裕が持てた。それが今では、ご飯食べなさい、勉強しなさい、手を洗いなさい、学校行きなさい、本を読みなさい、テレビを見るな、遊ぶな、こっちへ来い、と230個もいろんなこと言われて、もうシッチャカメッチャカのなかでなんとかひとつ選んでいる状態なんだ。
こんなに情報があふれた暮らしの中で、それこそ自然との対話なんぞ、しているヒマもないし、その間に私たちの勘はにぶり、センサーが衰退していくのであります。
実際、まわりを見渡してみれば、ここ十数年の間に私たちは、これでもか、といわんばかりの情報に囲まれ、知識も昔とは比べものにならないくらいに増えた。でも、たとえば、地下鉄の座席で周りの目もはばからず、ワシの足はこんなに長いんだ、といわんばかりに大きくふんぞり返っているオジサンや、世界は家庭の延長という感じで、わがもの顔で携帯電話に熱中する人など、けっしてモラルというか、人間の質みたいなものが良くなったとは思えない。
他人の微妙な心を感知できるセンサー、人を気遣うセンサー、こういったコミュニティーで生きていくのにだいじなセンサーの機能が、最近故障だらけというのも、地球環境の破壊と無縁であるとは思えないのであります。
以前、このコーナーで、一ヶ月くらい何も話さない、言葉を使わない状態を試してみたら、きっと私たちのセンサー能力がよみがえる、といったけど、同じように、一ヶ月くらい、ちまたの情報を遮断して、仙人気取りになってみるのも、いいのかもしれない、と思う。

渡り鳥とナビ。

冬の到来とともに、渡り鳥たちも気ぜわしくなってきているようですね。毎年きまったところに、きまった頃にやってくる。その数が環境問題のせいか、年々少なくなっているとはいえ、やっぱりきまった頃にやってくる。渡り鳥が、どうして行き先を判別できるのか、30年くらい前から研究されているのだが、まだはっきりとした結論は出ていないようだ。そんな中で、何となく、これだ、というのが地磁気説であります。多くの鳥には生体磁石、つまり身体の中に磁石をもっているらしく、これがコンパス代わりになって、方向が分かるのだそうです。身体の中に耳石器という器官があって、その耳石が磁性をもっている。これが地磁気の変化によって感覚細胞を刺激するのだ、とか。身体の中に、あの、磁石があること自体、大変不思議なのでありますが、実は多くの生物にその磁性体があることが分かってきています。有名なのは魚。サケが毎年同じ場所で卵を産むために帰ってくるのも、この磁石のおかげということです。ま、サケについては他に生まれ育った場所の臭いを記憶している、という説もありますが。
生体磁石の発見は、1979年に米国の大学生が海底の底に生息するバクテリアを見つけたことがきっかけといわれています。このバクテリアに磁鉄鉱を脂肪酸で覆った生体磁石の存在が分かったのです。磁鉄鉱なんぞ、地球上のどこにでもあって、それが海底の泥に生息する生物の身体に含まれる、と考えれば、そんなに不思議ではないですし、それと接する魚にも存在するのも、また、当たり前といえば当たり前です。ま、いわゆる食物連鎖のひとつなんでしょうか。
ところで、私たち人間の身体にも磁石があることをご存じですか。ひとつは脳下垂体という脳のちょうど真ん中あたりにある器官で、いろんなホルモンを分泌する重要な役割をもったところですが、この脳下垂体の前の方に磁気器官があるのだそうです。そしてもう一つは、脳の中央部にあるといわれる松果体という器官です。この器官は下等動物では第三の目といわれ、おもに光の明暗を感知するらしいです。鳥の松果体には時計機能も備わっていて、体内時計の調整にも使われています。人間ではここでも地場を感知することができます。さらには、人間の両目の間にある篩骨という骨にも、ごくわずかな鉄分が含まれていて、これが方位磁石の役割をしているとも言われています。こうしてみると人間も、なんだか磁石の固まりのようで、やっぱり地球人なんだな、と思ってしまうのであります。
最近は、なんとかナビといって、遠くに行くにも地図なしで、300メートル先右方向へ、といった音声ガイドが、もう生活の必需品のようになってしまって、そこらじゅうに地図音痴が増えていますが、もともと人間は鳥と同じように地図なしでも歩き回れる能力があったのですね。
鳥をはじめとした多くの生き物に磁石が備わっていて、磁石の親玉でもある地球と交信していたのは、まぎれもない事実ですが、渡り鳥の帰巣本能として地磁気説に異議を唱える学者もいるそうです。
ある学者が、意地の悪いことに鳥の頭に強力な磁石をくっつけて、わざと磁場の感覚を狂わせた実験をしたのですが、それでも鳥はきちんと方向を感知することができた、というのです。だから地磁気説は間違いだと。ま、どちらでもいいんですけど、実は鳥の目の中には櫛状体(しつじょうたい)という不思議な器官があります。字面からすれば、ちょうど櫛のようになった細胞とでもいうのでしょうね。ここで、映像をよりはっきりと見えるように調節するそうです。そしてこの器官を使って、なんと、昼間でも星座を見ることができるのであります。むかしNHKのウルトラアイという番組で、煙突の底から空を見れば、星座が見えるか、という実験があった。結果は残念ながら見えなかったらしいが、これは昼間、星を見にくくしている太陽からの散乱光をできるだけ少なくすれば、もしかして星が見えるかも、という期待から行われた実験で、ようは、煙突で散乱光を遮ってしまえば昼間でも星が見えるのでは、という理屈であります。鳥の場合は、櫛状体の櫛の部分で散乱光を遮って、星座を頼りに方向を察知しているというのがこの説。私は個人的には、この説の方がロマンチックで魅力的に感じます。
どの説が本当なのか、残念ながら我々人間の科学力をもってしても、まだ明確な回答は残せないままですが、自然と向き合っている生物には、ちゃんと生活していく機能がはじめから備わっているのですね。
たまには、ナビのお世話にならずに、気の向くままに生体磁石にでも頼って、歩き回ってみるのもいいかもしれません。

ちょっと植物について。

前回の猫の集会で、ふと、気になったことがある。集会が終わると、それぞれ思い思いにどこかへ去っていくのやら、適当な場所でくつろぎはじめるのだが、数頭の猫はお寺の大きな樹の下で、いっぷくしはじめる。丸くなって、ちょうど樹の根のへこみに、ちょこんと納まるぐあいに心地よさそうに。でも中には、じっと樹の幹の一点を見つめ続け、なにやら樹と会話でもしているかのような猫もいる。ま、たぶん、樹の幹に小さな虫なんかが動いているのでしょうけれど、もしかして、例のテレパシーで樹とお話ししているのかも知れない。
そういえば、親しくしているある大学の先生によると、植物はコミュニケーションをするらしい。人間社会でいう声に出して喋るのではないが、たしかに、会話するのだそうだ。今でもよく言われることだが、リビングで栽培している観葉植物に、今日は寒いけどがんばってね、と優しい言葉をかけると、生き生き育つといわれている。ま、真偽のほどはともかく、植物が人間の言葉を理解するというより、心を読み取る能力があることは否定できませんね。いやいやそんなバカな話はありませんよ、と科学者の皆さんはおっしゃるかも知れませんが、植物に読心能力がないことを、科学的に証明できないこともたしかなのであります。
猫が言葉を使わずに、お互いにコミュニケーションできるとすれば、猫は樹と会話していても、何の不思議もありません。
植物がほんとに声を出すのかどうか、よく分からないけれど、その先生によると、植物の体内電流だか生体電位だかをはかれば、確かに周りの仲間と会話しているような変化があるのだそうです。昔、小学生の頃、京都の糺の森(ただすのもり)の近くに住んでいた。この森は平安時代以前からあった古い森だが、夜になると、うっそうと茂った森の中へ、肝試しよろしくよく出かけたことがある。怖さ半分、好奇心半分の中に、ほんの少し、こんな真っ暗闇でもボクは怖くないんだぞ、とかすかなプライドを抱えて、外灯も何もない暗黒の別世界へ進むのであります。で、このとき、昼間ではほとんど耳にしない不思議な音が、しんと静まりかえった森の中で聞こえてきたのを今でも覚えている。虫の鳴き声や木の葉のこすれる音とはまったく別の、全宇宙的と言えるような不思議な音。もしかして、その音が、樹と樹の会話だったのかもしれない。
植物は、光合成といって、炭酸ガスと水から、酸素と栄養分を作りだす、素晴らしい能力を持っています。ま、要するに、自然の状態では空気中の炭酸ガスを吸い込んで、酸素をはき出す、という、動物にとってはまことにありがたい存在なのであります。が、人類の進歩と産業の発展によって、この植物の吸収量をはるかに超えた炭酸ガスが放出され、植物の宝庫でもある熱帯地方の森や林が伐採されて、炭酸ガスの吸収量が少なくなった。これが地球温暖化という、やっかいな環境問題ですね。つい先日もアメリカで、超大型のハリケーンが大きな災害を与えたけれど、地球温暖化がもっと激しくなると、台風やハリケーンの規模も、今では想像できないくらい巨大になるらしい。植物と台風、こんなところでも関係があるのですね。日本には、昔から全国いたる所に「鎮守の森」というのがあった。鎮守の森は神様がおられる森だそうで、みな大切に崇めてきた。地方に行けば今でも目にすることはあるけれど、都会では、もうほとんど天然記念物状態の稀少価値ゾーンといえます。この鎮守の森、そこに生えている植物はほとんどが「広葉樹」なんだそうです。広葉樹というのは、ドングリやブナのように、文字どおり、葉っぱの広い樹のことで、松や杉などは葉っぱが針のようにとがっているから針葉樹。じつは、光合成を一番効率的にするのは、この広葉樹なんです。葉っぱの面積が広いから、光合成作業も効率的にできるのはあたりまえといえばあたりまえですが、都市化によって、広葉樹をたくさん蓄えた鎮守の森が年々少なくなっていくのが、温暖化にも大きな影響を与えているのですね。最近は、鎮守の森の効果が見直されて、その再生活動が盛んになっていますが、いっぽうで熱帯雨林を守ろうとか、寄付金で熱帯に植林しましょうなどといったイベントをよく目にします。ほんとはもっと身近なこの鎮守の森や近所の森を守っていくことが、大切なのでは、と思うのであります。そうそう、植林といえば、あまり気づかない大切なことが、最近分かってきたみたいです。自然に生育している樹と、人工的に植林した樹とくらべてみると、光合成の能力に大きな差があるらしい。つまり、人工林の樹は光合成をすることはするが、バリバリの野性味豊かな自然林の樹の方がはるかに力強く光合成するんだそうです。やはり、過保護というか人工的に自然を作ろうとしても、自然は自然にしかできないのであります。先の大学の先生もおっしゃってましたが、自然林と人工林をくらべてみると、自然林の樹々は、あちこちの樹とダイナミックにコミュニケーションするけれど、人工林の樹は、ほんのお隣さんとだけしかコミュニケーションしないって。なんだか、最近の教育問題を象徴するようでもあります。
と、ここまで書いて、「動物センサー」のテーマから、かなり脱線していることに気がついた。調子に乗りすぎて「植物コミュニケーション」になってしまった。しかし、ですね、動物どうし、植物どうし、そして植物と動物のコミュニケーションも、それぞれがもっているセンサー能力が大きくものをいうのです。相手やまわりの状況を感知して、適切な行動をとるためのセンサーです。
たとえば、人間の目の感度は555ナノメートルの波長あたりが一番高いとされています。これはちょうど黄緑付近の色になります。逆に赤やオレンジなどでは、極端に感度が悪くなります。感度が高いということは、細かな色の変化を見分けることができる、ということですね。たぶん人類は、大昔、樹々の微妙な色の変化を見て生活に役立てていたのではないでしょうか。今でも長野県の山奥や、草原に行ってみると、まわりはほとんど緑で、5月頃には新芽が出てきて、緑の固まりの中にぽつぽつと黄緑色の集団が見える。赤やオレンジはまずお目にかかれない。古代の人類にとって、食物になる新芽を探すには、この黄緑付近の感度を強くしておく必要があったのだ、と思うのであります。
このように、動物はそれぞれに自然と共生するためのセンサー機能を持っていたはずですが、文明の進歩とともに、そしてセンサーに代わる道具の発明によって、とくに人類は、まったくおそまつなセンサー機能しか持たなくなった、と考えています。

猫の集会に参加した。

1ヶ月ほど前の土曜日、猫の集会に参加した。夜12時を少しまわった近所のお寺。人影もまばらで、あ、こんな風景もあったんだと、いつもと違う週末を楽しんだ。
じつは1年くらい前から、このお寺の猫たちに、毎夜お食事を届けている。ま、猫ちゃん相手のデリバリーサービスといったところかな。そんなことで、こちらの猫たちとは、ある程度顔なじみだけど、集会とやらには初めて参加させていただいた。
お寺に到着すると、もうすでに6頭のメンバーがそろっていた。お、もう会議はじまってるの、と思いながらも適当に空いた場所にしゃがみ込む。で、ここで肝心なのは、けっして猫の近くに寄りすぎないこと。2メートルくらいの距離を保ちながら、静かにしゃがみ込む。昔何かの本で読んだけど、動物には心地よい距離というのがあるらしい。体感距離とかパーソナルエリアと言われているもので、心理的に認められた概念上の空間なのです。これは当然人間にも当てはまって、見知らぬ人があまり近くにいると、なんだか気味悪くて落ち着かない感触。あれが体感距離を侵略されている現象なんですね。子供の頃、まだ舗装されていない地面に木の枝で丸く円を描いて、ここはボクの陣地だから入らないでね、と言って遊んだあれに近いものがある。この体感距離は親しい人ほど短くなるらしく、恋人同士だと、もうほぼその距離は限りなくゼロに等しくなるのであります。
ま、それはともかく、体感距離を守って猫たちの間に均等配置につきましょう。そう言えば6頭の猫もそれぞれ、1メートルから2メートルの距離を置いて均等に座っている。しかも、面と向かっては座らないんだね。お互いにあっち向いたりこっち向いたり、実にうまく乱数表のごとく着座している。人間社会では、会議はおろか人とお話しするときは、フェイス ツー フェイスで相手の目を見て喋りなさい、と教育されてきた。先生に質問されて、えーと、それはねえ、と余所見しながら答えたら、ちゃんとこっちを向いて喋りなさい、って叱られたことがあったな。でも、猫の集会ではけっしてフェイス ツー フェイスの光景は見られないし、議長も誰かわからない。いったい誰が司会してどんなお話しをしてるんだろう、と探ってみても全く不明。皆ずっと黙ったまま、箱座りしているものやら退屈そうに毛繕いしているもの、もうこんな会議はつまらん、と言った風に居眠りをはじめる輩もいる。30分ほどしたら別の2頭が遅れて参加してきた。いやあ、野暮用で遅くなって申し訳ない、と言ったそぶりもなく、やはり体感距離をきちんと守って着座。これでいつものフルメンバー勢揃いなんだが、会議が進行しているのかどうかもよくわからん。2時間くらいすぎた頃、1頭また1頭、と近くの木下や灯籠の下など、好みの場所に移動しはじめた。それじゃ、また、と言わんばかりに、そそくさとどこかへ行ってしまうものもいる。どうも会議は滞りなく終了した模様です。
こちらは2時間のあいだ、無言でずっとしゃがみっぱなしだったが、何か心地よい。無言の会議。果たして、この集会で皆何を話していたんだろう。テリトリー問題の調停なのか、食事の順番の決めごとか、たわいもない世間話なのか。人間社会では、おい、誰か喋らんと会議にならんぞ、と議長からお叱りを頂戴するところだが、猫の集会では、えー私の見解は、まあ、こういったことでありまして、いやいや仰るとおりでごもっともなご意見で、と言った社交辞令が飛び交うこともなく、極めて効率的に進行されているのであります。
人間は、言葉によってすべてのコミュニケーションを行っている。言い替えれば言葉なしでは、もう、コミュニケーションはとれない動物だとも言える。でも、この猫たちは、おそらくは無言で話し合ったに違いない。私も集会のあいだ、一所懸命、「この猫たちは何を思っているのだろう」とか「あんたはどこから来たの」と無言で語りかけていることに気がついた。猫の心の奥底を、必死になって読み取ろうとしている。もしかして、この行為だけでもコミュニケーションが成り立つのでは、と思ってしまう。
確かに猫や犬など、動物にはある種のテレパシー能力が備わっている、と言われている。飼い主の心や気持ちが理解できる、と言う話は何回となく耳にしたことがある。飼い主が猫を動物病院に連れて行こうと思っただけで、雲隠れしてしまう猫がいたり、外出中の飼い主の事故や病気を予知する猫がいることも、海外事例で紹介されている。その原因はまだわからないにしても、どうも人の心を読む能力は、確かにあるらしい。たぶん、猫の集会でも、言葉を使わずに心と心で十分なコミュニケーションをしているのでしょう。
人間が行う言葉を用いたコミュニケーションが、絶対正確なものとは言えないことは、「まあ、それは可能といえないといえば嘘になりますが、可能性の中にも不可能な要因が潜んでいると言うことでして・・」と言ったザ・政治家らしいお言葉や、会社と赤チョウチンでの会話のギャップをみれば、至極当然のことであります。また、真意とは裏腹に、相手の心を傷つけたり、誤解されたりするのも、言葉という道具の仕業なのです。
企業でも最近は、コミュニケーションの活性化とか、情報の共有化などといった大スローガンが溢れまくっているが、どうも人間社会では、このコミュニケーションというものを勘違いしているのでは、と猫の集会は教えてくれるのです。まず、「あいつはコミュニケーションが優れている」と言われる人物は、話し上手でいろんな情報をあちこちに発信するタイプを指すでしょ。でもね、これが違うんですよ。ほんとうにコミュニケーションで大切なのは、情報を発信することよりも、読み取る能力なんです。誰がどんな情報をほしがっているのか、を見分ける力。相手の心を読む力が大切だと思っています。とくに、現代のようにネットワーク社会になって、ケイタイやらメールやらで自由に会話できる便利な装置が氾濫しているときこそ、これが大事。
どうも私たち人類は、大昔、言葉を発明したときから、心を読み取るという、超のつく貴重な宝物を置き去りにしてきたようですね。今、テレパシーがどうのこうの真顔で論じると、ちょっと違った世界の人のように思われてしまう。山のてっぺんで深夜、輪になって手をつないで、さあ、宇宙人さんいらっしゃい、と言った類のそれみたいに。でも、先に書いた猫や犬の予知能力を見ると、確かに人間にもその能力は備わっていたはずだと思う。事実、虫の知らせや、第六感などがそれに近いものかも知れないけど、人間の場合は、赤ん坊にその痕跡が見られると言われている。言葉をはじめ、いろんな知識を身につけるのと引き替えに、こう言った大切な能力がだんだん退化してくるのだろう。
で、現実には不可能かも知れないが、例えば、1ヶ月間はいっさい喋らない、と言った体験をしてみるのも面白いかも知れない。言葉を使わないから、こちらから話しかけることはできない。相手の言葉をきくこともできない。ただひたすら相手の気持ちを探ろうとする。たぶん、1ヶ月後には人や自然の心を読み取ると言った力が、少しは頭をもたげてくるようにも思える。
環境問題に対しても、今、言葉が先行して、地球温暖化や自然との共生など難しい話をしないと、偉そうに思われないのだが、もっと大切なのは、一度言葉をやめて、どこまで自然と会話できるか自分自身で体験することだと思うのであります。
人間も自然の一部だとしたら、人間社会だけで通用する言語ではなくて、動物や植物が当たり前のように行っているコミュニケーションのカタチを研究することも、大きな課題なのです。と、猫の集会は教えてくれたのでありました。
メッセージ

名前
メール
本文
★プロフィール
河内英司(かわちえいじ)
-------------------------------------------
京都教育大学教育学部特修美術科卒業。電気機器メーカーにおいて一貫して広報宣伝業務に従事。広報室長・コーポレートコミュニケーション室長を経て、2014年3月退職。  現在、カットス・クリエイティブラボ代表。(一社)日本BtoB広告協会アドバイザー。BtoBコミュニケーション大学校副学長。(独)中小企業基盤整備機構 販路開拓支援チーフアドバイザー
ASICA理論のすべてが分かる
記事検索
  • ライブドアブログ